2018年5月27日「神の子どもたち」

2018527日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ローマの信徒への手紙81217

「神の子どもたち」

 

 

ローマの信徒への手紙81217節《それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。/肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。/神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。/あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。/この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。/もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです

 

 

 

神の霊、人間の霊

 

先週はご一緒にペンテコステ礼拝をおささげしました。ペンテコステは「聖霊降臨日」とも呼ばれ、イエス・キリストが復活された後、弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。これからしばらく、教会の暦では聖霊降臨節が続きます。

 

聖霊とは、言い換えれば、「神さまの霊」ということです。目には見えないこの神さまの霊を、聖書はさまざまなイメージで表しています。風で表現したり、火で表現したり、鳩で表現をしたり。聖霊は、目には見えませんが、さまざまな仕方で私たちの内に働きかけ、私たちと共にいてくださる方です。

 

日本では、「霊」というと、亡くなった人の魂や幽霊のことを思い浮かべることが多いでしょう。聖書でも、「霊」という言葉が聖霊以外にも用いられることがあります。

 

たとえば聖書には《汚れた霊》という言葉が出て来ます。《悪霊》と同じ意味の言葉です。主イエスが《汚れた霊》をお叱りになって、人の中から出てゆかせる場面が福音書に出て来ますね(マタイによる福音書122232節、4345節など)。これら悪霊がどのような存在であるかは様々な解釈が可能かと思いますが、人間にとりついてその人の主体性を奪う否定的な力として、これら霊が描かれています。聖霊とは真逆の働きをする悪しき力として、これら霊が登場するのですね。

 

また、私たち人間の心から発されている想いが「霊」という言葉で呼ばれることもあります。人の想いももちろん、目には見えないものですね。それら想いは目には見えないけれど確かに存在し、自分と他者に大きな影響を及ぼしています。それら想いは肯定的な方向に動いてゆく場合もあれば、否定的な方向に――他者との関係を壊す方向に動いて行ってしまう場合もあります。他者との関係性を破壊する方向に働く「霊(想い)」については、聖書では《人を惑わす霊》などの表現で呼ばれることもあります(ヨハネの手紙一46節)

 

「霊」という言葉は原文のギリシャ語では「プネウマ」という言葉ですが、プネウマには神から出た「聖なるプネウマ(聖霊)」もあれば、私たちの自己中心的な想いから出た「人のプネウマ(人の霊)」もあるのですね。私たちは目には見えない力から様々な影響を受けています。

 

ヨハネの手紙一には《愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい》という言葉があります41節)。私たちは聖霊のお働きについて考えるとき、それが聖霊のお働きであるのか、それとも自分や誰かの想いであるのか、吟味して確かめてゆく必要があるでしょう。

 

 

 

神の子とする霊

 

 本日の聖書箇所は、聖霊のお働きがどのようなものであるのか、大切な指針を私たちに伝えてくれている箇所です。

 

改めて14節以下をお読みいたします。ローマの信徒への手紙81417節《神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。/あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。/この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます》。

 

ここでも、神の霊と人間の霊とが出て来ています。ここでは人間の霊は、《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊》と呼ばれています。人を支配し、恐れに陥れる否定的な力として。

対して、神さまの霊(聖霊)は私たちを《神の子とする霊》であると述べられています。私たちを神さまの子どもとするように働いて下さる力として。

私たちを悪しき力の影響下から解放し、神さまの子どもとして取り戻してくださる神さまの霊。この霊を受けた私たち一人ひとりはいま、神さまの子どもであるということが力強く語られています。私たちを「神の子どもたち」とすること、ここに、聖霊なる主の根本的なお働きの一つがあることが分かります。

 

 

 

人を奴隷として、恐れに陥れる霊 ~力による支配の構造

 

422日の教会総会があった日の礼拝のメッセージで、私たちのいまの社会で起こっている様々な問題の共通点として「力による支配の構造」がある、ということを述べました。

 

連日報道されている森友学園問題、加計学園問題、それに伴う公文書改ざんの問題。また、セクシュアルハラスメントの問題。これら問題には、一部の力のある人の想いや意向(=霊)が、弱い立場にある人々に一方的に押し付けられているという構造があります。押し付けられている側は、それに対して「NO」「嫌だ」と異議を唱えることがゆるされていません。そこには対等は関係はなく、「力による支配」に基づいた主従関係が生じてしまっています。一部の大学スポーツの世界でも、そのような状況になっていることが現在、ニュースを通して露わになっています。

 

このような支配の構造というのは、政治やスポーツの世界だけではなく、私たちの身近なところでも、どこでも、起こりうるものであるでしょう。

 

たとえば、親と子の関係において。夫婦の関係において。上司と部下の関係において。教師と生徒の関係において。力によって一方が一方を支配してしまうということが起こり得ます。そのとき、否定的な「人間の霊」が働いてしまっているということができるのではないでしょうか。本日の聖書の表現を用いるなら、少し表現が強烈ですが、「人を奴隷として、恐れに陥れる霊」になり得るものです。一方が自分の「霊(想い、意向)」を無理やり相手に強要しようとするとき、その「霊」は相手との関係性を破壊するのみならず、相手の心身に深い傷を与えるように働いてしまうことがあります。

 

 

 

「条件付き」の関係性

 

このような支配‐被支配の関係性における特徴の一つに、それが「条件付き」の関係性であるということがあるように思います。たとえば、支配を受けている側の人が何か素晴らしい成果を上げれば、支配をしている側の人は評価をする。「売り上げが上がったら」「ノルマが果たせたら」」「よい成績をとることができれば」……などなど、その関係性に「もし~ならば」という条件が伴っているのが特徴の一つであるように思います。

 

一方の人は、相手に評価してもらおうと、懸命に努力します。自分が良い結果を出すことができれば、相手は自分を大事にしてくれる、尊重してくれると思うからです。しかしそれは同時に、もしも結果を出すことができなければ、相手は自分を大事にしてくれない、ということをも意味しています。よってそこには、常に恐れが伴うことになります。いつ自分が大事にされなくなるか、いつ自分が切り捨てられるか、分からないからです。そのような恐れを感じながら関係を続けてゆくのは、私たちにとって大変辛く苦しいことです。「もし~ならば」という条件が私たちの人間関係に持ち込まれてしまうとき、そこにはある種の歪みが生じてしまうこととなります。信頼ではなく、恐れによって関係性が保持されている、歪んだ関係性です。

 

 主イエスが生きておられた時代においては、神さまと私たち人間との関係の認識においても、そのような歪みが生じていたようです。私たちが立派な信仰をもてば、神さまは私たちを愛してくださる、という認識(誤解)が定着してしまっていたのです。

 

 立派な信仰があるかないかの試金石となっていたのが、「律法」でした。律法とは旧約聖書に記された神さまの掟のことを言います。律法を守ることができる人は、神に受け入れられ、尊重されると多くの人々が捉えていたようです。ローマの信徒への手紙を記したパウロも、かつてはそうであったようでした。自分が律法を遵守すれば、神さまは自分を受け入れ、愛してくださると考えていたのです。パウロもまた、かつては「もし~ならば」という条件付きの世界を生きていました。

 

パウロはかつて自分を支配していた「霊」を、「人を奴隷として、恐れに陥れる霊」と呼んでいます。若き日のパウロもまた、恐れに支配され続けていたのでしょう。自分が頑張るのを止めたら――律法遵守を果たさなかったら、神さまはもはや自分を愛してくださらなくなるのではないか、という恐怖です。パウロはこの恐れにとらわれ続けていました。パウロにとって、律法を守ることはもはや恵みではなく、重苦しいノルマと化していたと言えるかもしれません。

 

 

 

「無条件」の関係性

 

本日の聖書箇所において、しかしそのような認識は悪しき霊の働きによるであって、神から出た霊の働きによるものではない、ということをパウロははっきりと述べています。神さまの霊(聖霊)は、私たちをむしろ恐れから解放し、私たちを「神の子どもたち」としてくださる霊であるのだ、と。パウロはずっと恐れにとり付かれていましたが、聖霊のお働きによって、神さまとのまことの関係性に目が開かれていったのです。

 

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです》。「アッバ」というのはアラム語で、幼い子どもが父親を親しく呼ぶ言葉であるそうです。「パパ」「父ちゃん」というニュアンスでしょうか。この呼び方は主イエスご自身が生前、実際にそのように神さまに呼びかけていたことに由来しています。主イエスのこの呼び方が、その後、弟子たちの間にも伝えられていったようです。

 

 神さまは主イエスのことを「愛する子」(マタイによる福音書317節)と呼ばれ、主イエスは神さまのことを親しく「アッバ」と呼ばれた。この呼び方からも、神さまと御子イエスの関係が、力による支配の関係ではないことが分かります。ここには支配‐被支配の関係はなく、相互の愛と信頼に基づいた関係があります。

 

 聖霊なる主は、私たちが神さまとこの関係性を結ぶように働いてくださる方です。主イエスが神さまと結んでくださった関係を、私たちも結ぶことができるようにと。

 

この関係性における大切な特徴は、それが「無条件」の関係性であるということです。私たちが立派な信仰をもつからではなく、素晴らしい成果を上げるからではなく、相手をかけがえのない存在としてあるがままに受け入れている関係性です。これは、「もし~ならば」という「条件付き」の関係とは対照的なものです。私たちはこの無条件の世界に出会ってこそ、恐れから解放され、生きてゆく力を得てゆくことができるのではないでしょうか。

 

自分の存在をそのままに、受け入れてもらう経験。私たちは聖霊なる主のお働きを通して、いま、その経験をしています。神さまの愛する子どもとして、神さまの愛に抱かれています。

 

私たちが立派な信仰をもてば、律法遵守というノルマを果たせば、神さまは私たちを愛してくださる、というのは誤解でした。私たちの努力を超えて、無条件に私たちを受け入れ愛してくださっている、というのが神さまと私たちのまことの関係性であったのです。

 

 

 

私たちの関係性の土台に

 

 私たちの日々の生活の人間関係においては、時に「条件付き」となってしまうことはあるでしょう。相手に何らかの成果を望む必要がある場合もあるでしょう。誰かの期待に応えようと懸命になることもあるでしょう。自分や他者に条件やノルマを課すこともあるでしょう。それがすべて悪いというわけではありません。何らかの条件を課し、努力することは、私たちを成長させ前進させる意義を持っています。

 

 ただし、それが「すべて」になってしまったとき、私たちの関係性にはひずみが生じます。大きな苦しみが生じてゆきます。それを「すべて」にするのではなく、私たちの関係性の土台に「無条件」の関係性を据えることが、私たちにとって非常に大切なことであるのだと思います。常に私たちが立ち返ることができる場所、安全基地として、すぐ傍にこの「無条件」の関係性があることが、私たちの何よりの支えになります。関係性の土台に恐れではなく愛と信頼を据えるとき、私たちは喜びをもって、自分らしく活き活きと成長してゆくことができるのでしょう。

 

 願わくは、私たちが互いに、この愛と信頼を育んでゆくことができますように。聖霊なる主のお導きをお祈りいたしましょう。