2018年5月6日「真理の霊が来ると」

201856日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書161224

「真理の霊が来ると」

 

 

ヨハネによる福音書161224節《言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。/しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。/その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。/父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」/

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」/そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」/また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」/イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。/はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。/女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。/ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。/その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。/今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 

 

 

弟子たちの戸惑い ~「何を話しておられるのか分からない……」

 

 本日の聖書箇所は、主イエスが十字架におかかりになる前の晩、弟子たちに対して語られた最後の言葉の一部です。いわば主イエスの告別の言葉であるということができます。

 

弟子たちは主イエスが自分たちに大事なことを語ってくださっていることを感じつつも、その意味を理解することができていません。「何を話しておられるのか分からない……」と戸惑っています(ヨハネによる福音書1618節)。弟子たちが主イエスの言葉の意味を真に理解することができるようになるのは、それからしばらくして後のこと――主イエスが十字架におかかりになり、復活なさってからのことでした。

 

 弟子たちは生前の主イエスの言動の意味を必ずしもその場で理解することができていたわけではなく、――むしろ、そういうことは少なかったようです――時間をかけて、少しずつその意味を理解していったことが分かります。弟子たちは主イエスと宣教の旅を共にしている間、さまざまな教えを受けましたが、その教えを理解することができていなかった。主のお姿が自分たちの目には見えなくなってから、少しずつ、理解することができるようになっていったようです。「ああ、あの時、先生がおっしゃっていたのは、こういう意味だったのだ」、「ああ、あの時の先生の振る舞いにはこういうメッセージが込められていたのだ」……と。

 

私たちも、聖書の言葉を読むとき、それにつながる経験をすることがあるのではないでしょうか。私たちは聖書を読むとき、「何が書いてあるのか分からない」と戸惑うことがよくあります。大事なことが書かれているのであろうことは感じるけれども、その意味は分からない。それからしばらして、ある瞬間、その言葉の意味がよく分かるようになる、という経験をすることがあります。以前は分からなかった言葉が、よく理解できるようになる。実感できるようになる。スーッと心に入って来るようになるという経験をすることがあります。その時私たちは聖書の真理を知ることによって自分自身が変えられる、自身の世界の捉え方自体が変えられてゆくという経験をします。

 

その経験が訪れるまで、時には、何年も、何十年も時間がかかることもあるでしょう。また、分かったつもりでいても、その言葉の意味をさらに新しく発見し続けることもあるでしょう。

 

私も日々の生活において、その繰り返しです。牧師という仕事をしているので、聖書を読む機会がたくさんあり感謝なことですが、聖書の中にはどのように受け止めたらよいか分からない言葉が多く、戸惑うことの連続です。自分は聖書の言葉をまだほんの一部分しか理解できていないことを実感しています。本日の聖書箇所ともなっているヨハネによる福音書は、その際たる書の一つであるかもしれません。記されている言葉の内容があまりに深く、「何が書いてあるのか分からない」と感じることが多々あります。

 

 

 

《真の経験は遅れてやってくる》

 

新約聖書学者の大貫隆という方が記した『聖書の読み方』という本があります。岩波新書で出ている聖書の入門書です(岩波新書、2010年)。この本が面白いのは、「聖書の読みづらさ」から話を始めているところです。聖書は読みづらい本、分かりづらい本であることを踏まえた上で、初めて聖書を手に取る人に向けて、その読み方を提案してくれているのですね。

 

大貫隆先生自身、知識欲に燃えていた大学生の時、聖書全体を通読しようとして、そのおそろしいまでの読みづらさに仰天したそうです。《大学在学中の夏休みを一回か二回費やして、全体を通読することに挑んでみたが、読後感はまるでちんぷんかんぷん、まとまったイメージはまったく結べなかった。道筋がまったく見えない混沌の只中に置き去りにされて、ほとんど茫然自失であった。その後現在まで、当然ながら聖書以外にも大小の書物の読書体験はいろいろある。しかし、読後にあの時以上の方向喪失を覚えたことはない》(同、1頁)

しかしその体験が一つのきっかけとなって、その後聖書を専門的に研究する道に進まれたということですから、面白いですね。

 

大貫隆先生はこの本の中で、《真の経験は遅れてやってくる》ということを強調しておられます。《真の経験は遅れてやってくる。それを慌てず静かに待つことが重要である》(同、17頁)。聖書を読む上で、この姿勢が非常に重要であることを述べています。《即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる》(同、146頁)

 

大貫先生自身、それまで何度読んでもさっぱり意味が分からなかった聖書の言葉が、日常生活のふとした瞬間に、思いもかけぬ仕方で「わかった」と思えた経験があるそうです。皆さんもそういう経験を様々にもっていらっしゃることと思います。ある時突然、聖書の言葉が腑に落ち、何か自分の心の深いところが変えられ、人生や世界の捉え方そのものが変えられたという経験を。

 

《人間は出来事そのものの渦中にいる時は、いま目の前で起きていること、自分が体験していることの本当の意味は了解し切れないものである。少し時間が経過して、つまり「遅れて」、その体験について物語り始める時、あらためて言葉で「作り直す」時、その時こそ、それは真の意味の経験になる。真の経験は遅れてやってくる》(同、147頁)

 

 それは主イエスの弟子たちもそうであったことでしょう。主イエスの真意を弟子たちが理解したのは、主イエスが十字架によって亡くなられ、そして復活されて後のことでした。「真の経験は遅れてやってきた」のです。また、聖書の物語自体が、経験したことの意味を「遅れて」理解する中で、時間をかけて紡がれていったものであることを大貫先生は述べています。

 

私たちの社会では近年、「結果」や「答え」をすぐに求める傾向が強くなってきているように思います。スマホで検索すると、確かに、何でもすぐに情報が与えられます。「問い」に対してすぐに「答え」が与えられるような気がしてきてしまいます。

 

そのような中にあって、《即答を求めない》姿勢、《真の経験は遅れてやってくる》ことを信じ、忍耐して待つという姿勢を改めて思い起こすことが求められているのではないでしょうか。

 

分かりづらい聖書の言葉の前に踏みとどまり続けること。自分の違和感をむしろ大切にすること。時に休みながらも、自身の「問い」に向かい合い続けることが大切であると思います。

 

 

 

聖霊なる主のお働きによって

 

本日のヨハネによる福音書の主イエスの言葉の中でも、《真の経験は遅れてやってくる》ことが述べられています。主イエスが語られた様々なことをその時、弟子たちは理解することができませんでしたが、後に理解することができるようになります。そしてそのことを成し遂げてくださる聖霊の働きについて語られています。聖霊――言い方を変えると、《真理の霊》のお働きです。ヨハネによる福音書では《弁護者》とも呼ばれます1416節、167節など)

 

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。/しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである(ヨハネによる福音書161213節)

 

弟子たちに真理を悟らせてくださる方、それがこれから来られる聖霊であるとヨハネ福音書は述べています。その聖霊なる主の働きを通して、弟子たちは生前の主イエスの言動を真に理解することができるようになり、その救いの御業を十全に経験することができるようになってゆくのです。

 

教会には、私たちが聖書の言葉の意味を理解できるのは聖霊の働きによる、という信仰があります。私たちの力ではなく、私たちを超えた力によって、――時に思いもかけぬ仕方で――真理が与えられ、イエス・キリストについて教えられるのだ、と。

 

聖霊なる主への信頼があるからこそ、私たちは聖書の「分かりづらさ」にとどまり続けることができる。自分自身の人生の「問い」にとどまり続ける勇気が与えられるのだ、ということができるでしょう。

 

そのために私たちは、自分自身のことでついついいっぱいになってしまう自分の心を開き、聖霊の風を受け入れる用意をしておくことが求められています。いつでも自分が「変えられる」ことの準備をしておくこと。「真理を教えてください」と聖霊なる主に助けを祈り求め続けることが求められているように思います。

 

 

 

たとえいまはまだ分からなくても

 

 本日の聖書箇所において、弟子たちは悲しみの中にいました。愛する主イエスとの別離が近いことを感じ、困惑と悲しみのただ中にいました。その弟子たちに、主イエスは喜びについて語ってくださいました。真の喜びは遅れてやってくることを語っていてくださったのです。

 

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない(ヨハネによる福音書1622節)

 

 自分はこの後、再びあなたがたと会う。その時、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びはもはや何者によっても奪い取られることはない、と。

 

私たちは生きている中で、さまざまな悲しみを経験します。その只中にいるときは一体自分の身に何が起こっているのか分からなくなります。悲しみと、「なぜ……」という激しい困惑の中で、時に、生きていることの意味そのものが分からなくなってしまうこともあります。

 

そのような私たちに、主イエスは、「喜びは遅れてやって来る」ことをあらかじめ語ってくださいました。

 

いまを生きる私たちには、いまだ分からないことが様々にあります。「なぜ……」と問いたいことがたくさんあります。時になぜ自分がここにいるのか、なぜ生きているのか、その意味を喪失してしまうこともあります。

 

復活の主はそのような私たちのすぐ傍らにいつもいてくださり、悲しみも戸惑いも受け止めてくださっています。そして私たちの心が悲しみではなく喜びで満たされるように、聖霊の風を送り続けてくださっています。私たちが真理を知り、生きていることの喜びで、その心が満たされるように――。私たちが悲しむのではなく、喜びをもって生きることこそが、主の願いであると信じています。

たとえいまはまだ、色々なことが分からなくても、聖霊なる主の助けがあることを信頼し、共に歩み続けてゆきたいと願っています。