2018年6月3日「大胆に神の言葉を」

201863日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:使徒言行録41331 

大胆に神の言葉を

 

 

使徒言行録41331節《議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。/しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。/そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、/言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。/しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」/そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。/しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。/わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」/議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。/このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。/

さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。/これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。/あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。/地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』/事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。/そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。/主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。/どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」/祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした

 

 

 

聖霊のお働き ~私たちが主体性を取り戻すように

 

 私たちは現在、教会の暦で聖霊降臨節の中を歩んでいます。聖霊なる神さまのお働きを心に留めつつ、歩む時期です。聖霊とは、「神さまの霊」ということです。キリスト教は伝統的に、天の神、御子イエス・キリストと共に、聖霊を信じる対象としています。キリスト教に由来する言葉として、「三位一体(さんみいったい)」という言葉もありますね。

 

  先週も少しお話ししましたように、聖書に出て来る「霊」は、聖霊だけではありません。聖書には聖霊以外の「霊」の存在について記されています。たとえば福音書には《汚れた霊》や《悪霊》と呼ばれる存在が登場します。先ほどお読みいただいた聖書箇所にも、主イエスが人々の内から《悪霊》を追い出す場面が出て来ました(マルコによる福音書12934節)

 

これら《汚れた霊》や《悪霊》がどのような存在であるかは、様々な解釈が可能です。現代の私たちからすると、何らかの精神の病いに相当する症状が、《悪霊》の仕業だとされていた場合もあったでしょう。一方で、中には、現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しいような事例もあったかもしれません。福音書に記されている「悪魔祓い」の物語は、いまを生きる私たちにとってどのように受け止めたらよいのか難しいものです。

 

様々な解釈ができる《汚れた霊》や《悪霊》ですが、これら「霊」がどのような働きをする存在なのかについて、一つ言えることがあります。それは、これら存在が私たちから「主体性を奪う」働きをしているということです。福音書に登場する悪霊に取りつかれた人は、何らかの要因によって主体性が奪われてしまっている人々であるということができます。主体性が奪われるということは、私たちにとって、最も苦しいことの一つです。

 

主イエスはその人の内から《悪霊》を追い出すことによって、その人の主体性を回復し、囚われの状態から解放してくださいました。そして聖霊とはまさに、主イエスがかつてなさってくださったように、私たちの主体性を回復させてくださるよう共に働いてくださる方ということができるのではないでしょうか。聖霊なる主のお働きの一つとして、私たちに主体性を取り戻し、囚われの状態から解放してくださることがあると思います。

 

聖書における《悪霊》とは、私たちを支配し私たちから主体性を奪うようにと働く、何らかの否定的な力である。対して、聖霊とは私たちが主体性を取り戻すようにと働いてくださる、積極的・肯定的な神の力である。そのように区別をすることもできるように思います。どちらも目には見えない力ですが、その働きはまったく対照的です。

 

 

 

主体性のはく奪 ~ものが言えない状態

 

 主体性が奪われることは、私たちにとって、最も苦しいことの一つであるということを述べました。主体性が奪われている状態、言い換えれば、「自分らしさ」が失われている状態。これらは私たちにとって大変辛いことです。自分の想いや考えが尊重されない状態。有無を言わさず、誰かの想いを強制されている状態。これらは私たちにとって苦しいことですが、私たちは日々の生活の様々な場面で、これに通ずる経験をしていることでしょう。周囲の人々や組織からそのような状況に追いやられることもあるでしょうし、私たち自身が誰かをそのような状況に追いやってしまっていることもあるかもしれません。そのような時、私たちは知らずしらず、何らかの否定的な「霊」の支配の影響を受けている、ということができるかもしれません。

 

一人ひとりの主体性が重んじられているかどうか、そのことを判断する指標として、「自由にものが言えるかどうか」ということがあるように思います。その場にいる各自が、自分の内にある想いや考えを率直に言うことができるか。異なる意見も自由に言うことができる場になっているか。もし必ずしもそうではないのだとしたら、その場において、誰かの主体性が奪われてしまっていると判断することができるでしょう。

 

自分の内にある本当の想いが抑え込まれた状態というのは、私たちにとって非常に苦しいことです。この苦しい状態が、しかし私たちの社会のさまざまなところで生じてしまっているように思います。また、誰かの想いを強要されている内に、自分で自分の本当の気持ちが分からなくなってしまうということもあるでしょう。自分自身が失われてしまった状態――これは私たちにとって、大変辛いことであり、心身に深刻な影響を与えていってしまうものです。

 

 

 

山本七平氏『「空気」の研究』

 

 作家の山本七平氏が記した『「空気」の研究』という本があります(文春文庫、1983年)。ここで言う空気とは大気としての空気はなく、私たちが造り出す「場の空気」のことです。今から35年前に出た本ですが、現在の私たちにとっても切実な意義をもつ本であると思います。

 

山本七平氏はこの著作において、「場の空気」がいかに私たちに大きな影響を及ぼしているかということを考察しています。私たちがいかに、その「場の空気」の影響を受け、それに支配されてしまっているか。ここでの「空気」とは《人びとを拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」乃至は「呪縛」、いわば「人格的な能力をもって人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」》(『「空気」の研究』、57頁)であると山本氏は述べています。

 

心の中にあった想いや考えを「あの場の空気では口に出せなかった」という経験を私たちはたくさんしたことがあるでしょう。私たちは日々の生活の中で、知らずしらず、この目には見えぬ「空気」に大きな影響を受けています。山本氏は特に私たちの日本という国においてその特徴が顕著であると述べています。確かに、私たち日本に住む者がついつい最重要視してしまうのが、「場の空気」というものです。2007年には「KY(『空気が・読めない』のイニシャル文字)」という言葉が流行語大賞に選ばれたことがありました。あれから10年ほどが経ちましたが、いまだ私たちの社会では、「空気を読む」ということが重視され続けています。「空気が読める」ということが美徳とされ、「空気が読めない」ということが否定的に捉えられている傾向が、より強まっているようにも感じます。

 

 

 

空気の支配

 

『「空気」の研究』で興味深いのは、山本七平氏が「空気」を聖書の「霊」という言葉と結びつけて捉えているところです。「霊」はギリシャ語では「プネウマ」という言葉で、もともと持っているニュアンスは「風」や「息」です。聖書に出て来る「プネウマ」には神から出る聖なるプネウマ(聖霊)もあれば、人から出て来るプネウマ(人の霊、《汚れた霊》)もあります。山本氏は人から生じ、人を拘束するプネウマを「空気」として捉え直しているのですね。冒頭で《悪霊》について少し触れましたが、たとえばこの《悪霊》を私たちの人間関係や社会を支配している「空気」のようなものとして捉えてみると、少し理解しやすくなるかもしれません。

 

「空気を読む」ことは私たちのコミュニケーションを円滑にしますし、もちろん、良いように働く面はあります。一方で、「空気を読みすぎる」ことの弊害もあります。そこにいる人が「場の空気」に支配され、主体性が奪われてしまうという弊害です。自分の率直な想いを口に出来ない。言うべきことを口にすることができない。個々人が「空気」に支配され、自由にものが言えなくなる、という事態が生じてしまうのです。

 

この「空気の支配」は、時に、私たちの社会に大きな惨禍をもたらすことにつながってしまうことがあります。山本七平氏は日本がアジア・太平洋戦争に突入したことも、その後無謀な戦いを止めることが出来なかったのも、この「空気」が大きく作用していた、と分析しています。内心「この戦争は負けるのではないか」と思っていても、国民はそれを口にすることができなかった。そのような「空気」に国全体が覆われていたからです。もしその「空気」に水を差すような言葉を口に出したら「非国民」と非難されることになります。

 

またそれは戦争の指導者たちの間でも同様であり、内心「この戦争は負ける」と思っていても、その場の「空気」に支配され、誰もそれを口に出すことができなかった。そうしていつしか思考停止状態に陥っていったと山本氏は分析しています。この《悪霊》に国全体が支配されてしまった結果、世界中にどれほどの惨禍がもたらされたことでしょうか。

 

 

 

「空気を読まなかった」主イエス

 

福音書を読んでいて分かることは、イエス・キリストは「空気を読まなかった」ということです。主イエスの独特な言葉遣いに「はっきり言っておく(原文ではアーメン)」というものがあります。主イエスは「はっきり言っておく」とおっしゃった後、ほぼ必ず「空気を読まない」発言をされています。しかしそれこそが、その場において言うべき言葉、真理に基づいて発された言葉でありました。ファリサイ派や律法学者や宗教的な権力者たちにとっては、主イエスは明らかに「KY『空気が・読めない』」な存在(!)として映っていたことでしょう。

 

山本七平氏は、「場の空気を壊す」一言を、「水を差す」一言と表現しています。空気の支配が最も忌み嫌うのが「水を差す」一言ということでもありますが、勇気をもって発言されたその一言が、場の空気を変えてゆく働きを果たします。主イエスの真実に基づいた言葉は、当時の社会の構造とそこに充満する空気に「水を差す」働きを果たしていった、ということができます。私たち一人ひとりに自由を取り戻し、尊厳を回復させるため、主イエスはあえて「空気を読まない」言葉を発し続けてくださいました。

 

 

 

大胆に神の言葉を

 

 本日の聖書箇所では、聖霊に満たされたペトロとヨハネが《大胆に》神の言葉を人々に語り伝える場面が描かれています。宗教的な権力者たちから黙っているように圧力をかけられる中で、それでもなお、活き活きと福音について語り続ける弟子たちの姿が印象的です。「空気を読まず」に真理を語り続けた主イエスの姿勢を、弟子たちもまた継承していったことが分かります。

 

 しかしその彼らも、以前はそうではありませんでした。皆さんもよくご存じのように、主イエスが捕らえられた際、男性の弟子たちは主イエスを見捨てて逃げて行ってしまいました。ペトロも主イエスを「知らない」と否認しました。恐れと「空気」に支配され、彼らは言葉を発することもなく家の中に閉じこもっていたのです。

 

 使徒言行録では、その弟子たちが変わったのは、彼ら自身の力によるのではなく、聖霊の力によるのだと語られています。物言えぬ「空気」の中にあって、聖霊に満たされた弟子たちは、《大胆に神の言葉を》語るよう導かれてゆきました(使徒言行録431節)

 

《大胆に》という言葉は、「率直に」とも訳すことができる言葉です。この語は元来は、《あらゆることを言える自由》を表している語であるそうです(ギリシア語新約聖書釈義事典Ⅲ、教文館、1995年)。恐れと「空気」の支配から解放され、あらゆること自由に――とりわけ、自分が心から大切に思っている事柄、心から確信している事柄を、自由に話すことができる。その率直さ、大胆さを、自由を、そして喜びを、弟子たちは聖霊なる主を通して与えられてゆきました。

 

 私たちの社会のさまざまなところに、私たちの身近なところにも、否定的な「空気」の支配はあります。物を言えなくさせる「空気」の影響を私たちは知らずしらずの内に受け続けています。そのような中にあって、私たちはこれら否定的な「霊」の働きに気づき、その支配の中に取り込まれ続けることのないよう、「神さまの霊」の助けを祈り求めることが大切でありましょう。

 

一人ひとりに主体性を取り戻し、自由を取り戻し、言葉を取り戻してくださる聖霊なる主に、ご一緒に助けを祈り求めたいと思います。