2018年7月22日「違いがありつつ、一つ」

2018722日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一121426 

違いがありつつ、一つ

 

 

 

コリントの信徒への手紙一121426節《体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。/足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。/そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。/すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。/だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。/目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。/それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。/わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。/見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。/それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。/一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです

 

 

 

続く猛暑

 

 全国的に、異常な暑さが続いています。岩手も連日3134度の気温が続いています。皆さまのお身体のお具合は大丈夫でしょうか。総務省消防庁によりますと、9日から15日の熱中症による救急搬送は全国で1万人近く、亡くなった方々もおられるということで、大変痛ましいことです。これからもしばらく猛暑が続くようですが、どうぞ皆さまもお体にはお気を付け下さい。礼拝堂の中はエアコンはついておりますが、礼拝中、もしもお具合がすぐれないことがありましたら、我慢せず、遠慮なくおっしゃってください。また帰り際は、ぜひお茶でのどを潤してからお帰り下さい。

 

西日本豪雨の被災地も、厳しい暑さが続いているとのこと、どうぞ被災された方々、復旧作業やボランティアに従事してくださっている方々の健康が守られますよう祈ります。

 

学生の皆さんはこれから夏休みに入ってゆくと思いますが、どうぞ充実した夏休みをお過ごしください。

 

 

 

吉野弘さんの詩『生命は』

 

 はじめに、詩を一つご紹介したいと思います。詩人の吉野弘さんという方の『生命は』という詩です。

 

《生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられている

 らしい

 花も/めしべとおしべが揃っているだけでは/不充分で

 虫や風が訪れて/めしべとおしべを仲立ちする

 生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうの  

 だ

 

 

 世界は多分/他者の総和

 しかし/互いに欠如を満たすなどとは/知りもせず

 知らされもせず/ばらまかれている者同士

 無関心でいられる間柄

 ときに/うとましく思うことさえも許されている間柄

 そのように/世界がゆるやかに構成されているのは/なぜ?

 

 花が咲いている/すぐ近くまで

 虻の姿をした他者が/光をまとって飛んできている

 

 私も あるとき

 誰かのための虻だったろう

 

 あなたも あるとき

 私のための風だったかもしれない》(『ポケット詩集Ⅱ』、童話屋、2001年、6669頁)

 

 

 この詩は、《生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい》という言葉で始まります。たとえば、植物の花。花は、めしべとおしべだけでは不充分で、虫や風が訪れて、めしべとおしべを仲立ちすることによって、完結する。そのように、造られている。《生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ》と語られています。

 

それは、わたしたちもまた、そうでありましょう。私たちは自分の中に欠点と思えるところや、弱さと思えるところを持っています。それぞれが、そのように足りない部分を抱えているわけですが、共に生きてゆく中で、その足りない部分を互いに満たし合っています。

 

しかし多くの場合、その支え合いは、私たち自身は気づかないうちに、知らず知らずのうちになされているものであるのかもしれません。私たちは気が付かないうちに誰かに支えられ、また、誰かを支えているのかもしれません。

 

詩の最後は、印象的な一文で閉じられます。《私も あるとき 誰かのための虻だったろう/あなたも あるとき 私のための風だったかもしれない》。

 

普段の慌ただしい生活の中で忘れてしまいがちな大切なことを、フッと思い起こさせてくれる詩です。私たちは互いに足りない部分を補い合いながら生きている、それが「共に生きる」ことであるということを、私たちは日々の生活の中で、気が付くと忘れてしまっていることが多々あるのではないでしょうか。

 

 

 

「体」のたとえ ~神さまの目から見た私たちの関係性

 

 この詩に通じることを語っているのが、さきほどお読みした聖書の言葉です。新約聖書のコリントの信徒への手紙一の中に記された言葉です。この手紙を記したのはパウロという人物ですが、パウロはここで私たち人間の「体」をたとえとして用いています。

 

 改めて、前半の部分を読んでみましょう。コリントの信徒への手紙一121422体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。/足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。/そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。/すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。/だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。/目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。/それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです》。

 

 私たちの体が一つですが、多くの部分からなっています。そしてそれら体の各部分は、それぞれが固有の役割を果たしながら、互いに働きを補い合っています。手紙の著者であるパウロは、私たちもまたそのような関係性にあるのだ、と語っています。

 

中に、ユニークな表現も出てきました。目が手に向かって「あなたは要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「あなたたちは要らない」とも言えません21節)

 

体の部分にはそれぞれに「違い」があり、それぞれが自分にしかできない役割を果たしている。ですので、ある部位が他の部位に「あなたは要らない」ということは言えないのはもちろんのことです。それは私たち自身もまたそうなのだ、ということをパウロは伝えています。私たちはそれぞれ、自分にしかできない役割を果たしている。ある人がある人に対して、「あなたは要らない」ということは、本来、できない。私たち一人ひとりには、神さま(聖霊)から、かけがえのない役割が与えているというのがパウロの受け止め方でした。神さまの目から見ると、私たちの関係性とはそのように映っているのだとパウロは信じていたのです。

 

 

 

私たちの社会の「排外主義的」「全体主義的」な傾向

 

パウロがこの手紙を記したのは、今から2000年近く前のことです。大昔に書かれた文章ではありますが、これら言葉はいまも私たちにとって新鮮なものであり続けているのではないでしょうか。パウロがここで書いていることを、私たちは日々の慌ただしい生活の中で、気が付くと忘れてしまっているものです。

 

 自分独りで生きているような気持になることもあるし、心の中である人に対して「あの人はいらない」と思ってしまうこともあるでしょう。心の中でそのように思ってしまうこと自体が悪いことなのではありません。誰しもが、そのような気持ちになることはあります。

 

 注意すべきことは、自分とは相いれない他者を、「あなたは要らない」と簡単に切り捨ててしまうことが、私たちが生きる社会の当たり前の価値観になってしまってはいないか、ということです。自分の一方的な物差しをもって他者を判断し、自分とは異なる人々を「あなたたちは要らない」と排除してしまうこと。これは、先ほどのパウロの文章では、目が手に向かって「あなたは要らない」と言ってしまっているようなことであり、本当に大切なことが見失われてしまっている状態です。しかし残念なことに、私たちの社会では現在、さまざまな場面でそのような状況が起こってしまっているように思います。少し難しい言葉で言いますと、社会が「排外主義的な」傾向を帯びてきているように思います。

 

また、パウロのたとえには出てこない表現ですが、私たちの社会では、「あなたも自分と同じになれ」と他者に強要してしまうことも起こっているのではないでしょうか。それはまるで目が手に向かって、「あなたも目になれ」と言うようなものですが、そのような状況がさまざまな場面で起こっています。少し難しい言葉で言いますと、「全体主義的」な傾向を帯びているということができます。自分とは異なる他者を自分と同一化させようしてしまうことも、私たちの社会では絶えず起こっていることです。

 

 「あなたは要らない」と言う「排外主義」も、「あなたも自分と同じになれ」と言う「全体主義」も、どちらも「違い」を否定しようとする点で共通しています。自分とは異なる他者を否定しようとする、その固有性=かけがえのなさを否定するという点で共通しています。それは、聖書が伝える私たち人間のあり方とは異なるものです。

 

 聖書は、私たち一人ひとりは、神さまからかけがえのない存在として創られていると語っています。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。私たちは一人ひとり、かわりがきかない存在として神さまに創られた。だからこそ、大切であるのです。必要のない人というのは決して存在しません。それぞれが、神さまから大切な役割を与えられているのです。

 

 

 

聖書が語る「一つ」 ~違いがありつつ、一つ

 

聖書が語る「一つ」とは、違いを排除したり、すべてを同一化したりしてしまうことではありません。そうではなく、固有性=かけがえのなさを保ちつつ、「一致」する――「違いがありつつ、一つ」であること、これが聖書が語る「一つ」です。体の各部分が「違い」がありつつ「一つ」であるように、私たちもまた「違い」がありつつ「一つ」であるのだ、と。

 

神さまは私たち一人ひとりにかけがえのない役割を与えて下さり、私たちが独りぼっちで生きてゆくのではなくて、互いに補い合い、支え合って生きてゆくことができるようにしてくださいました。 私たちの人生に、「共に生きる」ことの喜びを与えてくださいました。もしも――あり得ないことですが――完璧で、何も足りない部分がない人がいたとしたら、その人はその分、孤独であることでしょう。

 

 

互に弱さを受け止める中で

 

 最後に、次のパウロの言葉に注目してみたいと思います。《体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです22節)

 

パウロは、私たちが「違いがありつつ、一つである」ために、大切な役割を果たすのは「弱さ」であると述べています。弱さは「要らない」ものである、というのは誤った考え方であり、そうではなく、私たちの目に弱く見える部分こそが、なくてはならない役割を果たしてくれているのだ、と語っています。なぜなら、弱い部分があることで、私たちは、互いに配慮し合うことを学んでゆくからです。相手をいたわり思いやることを学び、互いの個性を尊重することを学んでゆくからです。《それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています25節)。弱さを受け止める中で、私たちの間には分裂が起こらず、「共に生きる」道が切り開かれてゆきます。

 

 どうぞ私たちが互いの弱さを受け止めあい、互いを尊重してゆくことができますように。そうして、「共に生きる」ことの喜びを胸に、これからも歩んでゆくことができますようにと願います。