2018年7月29日「自分の足で、まっすぐな道を」

2018729日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヘブライ人への手紙12313 

自分の足で、まっすぐな道を

 

 

 

ヘブライ人への手紙12313節《あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。/あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。/また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。/なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」/あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。/もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。/更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。/肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。/およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。/だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。/また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい

 

 

 

《万事が益となるように共に働く》という受け止め方

 

 そのときは苦しくて大変だったけど、後から振り返って見ると、自分にとって大切な意味があったことに気づくということがあります。皆さんもそのような経験を様々にしてこられたのではないかと思います。

 

古今東西、そのことについて語られたさまざまな格言があります。「雨降って地固まる」ということわざもありますね。困難や苦しみにも意味があるのだという受け止め方。聖書の中にも、それに通ずる視点の意味の言葉が幾つもあります。たとえば、新約聖書のローマの信徒への手紙に記された《万事が益となるように共に働く》という言葉828節)。すべての出来事は、私たちの益となるように働く、という意味の言葉です。私たちの目には無駄のように見えることにも、苦しい経験にも、すべて意味がある、神さまはそのように計画をしてくださっている。そのように神への信頼を語った言葉で、この言葉を人生の支えとしている方もいらっしゃることでしょう。

 

他にも、旧約聖書の格言集である『箴言』には《わが子よ、主の諭しを拒むな。/主の懲らしめを避けるな。/かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる》という言葉があります31112節)。人生の中で苦しい経験をしているとき、それは自分を成長させるために神さまがその試練を与えてくださっているのだと受け止めなさい、という格言です。神さまはあなたを大切に想っているからこそ、いま厳しい鍛錬をあなたに課しているのだ、という受け止め方ですね。古代イスラエルの人々はそのような受け止め方をすることで、困難を乗り越えようとしてきたのでしょう。

 

先ほどお読みした新約聖書のヘブライ人への手紙はこの箴言の格言を引用しつつ56節)、次のように語っています。《およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです1211節)。苦難というものはそのときは喜ばしいものではなく悲しいものと思われるものだけれど、後になると、その経験が平和に満ちた実を結ばせる、という意味の言葉です。だから、《自分の足でまっすぐな道を歩きなさい》と手紙の著者は読む者を励まします13節)。この聖書の言葉も、実感をもって受け止めることができる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

ただし、私たちは困難のただ中にいる最中は、「すべての出来事には意味がある」「人生には無駄な経験などない」と言われてもなかなか受け入れることができないものです。何か俯瞰の視点からそうアドバイスされるよりも、むしろ同じ目線に立ってくれて、傍らでウンウン唸りながら一緒に悩み苦しんでもらえたとき、むしろそれが心の支えとなることがあるでしょう。

 

また、私たちは生きてゆく中で、どうしてもそれが恵みであるとは思えない経験をすることがあります。どうしてこのようなことが起こったのか、どうしても理解できないような、辛く悲しい経験をすることもあります。たとえば大きな災害が起こった時。私たちはそれを恵みであるとは受け止めることはできません。

 

《万事が益となるように共に働く》という言葉は、あくまで、本人が実感するための言葉としてあるのでしょう。あの苦しい経験にも意味があったのだと思うことができるのは、それを経験した本人だけです。それは人から教えられるものでも、人から押し付けられるものでもありません。私たちはすべての経験を、意味があったと無理に受け止めることができなくてもいい。しかしそれでもなお、苦しかったその経験の中に意味を見出し、何らかの光を見出すことができるなら、それはまことに素晴らしく、尊いことであると思います。

 

 

 

個人的な経験 ~「よい」という語りかけ

 

 少し私個人のお話をさせていただきますと、私も、そのように実感する経験をしたことがありました。当時はとても苦しかったけれども、振り返って見るとそれが自分にとってなくてはならないものであったと実感する経験です。

 

 大学3年生から4年生にかけて、心の調子を崩した時期がありました。そこにはさまざまな要因が関わっており、ひと言で理由を説明するのは難しいことでもありますが、いま振り返ると、抑うつ状態が生じていたように思います。大学授業にもしばらく出ることができず、そのようなこともあって1年留年することになりました。

 

 その時の心境をたとえると、まるで暗い地下道を下りていっているような感覚でした。または、暗い井戸の中、階段を一段一段降りてゆく感覚と言いましょうか。自分の心の底の方に深く潜ってゆくような経験。それはとても苦しい経験でしたが、その一番苦しかった時期に、自分にとってとても大切な経験をしました。それは、イエス・キリストと出会ったという経験でした。

 

そのとき、私は、復活したイエス・キリストから、「あなたが、あなたそのもので、あって、よい」と語りかけられたように感じました。

 

 私という存在そのものが、いま、大いなる存在から祝福されている。いま・ここで、心、体、魂をすべて含めた私そのものとして、神さまから祝福されている。わたしはわたしそのもので、あって、よいのだ、と思いました。

 

私たちにとって最大に価値あること、それは、私たちがいま・ここに存在していること。私にとって、世界の見え方が根本から変えられるような経験でした。私にとっての、目からウロコのようなものが落ちた(使徒言行録918節)経験です。

 

 旧約聖書の創世記に、天地創造の際、神さまがご自分が造られた一つひとつの存在を御覧になって「極めて良かった」とおっしゃったという場面が出て来ます131節)。その「よい」という神さまの声が、いま、自分を貫いているように感じました。神さまの「よい」という祝福の声は、天地創造のはじまりの時だけではなく、いまこの瞬間も、私たち一人一人の存在を包んでいるのだと思いました。それは、私にとって、暗い穴の底に泉を見出したような経験でした。

 

 それまでの私は、何か自分が存在していること自体が何か「悪い」ことであるかのような気持ちをずっと抱えていました。キリスト教には「原罪」という言葉があります。私たちは生まれながらに罪をもっている存在であることを示す言葉です。それまでの私は、心に罪悪感を抱きながら生きていました。

 

けれども、「よい」という言葉と出会ったことにより、私はずっと自分の心をしばっていた「原罪」という言葉の呪縛から解放された想いがいたしました。

 

確かに私たちは過ちを犯すし、さまざまな弱さをもっています。確かに私たちは罪深い存在でもあるでしょう。けれども、私たちの存在していること自体は、「よい」ものである。私たちの存在そのものは、神さまの目に「極めてよい」ものとして映っていることを確信しました。

 

 この経験が、現在の私の価値観の根幹を形成するものとなっています。大学も行かず部屋に閉じこもっていた最も苦しいあの時期。大変苦しい時期でしたが、あの時期があったからこそ、「よい」という言葉との出会いがあったのであり、現在の私もあるという意味で、あの苦しい時期も自分にとってなくてはならない経験であったのだと受け止めています。

 

 

 

相模原障害者施設殺傷事件から2

 

以来、この「よい」という声を何とかして伝えたいと思って、自分なりにできることをしてきました。文章を書いたり、このように礼拝の中でメッセージをしたり、また人と直接会ってお話ししたり……。

 

一方で、改めて思わされているのは、私たちの生きる社会において、いかにこの「よい」という声が見失われてしまっているか、ということです。むしろ、それとは正反対の声が力を奮っていることを痛感させられます。それは、私たちは存在しているだけでは「駄目」なんだ、という声です。私たちは何かよい働きができないと、社会的に有用な働きができないと生きている価値はない、という声。それら否定的な声が私たちの心を縛りつけ、生きる力を失わせてしまっているように思います。

 

 3日前、相模原障害者施設殺傷事件から2年を迎えました。2016726日未明、相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で19人の入居者の命が奪われ、26人が重軽傷を負うという大変痛ましい事件が起こりました。それから2年を経ちました。ご遺族の方々、この事件によって傷つけられたすべての人の上に、主よりのお支えをお祈りいたします。

 

皆さんもよくご存じのように、この事件においては事件の残虐性とともに、犯人の「障害者はいないほうがいい」という言葉が社会に大きな衝撃を与えました。重い障がいをもった人々は安楽死させた方がいい、それが社会のためになるという、決してゆるすことのできない考えです。2年経っても、被告はこの信念を変えていない、と報じられていました。

 

「優生思想」という言葉があります。自分の一方的な「ものさし」によって、人を「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する思想です。決して容認することができない考え方ですが、被告はこの優生思想に基づいて犯行を行いました。

 

この事件との関連性をよく指摘されたのが、ナチス・ドイツの政策です。ナチス・ドイツは1939年から1941年にかけて、優生思想に基づいた「T4作戦」と呼ばれる政策を実施しました。障がいをもった人々を安楽死させるという政策です。結果として、ナチスは1520万人もの人を安楽死施設に送り、処刑したと言われています。虐殺の対象となった人々は初めは障がいをもつ人々でありましたが、やがて病人や同性愛者など、当時のさまざまな社会的な弱者とされた人々にその対象が拡大されていきました。そうしてその次に行われた政策がホロコースト、ユダヤ人の大虐殺でありました。

 

ナチス・ドイツは「生きるに値しない命」というフレーズを用いていたそうです。まことに恐ろしい言葉です。いったい何をもって、そのように人の価値を決めつけているのか。一つの基準として、「生産性」ということがあったでしょう。生産性をもたない人間は生きるに値しない、そのように考えていたようです。

 

 

 

私たちの社会が抱える病理

 

 ナチスの思想というのは、確かに極端なものであるかもしれません。しかしいまの私たちの社会はどうでしょうか。これら優生思想に通ずる価値観が、社会を覆ってはいないでしょうか。相模原の事件の被告の言動は、私たちの社会が抱える病理と切り離し難く結びついていると思えてなりません。

 

 自民党の杉田水脈(みお)議員が雑誌『新潮45』に寄稿した文章の中の「LGBT(性的少数者)のカップルは子どもをつくらない、つまり生産性がない」という内容の言葉が、現在大きな問題となっています。27日には自民党本部前で杉田議員の辞職を求めるデモも行われました。LGBT(性的少数者)の方々の尊厳を傷つけるこの差別的な言動を、私たちは決してゆるすことはできません。

 

この杉田議員の言葉は相模原事件の被告やナチスの優生思想とつながっているという指摘もなされています。杉田議員の発言に見え隠れしているのは、国家に貢献する人は価値がある、そうではない人は人としての価値がない、という考え方です。この杉田議員の言葉も、私たちの社会が抱える病理の一端が表出したもの、と受け止めることもできます。社会や国家に対して(たとえば経済的に)有用な働きができる人は価値があり、そうではない人には価値がないとみなす、過った考え方です。

 

 

 

存在していることこそが最大の価値

 

聖書は、神さまが私たち一人ひとりを「極めてよい」ものとして創ってくださったことを語っています。神さまの目から見て、私たち一人一人の存在が大切な、「かけがえのない=替わりがきかない」ものであることを語っています。神さまの目に、いない方がよい人など、一人として存在しません。何か有用な働きができないと価値がないという考え方は、イエス・キリストが伝えてくださった福音とは正反対のものです。

 

 私たちがいまここに「いる」こと、存在していること自体が最大の価値であるという視点を、今一度取り戻してゆきたいと切に願います。「よい」という声をこそ私たちの社会の土台に据え、共に歩んでゆけるよう願っています。