2018年8月12日「新しい人を身に着け」

2018812日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙41732 

新しい人を身に着け

 

 

 

エフェソの信徒への手紙41732節《そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、/知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。/そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。/しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。/キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。/だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、/心の底から新たにされて、/神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。/

 

だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。/怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。/悪魔にすきを与えてはなりません。/盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。/悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。/神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。/無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。/互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい

 

 

 

平賀大典さん記念会、教会学校夏期学校

 

 台風が過ぎ去り、再び厳しい暑さが続いています。皆さんのお身体は大丈夫でしょうか。お盆休みの時期になり、帰省をされている方やお墓参りをされたという方も多いことと思います。私も明日から3日間、妻の実家の山形の酒田に帰省する予定です。

 

 昨日は花巻教会員であった平賀大典さん召天7周年の記念会がご家族・ご親族の皆さまによって行われました。花巻教会からは、私と妻が出席いたしました。

平賀大典さんは私が花巻教会に着任する前年の2012年に天に召され、私は直接お会いすることができませんでしたが、皆さまのお話を伺いながらそのあたたかなお人柄に触れることができました。会の最後には、大典さんの愛唱賛美歌『山路こえて』を皆さんで賛美しました。ご家族・ご親族の皆様、大典さんにつながる皆さまの上に主のお支えがありますようお祈りいたします。

 

 一昨日の10日(金)は、教会学校の夏期学校を行いました。礼拝をささげた後、皆でバーベキューを行いました。台風の影響で雨と風が心配でしたが、当日は朝から快晴。雨と風の心配もなく、皆でバーベキューを楽しみました。子どもと大人を合わせて11名の参加がありました。

 

 

 

翁長雄志知事逝去

 

 先週もさまざまなニュースが報道されていました。8日(水)には皆さんもよくご存じの通り、沖縄県の翁長雄志知事が天に召されました。ご家族やご友人、翁長さんにつらなるすべての皆さまの上に主の慰めをお祈りいたします。

 

727日には前知事による辺野古の埋め立て承認を撤回する手続きに入ることを表明したばかりでした。今月17日に差し迫っている辺野古の海への土砂投入を撤回させるためです。昨日11日(土)に行われた沖縄での県民集会(『土砂投入を許さない!ジュゴン・サンゴを守り、辺野古新基地建設断念を求める8・11県民大会』)では、主催者発表で約7万人の方々が参加されたそうです。

 

翁長さんの「絶対に辺野古に新基地を造らせない」という強い意思を本土の私たちこそが受け止め、実行してゆかねばならないと改めて思わされています。

 

 

 

《古い人》と《新しい人》

 

 改めて聖書の言葉をご一緒に読んでゆきたいと思います。本日の聖書箇所エフェソの信徒への手紙の中に、このような言葉がありました。

 

エフェソの信徒への手紙42224節《だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、/心の底から新たにされて、/神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません》。

 

《古い人》と《新しい人》という言葉がでてきました。《古い人》とはこれまでの自分のことを指し、《新しい人》とはイエス・キリストと出会って新しく変えられた自分のことを指しているのでしょう。

 

本日の聖書箇所の他の部分では、私たちは今や《新しい人》となったのだから、新しい生き方をすべきだということで、日々の生活におけるさまざまな指針が語られています。隣人に対して真実を語るように25節)とか、自分の収入を困っている人々に分け与えるように28節)とか、悪い言葉を一切口にしてはいけない29節)、互いに親切にし、憐れみの心で接し、互いに赦し合うように32節)……などなど。ここに書かれていることはもちろん大切なことで、私たちの生き方の指針にすべき事柄だと思いますが、ここに書かれているリストを毎日行うというのは、私たちには難しいことでもあります。これらリストを毎日実行できているという人はほぼいないのではないでしょうか。

 

 聖書に記されている文章の表現の仕方の特徴として、白か黒かをはっきりと記す傾向があります。少し難しい言葉を用いると、「二分法的」な表現の仕方です。すなわち、0100かで物事を表す表現の仕方ですね。イエス・キリストと出会って私たちは100パーセント新しく変えられた。だから、私たちは生き方をも100パーセント新しく変えなければならない、というニュアンスで本日の聖書の言葉も記されています。

 

一方で、実際の私たちの人生において、一気に100パーセント変わるということは、なかなか起こらないものです。変わると言っても、少しずつ変わる、たとえば数パーセントずつ、さらには0.1パーセントずつ、ほんと少しずつ変わってゆく。そのような場合がほとんどなのではないでしょうか。

 

もちろん、本日のエフェソの信徒への手紙が「二分法的な」表現の仕方をしていることにも理由があります。イエス・キリストを通して、それほど決定的な出来事が起こった、私たちの存在が、全世界が、100パーセント新しくされるほど、決定的なことが起こった、そのような確信しているので、このような表現の仕方をしているということがあるでしょう。その確信に基づいて、エフェソの信徒への手紙の著者は、《古い人》を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて《新しい人》を身に着けよう、と呼びかけています。

 

 

 

「少しずつ変わる」こと

 

 そのことを踏まえた上で、少し違った視点もご紹介したいと思います。友人が教えてくれた言葉ですが、臨床心理士の河合隼雄さんの言葉です。河合隼雄さんは著書の中で、「ちょっと変わる」ということはすごいことだ、ということを述べておられたそうです。

 

 人が「ちょっと変わる」というのはすごいこと、大変なことだ。一方で、「180度変わる」のは、実はそんなに大変なことではない。180度の変化は割合生じやすい。そしてまた、180度の変化は、またパッと元に戻りやすい、と河合隼雄さんは述べておられます。

 

 河合隼雄さんはこれを風見鶏のイメージでたとえています。屋根の上に取り付けられており、風向きによってクルリと向きをかえる風見鶏ですね。風見鶏は、風向きによってクルッと180度向きを変える。風見鶏にとって、180度向きを変えることは平気である。でも風見鶏が5度だけ向きを変えようと思ったら、とてつもなく大変なことだ、と河合隼雄さんは述べています。そのように、私たちも「ちょっと変わる」というのはすごいことなのだ、と(『河合隼雄のカウンセリング講座』、創元社、2000年)

 

 考えてみれば、確かにその通りだなあ、と思わされます。私たちは普段「180度変わる」ことを目指しがちだし、「180度自分が変わった」と思いたい。先ほどの0100かの「二分法的」な捉え方ですね。

 

ではなぜ「180度変わった」と思いたいかというと、その方が自分にとって楽だから、という部分もあるかもしれません。河合隼雄さんが述べるように、私たちにとって「少しずつ変わる」というのは大変なことでもあるからです。

 

私たちはそれぞれ、さまざまな具体的な課題を持っています。家族との関係、学校や職場での人間関係。精神のこと、体のこと、仕事のこと、将来のこと……。「少しずつ変わる」とは、それら具体的な課題に一つひとつ向か合い、取り組んでゆくことを意味しています。それら作業は確かに私たちにとって重たいものですね。「180度変わる」場合は、それら面倒で細かな作業を一気に飛び越えてゆくことができるので、私たちにとって魅力的なのです。しかしその「180度の変化」は、「少しずつ変わる」という着実な過程を経ていないので、何かのきっかけでまたクルッと元に戻りやすい、というでもあるでしょう。

 

 先ほどの《古い人》と《新しい人》ということで言えば、私たちは新しい自分に「少しずつ変わってゆこうとする」ことが大切なのではないでしょうか。必ずしも180度、これまでの自分から新しい自分へと変化しなくてもよいのです。中には一気に自分が180度変わったという方もいらっしゃるかもしれません。それは大変素晴らしいことです。ただ、私たちは多くの場合、180度変わるということはあまりないし、むしろ焦らずゆっくりと具体的な課題に向かい合い、1度ずつでも0.1度ずつでも、「少しずつ変わってゆく」という姿勢が求められていると思います。またその過程の中に、生きることの喜びもあるのではないでしょうか。

 

 イエス・キリストは私たちといつも共にいて、その力を私たちに与えてくださっている方です。「あなたにはそれができる」、と主イエスは私たちを励まし、力づけてくださっています。

 

 

 

 

少しずつ、「かけがえのない私になってゆく」

 

 最後に改めて24節の《神にかたどって造られた新しい人を身に着け》という言葉に注目してみたいと思います。

 

 旧約聖書の創世記1章に、神さまがご自分にかたどって人間を造られた、という記述が出て来ます(創世記127節)。それほどまでに、私たち一人ひとりは神さまの目に尊い存在であることを示す表現です。その表現を踏まえ、ここでは《神にかたどって造られた新しい人を身に着け》と語られています。

 

 私たちが《新しい人》になるとは、いまの自分とは何か別の存在になる、ということではないのだと思います。そうではなく、「より自分らしい自分になってゆく」ことです。神さまは私たち一人ひとりをご自分にかたどって、かけがえのない=替わりがきかない存在として造ってくださいました。その「かけがえのない私になってゆく」こと。そこに、神さまの願いがあるのだと信じています。

 

 私たちはときに自分が大切な存在だとは思えず、自暴自棄な衝動にとらわれてしまうことがあります。その想いの中で、自暴自棄な生き方をしてしまうことがあります。そのようなときは、私たち一人ひとりは《神にかたどって造られた》大切な存在なのだという真理に常に立ち返りたいと思います。そうしてその神さまの目に大切な自分にふさわしい生き方ができるよう、少しずつ、変わってゆきたいと思います。

 

神さまからの尊厳の光を身にまといながら、私たちが少しずつ、「かけがえのない私になってゆく」ことができますよう、そしてその喜びを共にしてゆくことができますよう願っています。