2018年8月19日「すべての個々人のための光」

2018819日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:使徒言行録134452

 

すべての個々人のための光

 

 

 

使徒言行録134452節《次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。/しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。/そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。/主はわたしたちにこう命じておられるからです。

 

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」

 

異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。/こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。/ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。/それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。/他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた

 

 

 

「異邦人」という言葉

 

いまお読みしました聖書箇所の中に、「異邦人」という言葉が出て来ました。聖書特有の言葉です。異邦人とは、「ユダヤ人以外の人々」を指す言葉です。ユダヤの人々から見て「外国人」にあたる人々です。

 

ユダヤの人々は旧約聖書が記された古代より、「自分たちは神さまによって選ばれた民族なのだ」という強烈な意識をもっていました。「選民意識」という言葉もありますが、そういう意識をもっていたのですね。と同時に、この意識は、自分たち以外の人々を「神に選ばれていない存在」として見下してしまう危険性をはらんでいました。実際、イエス・キリストが生きておられた時代、ユダヤ人と異邦人の間には、明確な「区別」がされていました。この「区別」は、現代の私たちの視点からすると、「差別」に相当するものでした。現代の私たちの社会においてもいまだ在日外国人の方々への差別があります。そのような差別が、当時、より露骨なかたちで存在していたのですね(もちろん、これはあくまで2000年前の話であって、現在もそうであるということではありません)。

 

そのことがよく分かるのが、エルサレム神殿です。はじめに、少しご一緒にこのエルサレム神殿の構造を見てみたいと思います(スクリーンの画像を参照)

 

 

 

エルサレム神殿 ~当時の社会の構造を象徴するものとして

 

 スクリーンに映しているのは、イエス・キリストが生きておられた時代のエルサレム神殿の模型です。エルサレム市街の中心に建てられてました。ただし、この神殿は現在はもう存在していません。紀元70年、ユダヤ戦争の際に神殿はローマ軍によって破壊されてしまいました。神殿の西側の外壁は、有名な「嘆きの壁」として残っています。

 

 神殿の門をくぐるとまず広い外庭があるのがお分かりになると思います。この外庭は当時、「異邦人の庭」と呼ばれていました。このスペースにはユダヤ人も外国の人々も入ることができました。ここで巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いがなされており、大勢の人々で賑わっていたようです。

 

この「異邦人の庭」から2.4メートル高くなったところに、「女性の庭」と呼ばれる回廊がありました。この「女性の庭」には、外国の人々(=異邦人)は入ることはゆるされていませんでした。その境目には看板が立てられ、「異邦人であってその垣を超えるものは死をもって罰せられる」と記されていたそうです(参照:『新共同訳聖書辞典』、キリスト新聞社、1995年、259頁)

 

このように、当時、ユダヤ人と異邦人の間に両者を隔てる、目に見える「壁」があったのです。そしてこの「区別」は、先ほど述べましたように、現代の私たちの視点からすると「差別」に相当するものでした。人を民族や国籍、宗教や思想信条で分け隔てすることは、はっきりとした差別です。

 

神殿の「壁」はそれだけではありませんでした。「女性の庭」からさらに内側には「男性の庭」と呼ばれるスペースがあり、そこにはユダヤ人の男性しか入ることができませんでした。女性は入ることはできなかったのです。また、病いや障がいをもっている人も入ることはできなかったそうです。ここにもまた、人々を分け隔てる「壁」があります。

 

当時の人々からすると、その「壁」は「当たり前」のものとして受け止められていたのかもしれません。現代の私たちからすると、女性への差別、病気や障がいをもっている方への差別があったのです。そしてその差別に苦しめられていた人々が無数にいたことも確かなことであったでしょう。けれども、その苦しみ自体が社会から顧みられずに「なかったこと」とされていたのです。

 

ちなみに、「男性の庭」の内側には祭司たちしか入ることができない「祭司の庭」があり、さらにその奥には神殿の「至聖所」がありました。至聖所は神が現臨すると考えられていた場所です。至聖所には大祭司と呼ばれるユダヤ教のトップの人物しか入ることができませんでした。一般の信徒と祭司たちの間にも「壁」があり、さらに祭司たちの中にも「壁」があったということが分かります。

 

 

 

私たちの社会に存在するさまざまな「壁」 ~差別の現実

 

 ご一緒に、エルサレム神殿の構造を見てみました。この神殿の構造は、イエス・キリストが生きておられた当時の社会の構造そのものを象徴的に表わしている、ということができるでしょう。生まれや国籍、宗教、性別、心身の状態等によって、人をわけ隔ててしまっているという社会の構造です。

 

 このような社会の構造はもはや過去のものだ、私たちの社会はもはやそうではない、と言いたいところですが、最近のニュースを見ていますと、現在の私たちの社会もそれほど変わっていないと言わざるを得ないのが悲しいところです。

 

 東京医科大学が実施した医学部一般入試において、女性の受験者の点数を一律に減点し、合格者数を調整していたことが明らかになり、現在大きな問題となっています。性別によって人をわけ隔てる――これは明らかな女性差別です。性別が女性であるというだけ、本来入れたはずの大学に入れない。これは氷山の一角であって、同様のことがさまざまなところで行われているのだと思います。

 

 また昨日の新聞では、国の複数の省庁が、障がい者雇用率を対象外の職員を算入することによって水増ししていた疑いがあることが報じられていました(朝日新聞、818日一面)。この事件の背後にもまた、障がいを持っている方々を軽んじる意識、差別があるでしょう。そしてこの事件も氷山の一角に過ぎないではないでしょうか。

 

 このように、私たちの社会にもまた目には見えないさまざまな「壁」があり、たくさんの人が差別によって不当に苦しめられている現状があります。たまたまニュースになることによって、これら差別の現実が可視化されるわけですが、いまだたくさんの人が人知れず苦しめられている状況があることと思います。

 

 

 

人を分け隔てる「壁」を打ち壊す新しい価値観

 

 改めて本日の聖書箇所使徒言行録134452節を見てみたいと思います。本日の物語ではパウロとバルナバという人物が登場しています。イエス・キリストの死後、キリスト教が誕生して間もない頃に活躍した人物です。二人はイエス・キリストの福音を伝えるための旅をしていました。二人の言葉を真っ先に受け入れたのは、ユダヤの人々ではなく、異邦人でした。

 

パウロたちは神さまが自分たちにこう命じておられると受け止めていました。47節《わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために》。

 

当時の社会において差別を受けていた人々のところに、むしろ真っ先に福音の喜びが告げ知らされてゆく。そのように新約聖書の物語は語られてゆきます。当時の社会に存在していた価値観をひっくり返し、人と人を分け隔てる「壁」を打ち壊す新しい価値観をキリスト教は提示しようとしていたことが分かります。多くの人々が、この教えに救いを求めて集まってゆきました。

 

 

 

原始キリスト教会の洗礼式の言葉 ~もはやユダヤ人もギリシア人もなく…

 

 原始キリスト教が提示した新しい価値観をよく表している言葉があります。新約聖書ガラテヤの信徒への手紙の一節です。本日の礼拝の冒頭でも読まれた言葉です。《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤの信徒への手紙328節)

 

この言葉は、当時の教会において洗礼式の中で実際に読み上げられていた言葉の一つであると考えられています。洗礼式は皆さんもよくご存じのように、キリスト教に入信する際に行われていた儀式です。クリスチャンになることを志願する人はこの言葉を告白して洗礼(バプテスマ)を受けていたようです。

 

この一文において印象的なのは、イエス・キリストに結ばれている者はもはや、ユダヤ人もギリシア人(異邦人)もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もないと宣言されているところです。クリスチャンになるということは、民族や国籍からも、社会的な身分からも、性差からももはや自由となることなのだ、と語られています。この言葉は、現代に生きる私たちにとってもなお、非常に「新しさ」を感じさせるものです。当時のイスラエル社会においてはなおのこと、どれほど衝撃的で新しいものあったことでしょうか。

 

まただからこそ、このメッセージは周囲から不当な差別を受け苦しみを抱えながら生活していた人々の心を真っ先に捉えた、ということがあったのでしょう。イエス・キリストに結ばれているあなたは、もはや、民族や国籍からも、社会的な身分からも、性別からも自由である。そう宣言されて洗礼を受けることが、どれほどの喜びとなり、救いとなったことでしょう。

 

 

 

キリストに結ばれて、かけがえのない「私」になってゆくこと

 

使徒言行録の別の箇所では、「神は人を分け隔てなさらない」方であることが述べられています1034節)。神さまの目から見て、一人ひとりが価高く、尊い存在である。これが聖書の根本のメッセージです。

 

神さまはあなたを「生まれ」では判断せず、民族や国籍でも判断なさらない方です。職業でも、社会的な身分でも判断なさらない方です。性別や性的志向でも判断なさらない、心と体の状態でも判断なさらない方です。ただ、あなたをあなたとして、その存在そのものを受け止めてくださっている方です。あなたという存在を、世界にただ一人の、かけがえのない=替わりがきかない存在として受け入れてくださっている方です。

 

「クリスチャンである」ということは、この神さまの愛といつも固く結ばれていることを意味しているのだと私は受け止めています。

 

  イエス・キリストに結ばれて、一人ひとりが、かけがえのない「私」になってゆくこと。そうして互いに互いをかけがえのない存在として大切にしてゆくこと。これが神さまの願いであると信じています。

 

  私たちの社会にはいまださまざまな目には見えない「壁」があります。人と人とを分け隔てる「壁」があります。私たち自身の心の内にも、この「壁」はあるかもしれません。どうぞ私たちがこの「壁」を少しずつ打ち壊し、一人ひとりが尊重される社会を築いてゆくことができるよう共に力を合わせてゆきたいと願います。