2018年8月26日「最も大いなるものは、愛」

2018826日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一1227節-1313

最も大いなるものは、愛

 

 

 

コリントの信徒への手紙一1227節-1313節《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。/神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。/皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。/皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。/あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。/たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。/たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。/全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。/

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。/礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。/不義を喜ばず、真実を喜ぶ。/すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。/ 

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、/わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。/完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。/幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。/わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。/それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である

 

 

 

「愛の賛歌」

 

 いまお読みしましたコリントの信徒への手紙一13章は「愛の賛歌」とも呼ばれる、よく知られた聖書の言葉です。愛がいかに大切なものであるか、様々な文学的な表現をもって語られています。教会の結婚式の際に読まれることもよくあります。

 

 愛について、たとえばこのような言葉がありました。131節《たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル》。たとえ人知を超える言葉を語る能力をもっていようとも、そこに愛がなければ、それら言葉はさわがしいどら(楽器のどらです)、やかましいシンバルに過ぎない、と言われています。私たちの言葉、私たちの行動の根本に愛があることこそが大切なのであり、その愛がなければ、私たちの言葉も行動もすべて虚しいものだ、とコリントの信徒への手紙は語ります。

 

 では、その愛とはどのようなものなのか。4節以下にその説明があります。47節《愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。/礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。/不義を喜ばず、真実を喜ぶ。/すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える》。

 

 ここに書かれていることは大変すばらしいことであると同時に、私たちが日々の生活でなかなか実践できていないものでもあります。

 

また、ここに挙げられていることがらは確かに素晴らしい事柄ですが、それを他者に押し付けてしまう場合に問題となってしまうこともあるでしょう。《愛は忍耐強い。…すべてを忍び…すべてに耐える》などの「忍耐」に関する表現が際立つこれら言葉が、他者に耐え忍ぶことを押し付けるよう働くことにもなり得るからです。実際、キリスト教の歴史において、差別や暴力の被害に苦しむ人々に対し、忍耐を強いて泣き寝入りさせるためにこの「愛の賛歌」が利用されてしまった部分があることが指摘されています(参照:山口里子氏『いのちの糧の分かち合い――いま、教会の原点から学ぶ――』、新教出版社、2013年、190195頁)

 

このコリントの信徒への手紙一13章が結婚式でよく読まれるということを先ほど申しました。結婚において、確かに互いに忍耐しあうことは大切なことです。と同時に、互いに想っていること考えていることを打ち明け、もし問題や課題があるのなら互いに率直に指摘し合うこともまた大切なことでしょう。愛は私たちに耐え忍ぶ力を与えてくれるものですが、耐え忍ぶことだけが、イコール愛なのではありません。

 

 

 

愛する ~大切にすること

 

改めて、聖書が語る愛はどのようなものなのか、考えてみたいと思います。言うまでもなく、聖書において愛は最も大切な言葉の一つです。私たちも普段の生活で「愛」「愛する」という言葉を用いることがあります。中にはこの言葉を口にするのは恥ずかしい、照れくさいという方もいらっしゃることでしょう。「愛」は新約聖書の原文のギリシャ語では「アガペー」と言います。動詞形だと「アガパオー」です。

 

この「アガペー」という言葉にはもちろん「好き」「大好き」という感情も含まれていますが、それだけを表す言葉ではないようです。たとえば、聖書におけるアガペーは、好きではない相手に対しても使うことができる言葉です。不思議なことのように思われるかもしれませんが、感情的には嫌い・苦手な相手であってもその相手を、「愛する」ということが、アガペーにおいては可能なのですね。というのも、聖書の「愛する(アガパオー)」という言葉には、相手を「大切にする」「尊重する」という行為が含まれているからです。

 

キリスト教が初めて日本に渡ってきたとき、「愛」という言葉を宣教師たちは「ご大切」と訳したそうです。とても素晴らしい訳ですね。「愛する」とは、言い換えると、「大切にする」ということ。「好き」という感情だけではなく、「大切にする」という具体的な行動を表しているのが、聖書における「愛」という言葉です。

 

同性愛者であることをオープンにして牧師をしている平良愛香先生という方がいらっしゃいます。平良先生が10代の人々に向けて書いた文章の中に印象的な言葉があったので、ご紹介したいと思います。

 

《僕は一度、幼なじみの女性に「あんたのこと、大嫌いだけど愛している」と言われたことがあります。どうも僕の優柔不断な部分や、考えている「つもり」になる癖があることにとてもイライラしていたらしいのですが、それでも僕を「大切な存在」として見ていた。だから「嫌いだけど愛している」という言葉が出てきたのでしょう。この言葉に、僕はキリスト教が教える「愛」の本当の意味を見たと感じています。「神を愛すること、そして人を愛すること」、それは、必ずしも「好きになること」ではなく、「大切な存在として重んじ、受け入れる」ということなのです》(髙橋貞二郎監修『10代のキミへ いのち・愛・性のこと』、日本キリスト教団出版局、2016年、97頁)

 

平良先生が幼なじみの女性に言われた「あんたのこと、大嫌いだけど愛している」(!)、とても面白い表現ですね。この言葉に、平良先生はキリスト教が教える「愛」の本当の意味を見た、と語っておられます。愛とは「好きになる」という感情を表すだけではなく、《大切な存在として重んじ、受け入れる》ことを意味しているのだ、と。

 

 私たちも家族や友人など親しい関係にある人々に対しても、性格のある部分に対してついイライラしてしまうこともあるでしょう。時に、「あなたのことなんて、嫌い!」と思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、それでもなお、その人が自分にとって「かけがえのない、大切な存在」であるのだとしたら、やはりその人のことを私たちは「愛している」のです。そして、その「大切な」その人を、時にぶつかりながらもケンカをしながらも、自分なりに一生懸命「大切にしようとし続ける」こと、それがすなわち「愛する」ということなのでしょう。

 

私なりに表現すると、「相手の存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしようとすること」。それが「愛する」ということであると受け止めています。このアガペーなる愛は、相手のことが「好き」か「嫌い」かを超えて、相手の存在そのものを尊重し、大切にするように働くものです。

 

 

 

神さまのまなざし ~わたしの目にあなたは価高く、貴い

 

一方で、私たちは日々の慌ただしい生活の中で、周りにいる人々が「かけがえのない、大切な存在」であることを忘れてしまうことがあります。立ち止まって自分の心をよくよく見つめると、そのことをハッと思い出すのですが、普段の余裕のない生活の中では、ついついそのこと自体を見失ってしまうことも多々あるのではないでしょうか。

 

また、ある人のことを「苦手」「嫌い」だと思うあまり、相手のことをどうしても「大切な存在」だとは思えない、ということがあるでしょう。むしろ、それが私たちにとって自然なことであるのかもしれません。同じ学校で、同じ職場で、どうしても好きになれない苦手なある人のことを、自分にとって「大切な存在」であるとはなかなか思えないことでしょう。

 

そのような私たちに、聖書はもう一つの視点を提供してくれています。それは、「神のまなざし」という、もう一つの視点です。

 

私たちの目には、ある人たちのことが「大切な存在」であるとは映っていなかったとしても、神さまの目には、その人たちのことも、「大切な存在」として映っている。決して失われてはならない、かけがえのない存在として映っている。そのことを聖書は伝えています。

 

旧約聖書のイザヤ書に「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります(イザヤ書434節)。ここでの「わたし」とは神さまのことです。「あなた」とは元来はイスラエル民族のことが意味されていますが、その「あなた」は、私たち一人ひとりのことをも指している、と私は受け止めています。神さまの目から見て、私たち一人ひとりがかけがえなく貴いことを語る言葉です。

 

神さまは私たち一人ひとりを、かけがえのない存在としてお造りになってくださいました。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。私たちは一人ひとり、かわりがきかない存在として神さまに創られた。だからこそ、大切であるのです。

 

「相手の存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしようとすること」が愛であると先ほど語りました。この愛を実現してくださっているのは、他ならぬ、神さまです。アガペーなる愛とはすなわち、この神さまから生じ、私たちに分け与えられているものなのです。

 

 コリントの信徒への手紙一1347節の《愛は忍耐強い。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える》という言葉もまず第一に、この神さまの愛を指し示しているものです。《すべてに耐える》という言葉をもって、「私たちの存在をかけがえのないものとして受け止め、どこまでも大切にし続けてくださっている」神さまの大いなる愛(アガペー)が語られているのだ、と本日は受け止めたいと思います。

 

 

 

神さまの愛とそのまなざしに立ち帰る

 

この神さまの愛をはっきりと告げ知らせ、目に見えるかたちにし、手で触れて感じとることができるようにしてくださったのが、イエス・キリストその方です。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――この言葉に表されている神さまの愛を、主イエスは生涯をかけて、命をかけて、私たちに伝えてくださいました。いまも、私たちのすぐそばにいて、伝え続けてくださっています。

 

神さまの愛とそのまなざしに立ち帰る時、私たちはまた少しずつ、周りにいる人々が「大切な存在」であることを思い出してゆくことができるのだと信じています。この神さまの愛から、私たちの信仰も希望もまた生じてゆきます。

 

最後に、コリントの信徒への手紙一13章の最後の節をお読みいたします。13節《それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である》。