2018年9月2日「キリストの福音」

201892日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙1110 

キリストの福音

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙1110節《人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、/ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。/わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。/キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。/わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。/

 

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。/ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。/しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。/わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。/こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません

 

 

 

齊藤一恵さん召天

 

花巻教会員の齊藤一恵さんが828日(火)午前7時、天に召されました。71歳でした。29日(水)に火葬が執り行われ、本日の午前11時より花巻葬祭センターにてご葬儀が執り行われる予定です。教会の皆様ともまた改めて一恵さんをしのぶ会を行いたいと思います。一恵さんのご家族の皆様、一恵さんにつながる皆様の上に、主の慰めをお祈りいたします。

 

腎臓の不調により7月半ばから花巻病院に入院されていましたが、月曜日に容体が悪化し、翌朝に神さまのもとに召されました。この1ケ月、体調が優れなくなりその後回復するということを繰り返しておられました。入院生活のなかでだんだんと体力が奪われてゆき、今回は回復することが難しかったのではないかとお嬢様がお話しくださいました。

 

 私が最後にお会いしたのは、24日(金)でした。お訪ねした時はベッドでお休みになっておられましたが、私が声をかけるとパッと目を覚ましてくださいました。言葉を発することは難しいご様子でしたが、目で何かを懸命に語りかけてくださっているように感じました。その後、少し意識がぼんやりとしてこられたご様子で、また目を閉じてお休みになられました。ご一緒にお祈りをし、「一恵さん、また来ますね」といってお暇しました。その時はもちろん、それが最後のご挨拶になるとは思いませんでした。

 

 

 

「私たちが苦しみ悩むことは、神さまの御心ではない」

 

齊藤一恵さんは小児麻痺の後遺症により、幼い頃より身体に障がいをもっておられました。お若い頃はご自分で歩いて教会に来ることができる時期もありましたが、中高年になる共にだんだんと筋力が低下して歩行が困難になり、ここ10年ほどは教会の礼拝に来ることは難しくなっていました。

 

ずっと二人三脚で歩んでこられたお連れ合いの誠さんが一昨年の6月に天に召されてからは、介護の必要によりご自宅を離れて施設で生活をされていました。私がお伺いするといつも、「礼拝には行けないけれど、花巻教会の皆さんのことをいつも覚えてお祈りしていますよ」とおっしゃってくださっていました。

 

ご自分の障がいについて、一恵さんは時に率直にその苦しみをお話して下さいました。お身体の不自由さについて、「神さま、どうしてですか」と幾度となく問いかけておられたようです。一恵さんご自身は、身体の不自由さから少しでも解放されてゆくことを願っておられました。

 

一恵さんが心に残っている聖書箇所として挙げておられた箇所があります。それは、旧約聖書の哀歌33133節です。《主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。/主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。/人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない》。

 

この哀歌の御言葉は、「私たちが苦しみ悩むことは、神さまの御心ではない」と語っています。私たちが悩み苦しむことを、神さまは願ってはおられない。そうではなく、私たちの内が喜びで満ち溢れることこそが、神さまの願いなのでありましょう。苦しみ悩みの中で、一恵さんはこの神さまの愛を懸命に見つめ続けようとされていたのではないかと思います。

 

 

 

愛という最大の恵みを

 

以前、一恵さんが書かれた作文を読ませていただいたことがありました。小学生の頃にお母様をはじめ、ご理解のある学校の先生や友人たちに支えられて、学校に通うことができていたことを綴った文章です。賞をとって、本の中に収録されていた文章であったかと思います。担任の先生は時に一恵さんをおんぶしながら、一恵さんが皆と一緒に学校生活をすることができるようにしてくださっていたそうです。

 

この作文を読んだとき、一恵さんが幼い頃より、いかにあたたかな方々に囲まれ、たくさんの愛を受けて来られたか、ということを思いました。そしてそれは、子ども時代だけではありません。誠さんという、かけがえのない存在が与えられました。誠さんもお体に障がいをもっておられました。1977年のご結婚からおよそ40年、互いに支え合い、助け合いながら歩んでこられました。

 

また、誠さんが天に召されてからも、お嬢様ご家族が懸命に一恵さんを支えておられました。私は一恵さんがいつもあたたかな愛に囲まれていることを感じていました。一恵さんには可愛いお孫さんもたくさんおられます。入院中、意識がぼんやりとしていても、一恵さんはお孫さんの顔はすぐに分かったとお嬢様が教えて下さいました。お孫さんたちの存在が本当に可愛かったことでしょう。

 

確かに一恵さんの障がいは癒されるということはありませんでした。その点については、一恵さんが願う通りにはならなかったかもしれません。と同時に、神さまは、すぐ傍らにいるご家族やご友人を通して、一恵さんにその愛を目いっぱい注いでくださっていたのだと私は受けて止めております。

 

毎月初めにお誕生日と受洗記念日の方にプレゼントしている『君は愛されるため生まれた』という歌の中に、《永遠の神の愛は/我らの出会いの中で 実を結ぶ》という一節があります。神さまの愛は、私たちの出会いの中で、触れ合いの中で、実を結ぶ。私たちの関係性を通して、神さまの愛は実現されてゆくのだと謳われています。私も、その通りであると思っています。

 

 何年か前にご自宅にお伺いした時、何かの拍子に、「百恵」という名前が私と一恵さんの目に留まったことがありました。一恵さんは幾分ユーモラスな口調で、「百恵さんはすごいね。百恵さんと違って、私は一恵。恵みが百もなくて、一つだけなの」とおっしゃいました。一恵さんはユーモアと共に幾分ご自分を卑下する調子でそうおっしゃいましたが、私は、百恵という名前も素敵だけれど、一恵という名前も素敵ですよ、と思っていました。そのただ一つの恵みが神さまの愛であるとすると、その一つの恵みは同時に世界の全てを満たしてゆく、最も大いなる恵みでもあるからです。

 

病いの癒しという恵みは、一恵さんには与えられることはありませんでした。しかし神さまは、愛という最大の恵みを、一恵さんのご生涯に目いっぱい注いでくださいました。病院での最後の1ケ月も、お身体は大変お苦しかったことと思いますが、ご家族に囲まれ、神さまの愛に包まれる中で、安らかに最期を迎えられたと信じています。いま、一恵さんは誠さんや愛する方々と共に、神さまのもとで憩っておられることでしょう。

 

 

 

キリストの福音 ~「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」

 

 本日の聖書箇所の中に、「福音」という言葉が出て来ました。福音とは、「良い知らせ(英語でいうとGood News)」という意味です。イエス・キリストが私たちにもたらしてくださった「良い知らせ」について語っているのが、聖書です。

 

 このキリストの福音とは、キリストを通して現わされた神の愛、と言いかえることができるでしょう。イエス・キリストはそのご生涯をかけて、命をかけて、私たちに神さまの愛を伝えてくださいました。神さまが私たち一人ひとりを「大切に思ってくださっている」という真理と恵みを伝えてくださいました。

 

 旧約聖書のイザヤ書に「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります(イザヤ書434節)。神さまの目から見て、あなたという存在がいかにかけがえなく貴いものであるかを伝える言葉です。この言葉はいま、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられています。

 

 私たち自身の目に、自分という存在が大切なものであると思えなくても。時に、自分という存在がいなくてもいい存在に思えても。神さまの目から見て、あなたはという存在は、かけがえのない存在であるのです。世界にただ一人の、替わりがいない存在であるのです。

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」。神さまはこの言葉を語り続けてくださっています。

 

 この愛の言葉を心に宿し、私たちもまた互いをかけがえのない存在として大切にしあうこと。そのことを主イエスは願っていてくださいます。私たちが互いに支え合い、互いを大切にしあうとき、この神さまの愛は、よりはっきりと心の目に見えるものとなってゆくでしょう。キリストの福音は、よりはっきりと心の耳に聴こえるものとなってゆくでしょう。

 

 

 

《主よ、終わりまで しもべとして》

 

 説教の後、ご一緒に讃美歌510番『主よ、終わりまで』を歌います。この曲は齊藤一恵さんが生前に愛唱讃美歌として挙げてくださっていたものです(他の2曲は197番『ああ主のひとみ』と451番『くすしきみ恵み』)。入院中の一恵さんを覚えて選んだ曲でした。一恵さんが召されたいま、神さまのもとにいる一恵さんを覚え、天にいる一恵さんと一緒にこの曲を賛美したいと思います。

 

 1番《主よ、終わりまで しもべとして/あなたに仕え したがいます。/世のたたかいは はげしくても、/主が味方なら 恐れはない》。

 

 一恵さんと再び会えるその日まで、私たちもまた精一杯、神さまの愛のしもべとして生きてゆくことができますよう願います。