2018年9月23日「キリストの力によって」
2018年9月23日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:コロサイの信徒への手紙1章21-29節
「キリストの力によって」
コロサイの信徒への手紙1章21-29節《あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。/しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。/ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。/
今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。/神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。/世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。/この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。/このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。/このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています》
教会 ~二人または三人がキリストの名によって集まるところに
この花巻教会が創立されたのは、今から110年前の1908年になります。週報でもお知らせしています通り11月24日には創立110周年を記念する講演会も予定しています。主題は「宮沢賢治とクリスチャン」。講師に『宮沢賢治とクリスチャン』(雜賀編集工房)著者の雜賀信行氏をお招きし、賢治さんとキリスト教の意外なつながりについて、お話いただきます。
宮沢賢治さんの生家の近くには、当時の花巻教会の信徒の方々が住んでおり、親しい交流があったとお聞きしています。賢治さんは信徒の方々から賛美歌を教えてもらったり、キリスト教関係の本を借りたりしていたそうです。また、賢治さんは少なくとも2回、花巻教会を訪れたことがあるそうです。
信仰の先輩方の懸命な努力、祈りによって、この110年、信仰のともしびが絶えることなくともされて続けてきました。私がこの花巻教会に着任したのは、2013年の4月です。教会が出来てから、11代目の牧師となります。
さて、「教会」と聞くと、私たちは建物を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。花巻教会なら、現在の会堂ですね。ちなみに、この建物が建てられたのは今から13年前の2005年です。とても素晴らしい会堂が与えられ感謝ですが、「教会」というのは元来、建物を指している言葉ではありません。イエス・キリストに想いを寄せる人々が集められているところ、そこが「教会」です。すなわち、たとえ建物がなくても、教会は存在するのですね。
イエス・キリストの言葉にこのような言葉があります。《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》(マタイによる福音書18章20節)。
年月と共に、建物としての教会は形を変えてゆかざるを得ないでしょう。それは当然のことです。どんなに素晴らしい建物も、いつかはその役割を終えるときは来ます。また、組織としての教会も時代と共に変化してゆくことでしょう。もしかしたらこれから先、キリスト教は大きな変革を迫られることになってゆくかもしれません。けれども、キリストによって集められた人がいる限り、教会そのものが無くなることはありません。二人または三人がキリストの名によって集まるところ、そこに、イエス・キリストも共にいてくださるからです。
「違いがありつつ、一つ」であること
聖書では、教会は「キリストの体」と表現されることもあります。本日の聖書箇所にも《キリストの体である教会》という表現が出て来ました。コロサイの信徒への手紙1章24節《今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています》。
「キリストの体」とは不思議な表現ですね。ここでの「体」とは、私たちの体とまったく同様の体がイメージされています。頭があり、目鼻口耳があり。手足があり、胴体があり、内臓があり。多く部分から成り立っている体です。
たとえば、このような言葉があります。《わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、/わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです》(ローマの信徒への手紙12章4-5節)。
すなわち、ここでは教会を構成している一人ひとりには、「違い」があるのだ、ということが言われています。体が多くの部分から成り立ち、それぞれが異なる働きをしているように、一人ひとりには違いがあり、それぞれが異なる働きをしているのだ、と。
先ほど、教会とは本来、建物ではなく、人(共同体)を指すということを申しました。キリストの名によって人々が集められているところ、そこが教会。そこには、様々な人が集められています。自分と同じ人というのは一人としていません。皆、違いがあります。違った個性があり、違った役割が与えられています。そして一人ひとりが、なくてはならない役割を果たしています。「多様性」という言葉がありますが、教会において大切なことの一つに、この「多様性」ということがあるのですね。
と同時に、大切なもう一つのことは、それが「一つの体」であるということです。体において、多くの部分が一つの体を形づくっているように、教会もそれぞれに違いがありつつ、キリストにおいて一つに結び合わされている。そうして、互いに個性を生かして協力し合い、配慮し合っている。「多様性がありつつ、一つであること」――これが教会を考える上で、重要な要素となります。
互いに違いを認め合うこと、そうして互いに配慮をし合うこと。このことが大切であるのは、もちろん、教会においてだけではありません。私たちの社会においても、このことは切実に大切な課題です。自分とは違う相手を認めることができず、自分とは異なる人々を排除してしまう。そういう風潮(排外主義)が私たちの社会においてはより力をもってきているからです。また、皆が「同じ」ようでいなければならない、という圧力(同調圧力)も昨今より強くなってきていますね。そのような現状があるからこそ、聖書が伝える「違いがありつつ、一つ」という視点が、重要な指針となるのではないかと思います。
《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》
先ほど、教会学校のメッセージで、《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》(ローマの信徒への手紙12章15節)という言葉についてお話しました。その中で、私自身の経験についても少しお話しました。牧師になって6年が経ちましたが、このことの大切さを改めて感じている日々です。
教会が「一つの体」であること。そのことを最も実感する時が、喜びも悲しみも共にした時なのではないでしょうか(コリントの信徒への手紙一12章26節)。自分が悲しい時、誰かが一緒に悲しんでくれること。自分が嬉しい時、一緒に喜んでくれること。それが私たちにとって、何よりの支えとなります。また、ここに、生きることの喜びもあるのではないでしょうか。独りぼっちではなく、共に生きていることの喜びです。
「弱さを受け入れる」こと
そのように、私たちが互いに互いを配慮し合うために、忘れてはならないものがあります。それは、「弱さ」です。
私たちはそれぞれ、弱さを持っています。私たちが「違いがありつつ、一つ」であるために、大切な役割を果たすのは弱さである、と聖書は語っています。弱さを否定的には捉えず、むしろ私たちにとって必要な、大切な役割を持っているものとして捉え直しているのです。《体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです》(同12章22節)。
私たちは普段、弱さを否定的に捉えてしまっていることが多いのではないでしょうか。弱さは克服すべきもの、と思ってしまっていることが多いように思います。心の弱さ。体の弱さ。自他の目に欠点に見えるもの……。幼い頃から弱さは克服すべきものと直接的・間接的に教えられてきたという部分もあるかもしれません。私も自分の中に様々な弱さがあることを自覚しています。自分の弱さを肯定的に捉えるというのは、なかなか難しいことです。
そのように、自分の弱さについて、私たちはしばしば悩み苦しみます。けれども聖書は、弱さとは、「克服すべきもの」ではなく、「受け入れるもの」であることを語っています。否定するのではなく、それをあるがままに受け入れるということが大切である、というのですね。自分の弱さをそのままに見つめ、受け入れることができたとき、私たちはすでに、新しい一歩を歩み始めています。
《力は弱さの中でこそ十分に発揮される》
私自身、大切にしている聖書の言葉をお読みしたいと思います。新約聖書のコリントの信徒への手紙二という書に記された言葉です。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》(コリントの信徒への手紙二12章9節)。
この言葉を記したのはパウロという人物です。キリスト教が誕生した間もない頃に大きな働きをした人ですが、このパウロという人もかつては、自分の弱さに非常に悩んでいたようです。それは体の弱さであったのか、それとも精神的な弱さであったのか、はっきりとは分かっていません。パウロはその弱さを、まるで自分に刺さった《とげ》(同12章7節)のように感じ、耐え難い痛みを感じていたようです。パウロは自分の弱さとその苦しみが取り除かれるように、何度も懸命にイエス・キリストに祈りました。その祈りの中で、与えられた言葉が、《わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ》という言葉であったようです。
パウロは自分の弱さに何とかして打ち勝とうとしていたわけですが、大切なことは、弱さに「打ち勝とうとする」ことではなく、そのまま「受け入れる」ことであった。なぜなら、まことの力は、弱さの中で十分に発揮されるのだから――。
このイエス・キリスト言葉を受けて、パウロはだんだんと、自分の弱さを受け入れることができるようになっていったようです。だんだんと自分の弱さの中にこそ、神の力が働いてくださることを信じることができるようになっていったのです。そうして、《わたしは弱いときにこそ強い》(12章10節)と言うことができるようになってゆきました。
本日の聖書箇所の最後に、《わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています》という言葉がありました。自分の内に力強く働く「キリストの力によって」こそ、私たちは強くなれるのだということ。
私たち一人一人の内には、キリストが住んでおられます。そのキリストの力は、自分の弱さを受け入れる中で力強く現れ出てゆきます。私たちが自分の弱さをあるがままに受け入れるとき、私たちの内におられるキリストが必ず手助けをしてくださるでしょう。私たちが向かい合うべき課題にしっかりと向かい合うことができるよう、支えて下さるでしょう。
互いの弱さを受け止めあい ~共に生きることの喜びを胸に
また弱さは、神との関係だけではなく、人と人との関係においても、無くてはならない大切な役割を果たしています。互いに弱さを持っているからこそ、私たちは互いに配慮し合うことを学んでゆくからです。相手を思いやり、労わることを学んでゆくからです。私たちはそれぞれ、自分なりの弱さをもっています。その弱さを含めて、自分自身です。私たちが互いにそれら弱さを受け止め合うことができたとき、私たちの間にまことの強さが与えられてゆきます。人が人を思いやる、まことの強さです。
弱さを受け止め合う中で、私たちは互いの「違い」を認め合うことができるようになってゆき、「一つの体」として互いに配慮し合うことができるようになってゆくでしょう。
神さまは私たちが独りぼっちで生きるのではなく、共に生きてゆくことができるよう、私たちに弱さを与えてくだっているのかもしれません。
どうぞ私たちが互いの弱さを受け止めあい、互いに支え合ってゆくことができますように。共に生きることの喜びを胸に、歩んでゆくことができますように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。