2018年9月9日「惜しみなく分け与え」

201899日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二9615 

惜しみなく分け与え

 

 

 

コリントの信徒への手紙二9615節《つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。/各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。/神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。/「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。/種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。/あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。/なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。/この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。/更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。/言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します

 

 

 

台風21号、北海道胆振東部地震

 

 台風21号、北海道胆振(いぶり)東部地震によって、関西と北海道に甚大な被害がもたらされています。皆さんもニュースを見て心を痛めておられることと思います。

 

4日から5日にかけて台風21号が大雨や暴風、高潮をもたらし、各地で大きな被害が生じました。大規模な停電、住宅被害、関西国際空港での約3000人が孤立など、これまでにない被害が生じました。SNSで被害の映像がシェアされているのを見て、私も慌てて大阪の家族や友人に連絡をしました。家族や友人たちは皆無事で特に住宅にも被害はありませんでしたが、周囲ではやはり様々な被害が生じているようでした。

 

それから間もなく、6日の午前38分頃、北海道で地震が発生。皆さんもよくご存じのように、厚真町の大規模な土砂崩れ、北海道全域の停電など、甚大な被害が生じています。一昨日から昨日にかけてようやく停電が解消したようで、学生時代の友人たちとも連絡がつきました。連絡が取れた友人たちは無事でしたが、こちらからはまだ連絡をすることができていない方々もいるので、心配です。

 

この度の二つの災害で、たくさんの方々の尊い命が失われました。いまだ電気が通らず、不安な中で生活をしておられる方々もおられます。どうぞ主のお支えがありますよう、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

これほど大きな災害が1週間の内に立て続けに起こったことに、皆さんも大きな驚きと不安を感じていらっしゃることと思います。7月には、あの西日本豪雨が発生したばかりでした。6月には大阪北部地震、4月には島根県西部地震がありました。また、7月から8月にかけて命に関わる異常な猛暑が全国を襲いました。朝日新聞の天声人語で、災害について、《いつどこでも起こりうるというより、いつもどこかで被害が起きている。日本の新しい現実である》という一文がありましたが(朝日新聞『天声人語』、201896日)、その通りだと思いました。この新しい現実に対応するため、私たちは改めて意識を変え、対策をしてゆかねばならないと思わされています。

 

イエス・キリストの言葉に《人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイによる福音書712節)という言葉があります。7年前、私たちは東日本大震災を経験しました。そのときにしてもらって嬉しかったことを、今度はお返ししてゆく番であるのかもしれません。身近ところからでも、私たちにできることを、ご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

「五千人への供食」の物語

 

今回のような大きな災害が起こった時、時に、私たちは無力感を覚えることがあります。悲惨な現実を前に、自分に一体何ができるのだろうかと戸惑ってしまうことがあります。自分という存在が非常に無力な存在に思え、そうして動けなくなってしまうのです。

 

私がふと思い出したのは、新約聖書の「五千人への供食」の物語です。主イエスと弟子たちが手元にあったわずかなパンと魚を分け合った時、そこにいた五千人以上のすべての人が満腹したという物語です。この物語には、時に無力感を覚えてしまう私たちへのメッセージが込められています。どのような物語か、ご紹介したいと思います。

 

ある日、主イエスは人里離れたところに退いておられました。そこに、助けを求め、大勢の人々が集まってきました。その数は、男性だけで5千人いた、と聖書は記します。主イエスは集まって来た人々をご覧になり、深く憐れまれ、病いをもつ人々を癒してゆかれました。

 

 そうしている内に日が暮れてきたので、弟子たちは主イエスに「夕方になり、皆疲れてお腹が減っているので、もう今日は解散にしましょう」と提案しました。すると主イエスは《行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい(マタイによる福音書1416節)とびっくりするようなことをおっしゃいました。

 

弟子たちはキョトンとし、戸惑ったことでしょう。自分たちの手元には、五千人の人々のための食料などもちろんなかったからです。弟子たちが携えて来ていたのは、わずかばかりのもの――五つのパンと二匹の魚だけでした。

 

弟子たちが「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言うと、主イエスは《それをここに持って来なさい》とおっしゃり、集まっていた人々には草の上に座るようにと命じられました(同19節)。弟子たちはよく分からないままに、しぶしぶ主イエスの言われることに従って五つのパンと二匹の魚を差し出したことでしょう。

 

 主イエスは弟子たちから受け取った五つのパンと二匹の魚をお取りになり、天を仰いで賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはそのパンを人々に与えました。すると、すべての人が食べて満腹しました。残ったパンの屑を集めると、十二の籠がいっぱいになったほどでした。

 

 ――という、不思議な物語です。いわゆる「奇跡物語」の一つで、そんなことが現実に起こるなんて信じがたい、と思われた方ももちろんいらっしゃることでしょう。このような奇跡が本当に起こったか、ということはここでは置いておいて、この物語を通して私たちに語られているメッセージこそが大切なのではないかな、と思っています。

 

 

 

困難な状況を目の前にした弟子たちの無力感

 

改めて、この物語において主イエスと弟子たちが直面していた状況を思い浮かべてみましょう。弟子たちの目に前には、空腹を覚えている五千人以上もの人々がいました。力なく俯いている人、疲れて座り込んでいる人もたくさんいたことでしょう。どこかからお腹を空かせた子どもの泣き声も聞こえていたかもしれません。辺りもどんどん暗くなってきています。当時はもちろん、電灯もありません。そして、自分たちの手元には、五つのパンと二匹の魚しかありません。

 

 弟子たちはそのような困難な状況を前に、無力感を覚えてしまっていたのではないか、と想像します。自分にできることは何もない、と。そうして、主イエスに「今日はもう解散にしましょう」と提案したのではないでしょうか。この弟子たちの言葉からは、早く解散して人々が自分たちの目の前からいなくなることを心のどこかで望んでいるような印象も受けます。

 

 人は困難な状況を目の前にしたとき、その問題に対して心を閉ざして自分を守ろうとすることがあります。起こっている事柄の規模の大きさに対して、自身の許容量がオーバーになってしまうのですね。このようなことは、私たちの身にも覚えがあるのではないでしょうか。

 

 

 

たった五つのパンと二匹の魚を「分かち合う」ことを通して

 

 無力感を覚えていた弟子たちに対し、主イエスは、《あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい》とおっしゃいました。弟子たちはその言葉を「五千人のすべての人々に食べ物を与えなさい」という意味で受け止めたわけですが、主イエスがおっしゃりたかったのはそのような無理難題ではなかったでしょう。五千人すべての人のため、ではなく、いま目の前にいる人々のために、自分にできることをしなさい、ということをおっしゃりたかったのではないかと私は受け止めています。「あなたがたの手にあるものを、いま目の前にいる人々に分け与えなさい」と。

 

弟子たちの手元にあったのはわずかな食糧でした。それを五千人の人々に与えるのは、確かに、不可能なことです。けれども、そのわずかな食糧を、目の前にいる人々と「分かち合う」ことはできます。たとえ自分の手元にあるのがただ一つのパン、一匹の魚であったのだとしても、目の前にいる人とそれを「分かち合おう」とすること。私たちの目には小さく、ささやかな行為であっても、神さまの目には「十分なこと」をしたと映っているのではないでしょうか。

 

主イエスは弟子たちからパンと魚を受け取られ、天を仰いで賛美を祈りを唱えられました。そしてそれを裂いて、弟子たちにお渡しになりました。聖書において、パンは「裂いて」分け与えられるものです。一つのパンが主イエスによって裂かれて、その場にいる人々に配られてゆきました。

 

すると、その場にいたすべての人の空腹が満たされた、という驚くべきことが起こりました。この奇跡には、「たった五つのパンと二匹の魚を分かち合う」という私たちの目には小さく見える行為を用いて、神さまが大きな働きを成し遂げてくださるのだというメッセージが込められています。

 

私たちがもっているものは、確かに、わずかなものであるかもしれません。一人ひとりにできることは、小さなことであるかもしれません。けれども、いまの目の前にいる人のために自分にできることを心を込めて行おうとする時、主イエスは私たちの行為を祝福し、共に働いてくださるのだと信じています。

 

 

 

惜しみなく分け与え

 

 本日の聖書箇所も、「分かち合う」ということについて記されています。コリントの信徒への手紙二9912節《「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。/種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。/あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。/なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです》。

 

 お読みした中に、《彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く》という言葉が引用されていました9節)。詩編の言葉(詩編1119節の七十人訳)の引用ですが、ここでの《彼》に、イエス・キリストのお姿を重ね合わせることもできるでしょう。

 

自分の手にあるものを、いま目の前にいる人々と惜しみなく「分け合う」こと。これは他ならぬ主イエスご自身が、生涯を通して、実行してくださったことであるからです。

 

主イエスはご生涯の最期には、十字架の上で、ご自身の体そのものを一つのパンとして、私たちに分け与えて下さいました。私たちのために裂かれたこの一つのパンから、神さまの愛が溢れ出ました。ただ一つのパンを分け合うことのまことの豊かさを、主イエスは私たちに示し続けて下さっています。

 

 困難を前に無力感に捉われ、あきらめに捉われ、時に動けなくなってしまう私たち。そのような時は常に、この主のお姿に私たちの心を立ち帰らせたいと思います。

 

  最後に旧約聖書の箴言の御言葉をお読みいたします。《施すべき相手に善行を拒むな/あなたの手にその力があるなら327節)

 

私たち一人ひとりには、善き行いをする力が神さまから与えられています。様々な困難の中にあっても、私たちが自分にできることを見出してゆくことができますよう、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。