2019年1月20日「福音を告げ知らせるために」

2019120日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書41630

福音を告げ知らせるために

 

 

ルカによる福音書41630節《イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。/預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。/

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」/

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。/そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。/皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」/イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」/そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。/確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、/エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。/また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」/これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、/総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。/しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた

 

 

 

故郷のナザレにて

 

 いまお読みした箇所は、イエス・キリストが故郷のナザレという村に立ち寄ったときの場面です。はじめは歓迎されていましたが、途中で人々が怒りだし、最後には村から追い出され山の崖から突き落とされそうになる、というショッキングと言いますか悲しい終わり方をする場面です。

 

 その日は安息日でした。安息日はユダヤ教で大切にされている、一切の労働を中断し神に祈りをささげる日のことを言います。ユダヤ教では安息日は土曜日です。主イエスは安息日のその日、いつものように会堂にお入りになって、聖書を朗読しようとされました。会堂とはシナゴーグとも呼ばれ、地域の人々の集会所となっていた場所であり、安息日には聖書が読まれたり礼拝がささげられたりした場所のことを指します。

 

 そこで主イエスはイザヤ書の巻物をお開きになって朗読をされました。イザヤ書は旧約聖書の中に含まれている代表的な預言書の一つです。

 

ちなみに、当時の文書はみな、巻物でした。いまみたいに本は冊子状の形をしておらず、巻物の形をしていたのですね。スクリーンに映しているのは、1947年にイスラエルの洞窟で発見された死海文書の中に含まれていた、実際のイザヤ書の巻物(の複製)の画像です。巻物はくるくると巻かれているので長く保存するには適していますが、日常的に読みたい箇所をパッと開くには不便であるかもしれません。特に巻物の最後の方を参照したい場合、長々と巻き開いてゆかねばなりません。それに比べてパッとページを開くことができる冊子状の本は確かに便利です。冊子状の本が普及してからは、巻物の本が作られることはほとんどなくなっていきました。

 

巻物は英語で「スクロール」と言います。パソコンやスマホの表示を上下または左右に移動させることも「スクロール」と言いますね。このスクロールという言い方は、巻物を巻き開く動作から取られた言葉であるそうです。スマホの画面を指で上下左右に移動させる様子などは、まさに巻物を連想させるものですね。巻物はいまはもう見かけることはありませんが、ある意味現代に生きる私たちはスマホという巻物を日々読み続けているということもできるかもしれません。

 

 

 

人々の反応の変化

 

さて、その日、主イエスは巻物を開いて、イザヤ書のある箇所をお読みになりました。もちろん、指でスイスイとスクロールさせた(!)わけではなく、巻物を少しずつ巻き開いて、その箇所をお開きになりました。イザヤ書の中でも最後の方に書かれている言葉(イザヤ書6112節)であるので、開くのにちょっと時間がかかった(?)かもしれません。それはこういう言葉でした。

 

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである(ルカによる福音書41819節)

 

 ここでは、貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人が出て来ます。苦難のただ中にいる人々に福音を告げ知らせるため、私はこれから活動を始めてゆく。朗読したイザヤ書の言葉を通して、主イエスがご自分のその決意表明をされているのだと受け止めることができます。

 

 主イエスはこの言葉を朗読し終えると、また巻物をスルスルと巻いてゆき、係の人に返して席に座られました。この時点では、村の人々は主イエスの言動に興味津々でした。熱いまなざしをジッと主イエスに注いでいました。そこで主イエスは《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》と話し始められました21節)。やはりこの時点では人々は主イエスの力強い言葉に感動をすら覚えていましたが、その後、人々の反応が激変します。先ほど言いましたように、人々は激昂し、総立ちになって主イエスを町の外へ追い出してしまいます。そして主イエスは一部の人々によって崖から突き落とされそうになってしまうのです。一体何が起こったのでしょうか……?

 

 

 

復讐に関する部分の削除

 

 ある人が興味深い指摘をしています。この不可解な出来事に関して、主イエスの朗読に要因があるというのです。主イエスが朗読した箇所には、実際はまだ続きがありました。後に続く文章を主イエスが読まなかったので人々は激しく憤慨したのではないか、とその方は指摘しています。

 

 イザヤ書のもともとの文章では、主イエスが朗読した箇所のすぐ後に、「私たちの神が復讐をされる日」という言葉が続きます。そうして神がイスラエルに敵対する国々に報復をし、イスラエルに栄光を取り戻してくれることのビジョンが語られてゆきます。主イエスはうっかりその復讐に関する部分を読まなかったのではなく、意図的に読まなかったのだという受け止め方があります(参照:デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換(上) 聖書の時代から宗教改革まで』東京ミッション研究所訳、新教出版社、1999年、109113頁)。本来は「主の恵みの年」と対になっているはずの「神の復讐の日」という言葉を主イエスが意識的に削除されたというのですね。

 

当時、イスラエルは強大なローマ帝国の支配下にありました。帝国のいわば属国的な位置づけにされており、国としての主体性が奪われてしまっていた状態にありました。そのような中、人々はイスラエルの独立を取り戻してくれる政治的なリーダーを待望していました。本日の聖書箇所でも、人々は最初、自分たちの村の出身であるこのイエスこそ政治的な救世主となる存在なのではないか、と心のどこかで期待したのかもしれません。このイエスを通して、神はローマ帝国に報復し、ローマ人を徹底的に滅ぼし、そして自分たちに解放をもたらしてくれるのではないか、と。屈辱的な日々を過ごすイスラエルの人々にとって、その願いは切実なものであったでしょう。

 

 ですので、その日、会堂に集っていた人々にとって、先ほどのイザヤ書の箇所において「私たちの神が復讐をされる日」という言葉こそが重要なものであったようです。一番自分たちの気持ちが高揚する部分だったと言えるでしょう。人々は、主イエスがこの言葉を力強く読み上げ、憎きローマに対する復讐を宣言することを期待したのではないでしょうか。もしも主イエスがこの箇所を力強く読み上げたなら、人々から喝さいを受けたことでしょう。人々の歓心を買うことに熱心な指導者であったら、ここぞとばかり、この箇所を声高らかに読み上げたことでしょう。しかし、主イエスはそうはなさらなかった。この復讐に関する部分を読まずに、巻物をスルスルと巻いて座ってしまった。会堂に集っていた人々は深く失望し、その分、その後激しい怒りが湧き上がってきたのかもしれません。

 

 

 

主イエスの決意 ~復讐の連鎖を終わらせる

 

 この主イエスの姿勢のうちに、本日は二つの決意を受け取ってみたいと思います。一つは、主イエスの「復讐の連鎖を終わらせる決意」です。もう一つは、「一人ひとりに神さまからの尊厳の光を取り戻す決意」です。

 

まず一つ目のメッセージ、「復讐の連鎖を終わらせる決意」について――。主イエスのだれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい(マタイによる福音書539節)という言葉はよく知られているものです。「復讐をしてはならない」ことを教えるこの言葉は、たとえば「非暴力・不服従」を説いたインドの指導者ガンジー、そしてキング牧師にも大きな影響を与えました。暴力に対して暴力を返さない。憎しみに対して憎しみを返さない。主イエスはそのメッセージをご自身の生き方をもって、私たちに示してくださいました。

 

主イエスはそのご生涯の最期、十字架の道行きにおいて、人々から激しい暴力を受け、屈辱的な言葉を浴びせられました。しかしそれでも、怒りをもって復讐を願うことはなさいませんでした。福音書はその主イエスのお姿を証言しています。

 

もちろん、「復讐したい」という衝動は私たちの誰もが感じるものです。旧約聖書の詩編を読みますと、復讐を神に願う祈りがたくさん出て来ます。旧約聖書においては、復讐を願うその想い自体は必ずしも否定されてはいません。生きてゆく中で、私たちの心の内には「仕返しをしたい!」という思いは必ず生じるものです。私たちはそのことを率直に受け止めつつ、しかし私たちはその欲求が命じるままに行動するのか。それとも、その欲求に自らが支配されるのを拒むのか。自分自身が、「復讐の連鎖を終わらせる」道を選び取る決意をすることが大切なのだと思います。そのとき、私たちは、平和を実現するための大切な一歩を歩み出していることになります。

 

 

 

主イエスの決意 ~一人ひとりに神さまからの尊厳の光を取り戻す

 

 もう一つのメッセージ、「一人ひとりに神さまからの尊厳の光を取り戻す決意」について――。先ほど、イスラエルの人々が「政治的な救世主」を待望していたということを述べました。当時、多くの人々が「イスラエルの栄誉を取り戻す」こと求めていたのです。しかし、主イエスが願っておられたのは、「イスラエルの栄誉を取り戻す」ことではありませんでした。主イエスが願っておられたのは、「個人の尊厳を取り戻す」ことであった、と私は受け止めています。国家や民族という枠組みを超え、一人ひとりに、神さまからの尊厳の光を取り戻してゆくこと、です。

 

 主イエスは、「神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」という福音を私たちに伝えてくださいました。神さまの目から見て、いかにあなたという存在が大切であるか、かけがえのないものであるか。それを主イエスは生涯をかけて伝えて下さいました。

 

かけがえがない、ということは、替わりがきかないということです。わたしという存在、あなたという存在の替わりになる人は一人もいません。だからこそ、一人ひとりの存在は大切なのであり、その生まれながらの権利を、私たちは共に守ってゆかねばなりません。

 

 

 

主イエスと共に、一歩一歩を

 

 いまを生きる私たちの社会を見てみますと、本日の物語に登場するナザレの村の人々に通ずるものがあるかもしれません。苦しい現実を生きる中で、復讐を宣言する言葉に共鳴してしまうような部分です。敵対を煽るような言葉をむしろ支持してしまう。そうして、物事の見方がどんどん排他的になっていってしまい、自分たちが良ければそれでいいかなと思ってしまう……。

 

そのようないまを生きる私たちの精神状況を巧みに汲み取り、たとえばトランプ大統領のような政治的なリーダーが台頭してしまっています。何かが起こった際、むしろ報復を宣言し、憎しみを煽るような発言を繰り返す。自国の栄誉を取り戻すことを強調し、「自国中心主義」を公言してはばからない……。そのような政治的なリーダーが影響力を持ってしまう現状があります。

 

 主イエスは復讐の連鎖を終わらし、憎しみの連鎖を断ち切ることをこそ宣言されました。自分とその周辺にいる人たちさえ良ければそれで良いとするのではなく、一人ひとりが大切にされること、すべての個々人に神さまからの尊厳の光を取り戻すことをこそ宣言されました。

 

それは確かに、困難な道に思えるかもしれません。理想と現実は違う、と思えてしまうかもしれません。しかし、大切なことは、この自分自身が主イエスと共に歩みたいと決意することでありましょう。主イエスの決意に心を開き、それを自分自身の道の光としようとすることでありましょう。私たちの小さな一歩一歩が、この現実を、より良いものに少しずつ変えてゆく力となってゆくのだと信じています。

 

主イエスはいまも天上の巻物を開いて、福音の言葉を語り続けてくださっています。

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである》。