2019年1月27日「新しい神殿」

2019127日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書2119 

新しい神殿

 

 

ルカによる福音書2119節《イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。/そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、/言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。/あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」/

 

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。/「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」/

 

そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」/イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。/戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

 

 

 

エルサレム神殿

 

本日の物語の舞台はエルサレム神殿です。エルサレム神殿はエルサレム市街の中心に建てられた、ユダヤ教の礼拝の中心地です。聖地であるエルサレムの、最も大切な神聖な場所とされていたのがエルサレム神殿でした。イエス・キリストが生きておられた当時、神殿は人々の目に壮麗な姿を見せていました。

 

イエス・キリストがお生まれになる20年ほど前から、ヘロデ大王という王によって神殿の大規模な修繕と拡張工事が行われていました。イエス・キリストが神殿を訪ねられた時もいまだ一部が工事中であったと言われています。ヘロデ大王は敷地を大幅に拡張して境内を広くし、その周りに回廊を巡らしました。また、白い大理石で造られていた本殿の正面を金色に装飾しました。エルサレム神殿に巡礼に来た人々は、その規模の大きさときらびやかさに驚いたことでしょう。本日の聖書箇所にも、人々が神殿の装飾に感嘆している様子が記されています(ルカによる福音書215節)。スクリーンに映しているのは、イエス・キリストが生きておられた当時のエルサレム神殿を復元した模型です。

 

紀元70年、このエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されてしまいました。神殿の外壁だけは現存しており、その西側の部分が、有名な「嘆きの壁」として残されています。この外壁もヘロデ大王による拡張工事の際に造られたものです。嘆きの壁は現在、ユダヤ教徒の方々が祈りをささげる場所となっています。皆さんも、写真やテレビの映像などで、嘆きの壁に手や額を当てて祈っているユダヤ教徒の方々の姿を見たことがある方もいらっしゃることと思います。スライドに映しているのはその嘆きの壁の写真です。高さは約19メートルもあります。長きにわたり、ここに集った人々が壁に手や額を当てて祈りをささげ続けてきたため、その部分の色が黒くなっています。これまで無数の人々が神殿の破壊を悲しみ、また幾多の民族的な苦難を経験する中で、神さまに祈りをささげてきたことのしるしです。

 

ちなみに、嘆きの壁は男性が礼拝をささげるスペースと女性が礼拝をささげるスペースが別々になっています。しかも、女性が入ることができるスペースは男性に比べて限定されており(およそ男性の3分の1)、礼拝のささげ方にも制限があります。それは女性差別であるという視点から、男女が共に祈ることができるスペースの創設を求める運動がユダヤ教内の一部の人々によって続けられてきました。その努力が実り、2016年には男女共同のスペースを新設することが承認される動きとなりましたが、保守的な考えのグループの強い反対に合い、2017年に残念ながらその案は否決されてしまいました。嘆きの壁の前にはそのような性差別の問題が横たわっていることも心に留めておきたいと思います。

 

 

 

エルサレム神殿の構造 ~当時の社会の構造を映し出すものとして

 

 エルサレム神殿の門をくぐると、まず「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭があります。「異邦人」は聖書特有の言葉で、ユダヤ人以外の人々を指す言葉です。「異邦人の庭」と呼ばれるこのスペースはユダヤ人も外国の人々も入ることができました。巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いがなされており、大勢の人々で賑わっていたようです。

 

この「異邦人の庭」から2.4メートルほど高くなったところに、「女性の庭」と呼ばれる回廊がありました。このスペースは外国の人々は入ることはゆるされず、ユダヤ教徒の男性と女性だけが入ることができました。その境目には看板が立てられ、「異邦人であってその垣を超えるものは死をもって罰せられる」と記されていたそうです(参照:『新共同訳聖書辞典』、キリスト新聞社、1995年、259頁)。神殿の外側を大きな壁が取り囲んでいたことを先ほど述べましたが、神殿の内側にも、ユダヤ人と異邦人とを隔てる「壁」が存在していたのです。当時の人々からするとその区別は「当たり前」のものとして受け止められていたのかもしれませんが、現代の私たちの視点からすると差別に当たるのはもちろんのことです。

 

「女性の庭」には13個のラッパのようなかたちをした賽銭箱が置かれていたそうです。神殿を訪れた人々はこの賽銭箱に献金をささげる決まりとなっていました。本日の聖書箇所において一人の女性がレプトン銅貨2枚をささげる場面が出て来ましたが(ルカによる福音書2113節)、その舞台となったのはこの「女性の庭」の回廊であったと推測できます。賽銭箱はお金を入れると音がしたそうです。たくさんの硬貨を入れると、それだけにぎやかな音がしたことでしょう。中には、周りの人々にアピールするため、わざとたくさんの硬貨を勢いよく入れる人もいたかもしれません。

 

神殿の内側にある「壁」はそれだけではありませんでした。「女性の庭」の内側には「男性の庭」と呼ばれるスペースがあり、そこにはユダヤ人の男性しか入ることができず、女性は入ることはできませんでした。また、病いや障がいをもっている人も入ることはできなかったそうです。現代の視点からすると、これもはっきりとした女性への差別、病気や障がいをもっている方々への差別となります。ここにもまた、人々を分け隔てる「壁」があります。先ほど「嘆きの壁」には女性への差別の問題が横たわっていると言いましたが、その問題はイエス・キリストが生きていた時代からあったのであり、いかに根深い問題であるかが分かります。

 

「男性の庭」の内側には祭司たちしか入ることができない「祭司の庭」があり、さらにその奥には神殿の「至聖所」がありました。至聖所は、神が現臨すると考えられていた場所です。至聖所には大祭司と呼ばれる宗教上のトップの人物しか入ることがゆるされていませんでした。一般の信徒と祭司たちの間にも「壁」があり、さらに祭司たちの中にも「壁」があったということが分かります。

 

 ご一緒にエルサレム神殿の構造を見てみましたが、これら神殿の構造は、イエス・キリストが生きておられた当時の社会の構造そのものを象徴的に表わしている、ということができるでしょう。社会の中に幾重もの「壁」があるという構造です。人種、国籍、宗教、性別、心身の状態等によって、人を分け隔ててしまっているという社会の構造。もちろん、これらはあくまで今から2000年前のイスラエル社会の状況であり、現在のユダヤ教内においては、たくさんの方々が差別の撤廃を求めて活動しておられます。

 

 

 

神殿の崩壊、新しい神殿の建設の予告

 

 さて、改めて本日の聖書箇所に戻りましょう。その日、主イエスと弟子たちはエルサレム神殿を訪ね、回廊でお話をしていました。ある人々は神殿の見事な装飾に感嘆していましたが、その会話を聞いていた主イエスは、驚くべき言葉を発されました。神殿の崩壊を予告されたのです。ルカによる福音書2156節《あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る》。

 

 主イエスはここで神殿の崩壊を予告する同時に、「新しい神殿」が建てられることを暗に示唆されています。その「新しい神殿」をキリスト教では伝統的に、イエス・キリストご自身とその体として受け止めて来ました。イエス・キリストご自身が、エルサレム神殿に替わる「新しい神殿」となってくださった、と受け止めて来たのですね。

 

 その大切なメッセージを受け止めると共に、ユダヤ教の人々にとっては、エルサレム神殿が破壊されたことの悲しみはいまも続いている、ということも私たちは心に留めておく必要があるでしょう。ユダヤ教の人々はイエス・キリストを「神の子・救い主」としては受け止めていませんせんので、いまだ「新しい神殿」は存在せず、破壊された神殿だけが目前に在り続けているということになります。ユダヤ教徒の人々からすると、聖なるエルサレム神殿が破壊されたという出来事は耐え難い苦しみであり、悲しみであり続けているのです。私たちは聖書を読む際、ユダヤ教の人々の信仰にも想いを馳せながら読む、ということもこれからの時代においては大切なこととなってゆくのではないでしょうか。そして、キリスト教とユダヤ教はイエス・キリストの受け止め方は違いますが――その相違は確かにとても大きなものですが――、同じ神を信じていることには変わりはない、ということを私たちは忘れてはならないでしょう。

 

 

 

新しい神殿 ~すべての「壁」が打ち壊され

 

 そのことを踏まえた上で、改めて、新約聖書が提示する「新しい神殿」について考えてみたいと思います。キリスト教は伝統的に、「新しい神殿」をイエス・キリストご自身の体として受け止めて来ました。

 

この「新しい神殿」においては、人の手で作られたあらゆる「壁」が打ち壊されています。国と国とを隔てる「壁」、男性と女性を隔てる「壁」、いわゆる「健常者」と「障がい者」を隔てる「壁」。そして人間と神を隔てる「壁」――。イエス・キリストの十字架によって、これらあらゆる「壁」を取り除かれた。あらゆる「壁」が取り除かれ、すべての人が神さまご自身によって招かれています。

 

この「新しい神殿」においては、宗教と宗教とを隔てる「壁」も取り去られています。その意味で、「新しい神殿」とは、キリスト教やユダヤ教という枠組みをも本来は超えているものだということができるでしょう。宗教、思想信条、職業、人種や国籍、性別、性的な志向性、心身の状態の違いを超えて、すべての人が共に祈ることができる場。そして、そこに集う一人ひとりが、神さまの愛の中で「あるがまま」に存在することができる場、「自分らしく」生きてゆくことができる場、それがキリストが体現してくださっている「新しい神殿」であると本日はご一緒に受け止めたいと思います。キリストが伝えてくださっている「新しい神殿」とは元来、キリスト教という枠組みをも超えた、非常に大きな視点であるということができると思います。この視点に立つとき、たとえば嘆きの壁前の礼拝における差別を撤廃しようと運動しているユダヤ教徒の方々ともつながってゆくことができるのではないでしょうか。

 

もちろん、それぞれに違いがあることは大切なことです。宗教、思想信条、職業、生まれや国籍、性別、性的な志向性、心身の状態などもまた私たちの一部であり、私という存在の「かけがえのなさ」を形成しているものです。「違いがありつつ、一つ」というのが、聖書が伝える「一致」のあり方です。ただし、違いを理由に相手を差別したり、互いの間に「壁」を築くことがあってはなりません。互いの違いやかけがえのなさを受け止め合うための「橋」をこそ、私たちはお互いの間に築いてゆかねばならないでしょう。

 

一人ひとりが「あるがまま」に「自分らしく」生きてゆくこと、そのために、私たちが互いに支え合ってゆくこと、それが神さまの願いであると信じています。

 

 

 

私たちも「壁」を少しずつ打ち去って

 

  私たちの社会にはいまだ、さまざまな「壁」があります。人間と人間を隔てる幾重もの「壁」があります。その「壁」によって、いまもたくさんの人が傷つき、悲しみ、苦しんでいます。

 

また、異なる相手への敵意や憎しみを煽る発言を繰り返し、「壁」を築くことを明言する政治的なリーダーがむしろ支持されてしまうような状況があります。私たち自身の心の内にも、他者と自分とを隔てる、目には見えない「壁」があるかもしれません。どうぞ私たちがこれら「壁」を少しずつ取り去り、一人ひとりが大切にされる社会を築いてゆくことができるよう共に力を合わせてゆきたいと願います。

 

最後に、キリストが「壁」が打ち壊して「新しい神殿」を築いてくださったことを力強く述べる聖書の箇所をご紹介して今朝のメッセージを閉じたいと思います。

 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。/それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。/従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、/使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、/キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。/キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです(エフェソの信徒への手紙21422節)