2019年1月6日「あなたはわたしの愛する子」

201916日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書31522

あなたはわたしの愛する子

 

 

ルカによる福音書31522節《民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。/そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。/そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」/ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。/

ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、/ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。/

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、/聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた

 

 

 

公現日

 

新しい年のはじめ、ごいっしょに神さまに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。今年一年、皆さんの上に、主の恵みとお守りがありますようにお祈りいたします。

 

 1225日のクリスマスはすでに終わりましたが、教会の暦ではまだクリスマスシーズンは続いています。本日16日は教会の暦では「公現日」にあたります。「公に現れる」と書いて公現日です。

 

 この公現日の歴史は古く、クリスマスがお祝いされるようになる以前から、一部の教会では16日が記念日として祝われていたそうです。もともとは、16日は「イエス・キリストが洗礼(バプテスマ)を受けた日」として祝われていました。先ほど朗読しましたように、福音書にはイエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた際、天から《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(ルカによる福音書322節)という神の声が聞こえたという記述があります。神によってイエスが「神の子」であると宣言された、すなわち、大勢の人々に対してイエスが神の子であるとあることが「公に現わされた」場面です。

 

その後、東方正教会では16日は「イエス・キリストの洗礼」をお祝いするだけではなく、「イエス・キリストの誕生」も祝う日とするようになりました。16日がクリスマスとされていたこともあったのですね。

 

 さらにその後、4世紀にトルコのニカイアで開かれた会議(ニカイア公会議)にてクリスマスが1225日に正式に決定されてからは、カトリックやプロテスタントなどの西方教会では、16日はイエスの存在が東方の学者たちをはじめとする「異邦人」(ユダヤ人以外の外国人)に対して「公に現わされた」日として受け止められるようになりました(参照:クリスマスおもしろ事典刊行委員会編『クリスマスおもしろ事典』、日本キリスト教団出版局、2003年、1637頁)。 

 

本日の聖書箇所は、16日が元々は「イエス・キリストが洗礼を受けた日」として祝われていたということにちなんで、主イエスが洗礼を受けた場面が選ばれています。改めて、これからご一緒にその場面を読んでみたいと思います。

 

 

 

イエス・キリストの洗礼

 

ルカによる福音書においては、主イエスが洗礼を受ける場面は簡潔な、短い文章で記されています。ルカによる福音書32122節《民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、/聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた》。

 

洗礼者ヨハネは当時、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」という儀式を行っていた人です。ヨハネが行っていた洗礼は、川の中に入って、全身を沈めるというやり方でした。ここでヨハネが行っていた洗礼にはまだ「クリスチャンになる」という意味合いはありません。ヨハネが行っていた洗礼には、罪を「悔い改める」という意味が込められていました。水の中に沈んで、古い自分が一度死ぬ。そして、水の中から上がると新しい自分に生まれ変わる。水の中に沈むという動作の中にはそのような象徴的な意味が込められていたのだと考えられます。

 

洗礼者ヨハネが行っていたこの悔改めの儀式は当時、多くの人々の心をひきつけていました。イスラエルの各地から、ヨハネのもとに人々が集まって来ていました。主イエスもその一人として、ヨハネのもとを訪ね、彼から洗礼を受けられました。

 

 

 

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》

 

主イエスが洗礼を受けた際、それまでにはなかった新しい出来事が起こったことを福音書は記しています。主イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来たというのです。そして、天から《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者22節)という声が聞こえて来た。神ご自身によって、主イエスが「神の子」であることが宣言された=公に現わされた瞬間です。

 

心に留めておきたいのは、《愛する子》という表現です。「神の子」であるというだけではなく、「神の愛する子」であることが述べられています。

 

この場面においては、神の言葉は主イエスお一人に対して語られたものです。その場にいた大勢の人々に対しても語られたのではなく、あくまで主イエスお一人に対して宣言されたものです。しかしその後、主イエスが全身全霊でなさってくださったことは、この神さまの声を、私たち一人ひとりに対して語りかけられている声とすることでした。《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という神さまの声が、一人ひとりに語られているものとするため、主イエスはその公の活動を始められてゆきます。主イエスが私たちの前に「公に現れて」くださったのは、私たちに神さまの愛を伝えるために他ならないと私は受け止めています。

 

ヨハネから洗礼を受けられてからその後の数年間の活動において、主イエスは、私たち一人ひとりが神に愛された存在であることを伝えるため、全精力を注がれました。病の床にある人を自らお訪ねになり、その手を握り、社会から疎外され差別されている人に寄り添われました。そうしてご生涯の最期には、私たちへの愛ゆえに、自ら受難と十字架の道を歩まれました。聖書を読むことを通して、私たちはその主イエスのお姿の一端に触れることができます。

 

 

 

聖書の言葉を十分にうまく受け入れられない自分

 

一方で、時に私たちは《これはわたしの愛する子》という言葉が自分に向けられたものであると感じられなくなることがあります。聖書には素晴らしい言葉や教えがたくさん書いてあるけれども、どこか、自分とは遠いところで語られている言葉のように感じることもあります。他ならぬ自分に対して語られている言葉であるとは思えない。あるいは、「神はあなたを愛しています」という内容の言葉を聞くと、時に、何だかこそばゆく感じたり、どこか後ろに引いていってしまう自分がいることもあるでしょう。

 

聖書の言葉を十分にうまく受け入れられないことには、色々な理由があるでしょう。一言で語ることはできませんが、私自身の場合を顧みてみますと、大きな要因として、「罪悪感」というものが関係しているかな、と思います。ここでの「罪悪感」とは、自分の存在が何か「悪い」存在なのではないかと感じる意識のことを言っています。「原罪意識」と言いかえることもできるでしょう。自分が自分であること自体が何か「悪い」ことのように感じる意識です。大小の差はあっても、私たちはそれぞれ心のどこかで「自分は悪い人間」「自分はゆるされていない」という気持ちを抱えつつ生きている部分があるのかもしれません。

 

 

 

「罪悪感」の苦しみ

 

私自身は、十代から二十代前半の頃にかけての頃が、特にその意識が顕著でした。当時、私は自分の存在が何か「悪い」ものであるように感じ、その意識が心のどこかにこびりついていて離れませんでした。そしてそのことに伴って、当時、私は聖書の言葉も十分にうまく受け止めることができないでいたように思います。自分なりに懸命に聖書を読んではいましたが、聖書を読んでいて、喜びを感じるよりも、むしろ辛い気持ちになったり反発心を覚えたりすることが多々ありました。

 

私が特にひっかかっていたのは、「罪」という言葉でした。皆さんもご存じのように、聖書には「罪」という言葉が頻繁に出て来ます。「罪」という言葉を目にする度、この罪悪感が呼び覚まされ、辛い気持ちになっていたのです。

 

私たちは罪悪感を覚えるとき、自分の心を固く閉ざしてしまいます。また、対象から離れて距離を置こうとしてしまいます。私自身の経験からすると、自分自身が罪悪感に囚われてしまっているとき、聖書が語るメッセージから遠ざかろうとしていた傾向があったように思います。よって、「愛」について語る言葉を耳にしても、身構え、心を固くし、自ら後ろに退いていってしまうのです。

 

現在、私はこの「罪悪感」と、「罪の自覚」は、異なるものとして区別するようにしています。「罪悪感」が自分が「悪い」存在だと感じることであるとすると、「罪の自覚」は、自分の言動の過ちを率直に受け入れることです。神と隣人に対して自分が犯してしまった過ちについて、「あれは間違いだった」と率直に認めることです。聖書の「罪」という言葉が指し示しているのはこの率直な「罪の自覚」であって、自分を価値のない存在とする「罪悪感」ではないのだ考えています。しかし、当時はいまだそのような区別をすることができていませんでした。「罪悪感」と「罪の自覚」とを混同してしまい、苦しんでいたように思います。

 

私たちはこの「罪悪感」の苦しみから解放されるからこそ、率直な「罪の自覚」にも至ることができるようになってゆくのではないでしょうか。言いかえれば、私たちは「罪悪感」に自身が囚われていると、自分の言動の過ちを率直に認めることが難しくなってゆきます。

 

 

「よい」という語りかけ

 

 そのような時期が何年も続く中、ある時、自分にとって大切な経験をしました。机に向かって考え事をしていた私は、ふと、自分の心にイエス・キリストが語りかけて下さったように感じました。その声をあえて言葉にするなら、「よい」という言葉でした。「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」と主が私の心に語りかけてくださったように感じたのです。それは単なる自分の現状の肯定ということではなく、自分の存在が根底から「よし」とされたと感じた経験でした。

 

この語りかけを受けて、私は、「ああ、わたしがわたしであることは、『よい』ことであったのだ」と知らされました。この経験をきっかけとして、自分が「悪い」存在なのではないかという「罪悪感」は少しずつ私の心の中でほどけ、消えてゆきました。自分という存在は「悪い」存在なのではないかという「原罪意識」は、自分の誤解であった。神さまの目から見て、私という存在は「よい」ものである、ということに気付かされました。

 

創世記1章には、神が万物を創造された後、それらをご覧になって「極めてよかった」と語られたことが記されています(創世記131節)。私はこのキリストの語りかけを通して、天地創造の初めからこの世界を貫いている、神の「よい」という祝福の声を聴いたような気がしました。それは言い換えると、神さまが私たち一人ひとりをその創造の始まりから「愛してくださっている」(エフェソの信徒への手紙14節)という実感でした。以来、私は聖書が語る「愛」の言葉も、少しずつ、自分なりに受け入れることができるようになってゆきました。

 

確かに、私たちは過ちを犯す存在です。私たちは罪を犯す存在です。しかし、そのように過ちを繰り返しさまざまな罪を犯す存在であっても、それでもなお、神さまの目から見て、私たちは根本的に「よい」存在であるのです。

 

 

 

もう一人の自分による語りかけ

 

もちろん、そうは言いましても、私自身、いまだ「罪悪感」から自由になっているわけではありません。気が付けば、否定的な想いや「原罪意識」のようなものに捉われてしまっていることが多々あります。ただし、一つだけ以前と違うのは、自分が「悪い」存在のように思える「罪悪感」は自分自身の誤解なのだ、ということに気付いているもう一人の自分がいることです。

 

自分の内に閉じこもり心がすねたようになってしまっている子どもの自分がいたら、もう一人のより成長した自分が、あの大切な経験に立ち帰るよう声をかけてあげること。神さまのあの「よい」という祝福の声に共に立ち帰るよう、自分自身に語りかけるようにしています。

 

 

 

「あなたは神さまから見て、かけがえなく大切な人」

 

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》――。主イエスはこの言葉を私たちの心に届けるため、そのご生涯をささげてくださいました。いまも私たちの傍らにいて、語り続けてくださっています。「自分は『悪い』存在だ」という苦しみを抱えながら生きる私たちに向かって、「あなたは『悪い』存在ではない。あなたは『よい』存在。あなたは神さまの目から見て、かけがえなく大切な人」と絶えず語り続けてくださっています。

 

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》――。神さまの愛の言葉を、私たちがより深く受け入れられるように、より喜びをもって受け入れることができるように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。