2019年10月13日「隣人への愛」

20191013日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ヤコブの手紙219 

隣人への愛

 

 

ヤコブの手紙219節《わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。/あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。/その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、/あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。/

わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。/だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。/また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。/もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。/しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます

 

              

 

台風19号によって広範囲に被害がもたらされています。人々の命と安全とが守られますよう祈ります。

県内でも記録的な大雨が降り、特に沿岸部で大きな被害が出ている様子です。花巻でも昨日より地域によっては避難勧告が出され、暴風警報もまだ発生しています。どうぞ皆様も引き続き、くれぐれもお気を付けください。台風通過後も、突風や土砂災害が発生する可能性がありますので、今後も十分にご注意ください。

 

 

 

《隣人愛の危機》

 

2年ほど前ですが、朝日新聞にルーテル教会の元世界連盟議長をムニブ・ユナンさんという方のインタビューが掲載されていました2017922日付)。タイトルは「隣人愛の危機 声上げ続ける」。ユナン氏はその新聞のインタビューの中で、《私たちはいま、『隣人愛の危機』に直面しています》と語っていました。「隣人愛の危機」――そのインタビュー記事を読んで以来、この言葉が重大な事柄としてずっと私の心で響き続けています。

 

「隣人愛」とは、皆さんもよくご存じのように、聖書の《隣人を自分のように愛しなさい》という一節に由来しているものです。隣人愛について、ユナン氏はインタビューの中で次のように説明しておられました。《隣人を愛するとは情緒的なことではなく、自分とは異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解することです》。

 

「愛する」という言葉を一般に、「好き」「大好き」という自分の心の中の感情を表すものとして用いられていることが多いと思います。しかし、このインタビューでは、「隣人を愛する」とは情緒的なことのみを指すのではない、と語られています。隣人愛とは心の中の感情にとどまるものではなく、自分とは異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解しようとすること、その姿勢を指すのだと語られているのが印象的です。

 

 

 

「隣人を、あなたと同じ人間として、大切にしなさい」

 

イエス・キリストは最も大切な掟として、「神を愛すること」と、この「隣人を愛すること」を教えるこの掟を挙げられました。

 

《隣人を自分のように愛しなさい》。この教えはもともとは、旧約聖書のレビ記という書1918節)に記されているものです。この教えを私なりに言い直してみますと、「隣人を、あなたと同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。

 

「愛する」ではなく、「大切にする」としたのは、ここでは「好き」「嫌い」という心の中の感情よりも、相手を尊重するという具体的な行動が問われていると考えるからです。極端なことを言いますと、いまは相手のことが好きになれなくてもよい。たとえいまは相手のことを心の中では好きになれなくても、それでも相手を「自分と同じ一人の人間として」尊重すること、敬意をもって接すること。少なくとも、相手を不平等に扱ったり、相手の人格を攻撃したり、相手の尊厳を傷つけることはしない、ということが言われています。

 

私たちの心の中にある感情自体は、急に無理やり変えることはできません。好きになれない相手を無理に好きになろうと自分に強制することは不可能なことですし、またすべきことではないでしょう。しかし、その相手を同じ一人の人間として尊重してゆくことはできます。その姿勢こそが私たちに問われているのだと受け止めています。

 

 

 

「同じ一人の人間として」見ることができない現実

 

 と言いつつも、私たちの普段の生活を顧みます時、周囲にいる人々を自分と同じ一人の人間として見ることができていないことが多いことを思わされます。目の前にいる人もまた自分と同じように人格をもち、自分と同じように悩み喜びながら生きているという当たり前のことを、つい忘れがちになってしまうのです。時に、周囲の人々が自分にとって「敵」のように見えたり、理解不能な「宇宙人」のように見えてしまう時もあるかもしれません。私たちはなかなか、目の前にいる人を同じ人間としてまことに尊重することは難しい。気が付くと人を分け隔てしてしまっている私たちです。

 

さきほどお読みしたヤコブの手紙の中にも、そのような私たちの姿に対する厳しい言葉が記されていました。ヤコブの手紙289節《もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。/しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます》。

「隣人を愛する」と口では言っていても、実際の振舞いがその言葉と相容れないものであるのなら意味がない、とヤコブの手紙の著者は厳しく批判しています。

この手紙が書かれた当時、教会の中には、「隣人を愛する」と言いながら実際には人を「分け隔てしている」人々がいたようです。具体的な例として、教会の会堂に立派な身なりの人が入ってきたら尊重するけれども、貧しい身なりの人が入ってきたら、軽んじる14節)振る舞いをする人々が教会の中にいたことが記されています。「隣人を愛する」といいながら、自分に利益を与えてくれる人だけを重んじ、そうではない人々を軽んじているなら、隣人愛を実践していることにはならないでしょう。「人を分け隔てする」とは、直截的な言葉言いかえれば、「人を差別している」ということになります。

 

 

 

「人情」と「人道」の違い

 

 近年、自分の都合によって人を「わけ隔ててしまう」傾向が私たち日本の社会においてより強まってきているように思います。皆さんも危機感を覚えていらっしゃるのではないでしょうか。

 

 先日の礼拝で、立教大学教授の長有紀枝さんの言葉をご紹介しました。長さんは地雷廃絶活動や紛争下の緊急人道支援の活動に携わってこられた方です。長さんはある講演の中で、「人情」と「人道」は違う、ということをお話しされていました。

「人情」は家族や友人、同じ組織のメンバーなど、身近な人に対する想いであり、助けを必要としていたら何かをしたいと行動を起こすこと。たとえば任侠映画でも、好んでこの人情が描かれています。対して、「人道」はこの人情の枠を超え、自分が会ったことのない人、直接には知らない人に想いを寄せ、行動を起こすこと。支援活動において大切なのはこの人道なのだと語っておられたのが印象的でした。

また私たち日本の社会では人情はあるけれども、人道はなかなか定着しない、とおっしゃっていました。人情から人道へ――これが私たちの社会の課題です。聖書が伝える隣人愛もまた、この人道的な視点がなくては成り立たないものであると思います。

 

 

 

憐れみ ~人の痛みが分かること

 

長有紀枝さんがご講演の中で、「人道」的な視点を私たちの内に根付かせてゆくために大切なこととして挙げていらっしゃったのは、「想像力」でした。特に、「他者の痛みに対する想像力」が大切であるとおっしゃっていました。

 

本日の聖書箇所の少し後に、次の一文が記されていました。13節《人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです》。大切なキーワードとして、《憐れみ》という言葉が出てきています。

 

カトリックのフランシスコ会の司祭の本田哲郎神父は、この「憐れみ」という言葉を「人の痛みが分かること」と訳されています。分かりやすい、素晴らしい訳であると思います。「憐れみの心をもつこと」とは、すなわち、「人の痛みが分かる心」をもつこと、そう捉えなおしてみますと、スッと心に入ってくる気がいたします。

 

先ほどご紹介したムニブ・ユナン氏のインタビューでも、《隣人を愛するとは情緒的なことではなく、自分とは異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解することです》と語られていましたね。

 

隣り人を、自分と同じ一人の人間として愛するために大切なこと。それはその人の痛みを理解しようとすることなのではないでしょうか。もしも自分が相手の立場だったら、自分が同じような状況だったら――そう少し想像するだけで、目の前にいる人がまた新たな姿で立ち現れてくることでしょう。

 

私たちの社会は現在、人の痛みへの想像力、感受性が見失われつつある危機的な状況にあります。他者の痛みへの想像力、感受性を取り戻し、育んでゆくことは、いまの私たちの社会の喫緊の課題であるでしょう。

 

 

 

主のまなざし ~「わたしの目にあなたは価高く、貴い」

 

  隣人愛を実践するために、私が大切であると信じるもう一つのこと。それは、神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴いのだ、ということです。この真理を私たちの人間関係の土台としてゆくことが大切であると思います。

 

旧約聖書のイザヤ書に、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります(イザヤ書434節)。神さまがイスラエルの民に語りかけた言葉です。この言葉はいま、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられています。主イエスが私たち一人ひとりにいつも伝えて下さっていること、それは、神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い、という福音であり、真理です。

 

 主イエスはこの私を、一人の人間として受け入れて下さっています。価高く、貴い、かけがえのない存在として見つめ、重んじて下さっています。自分の目に、いかに自分が価値のない存在のように思えても、神さまの目から見て、私という人間は、かけがえのない、いとおしい存在であるのです。私たちが立ち還るべきは、この主イエスのまなざしです。

 

この主のまなざしに私たちのまなざしを合わせてみる時、世界はまったく違って見えてくるでしょう。この主のまなざしと共に、周囲の人々を見てみると、その人々が「自分と同じ神に愛された人」であるということが少しずつ分かってきます。自分とは違うその人も「自分と同じ一人の人間」、しかも、自分と同じ、神さまの目から見て、かけがえのなく大切な人であるのだということが分かってきます。自分とは異なるその人は、恐ろしい「敵」ではなく、私と同じ一人の人間であるのだ、と。神さまの目から見てかけがえのない、いとおしい、一人の人間であるのだ、と。

 

 どうぞ私たちが痛みに対する感受性を取り戻してゆくことができますように。またそして、主が私たちをかけがえのない存在として見つめて下さっているように、私たちも互いをかけがえのない存在として見つめ、互いに尊重し合ってゆくことができますように願います。