2019年10月27日「見よ、それは極めて良かった」

20191027日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:創世記115節、2431節前半

 

見よ、それは極めて良かった

 

 

創世記115節、2431節前半《初めに、神は天地を創造された。/地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。/神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。/神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、/光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。/…

 

神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。/神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。/神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」/神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。/神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」/神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。/地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。/神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった

 

 

 

台風19号と豪雨災害

 

この度の台風19号によって、各地に甚大な被害がもたらされています。それに続く台風21号の豪雨によって、さらなる被害ももたらされています。河川の氾濫、土砂崩れが発生し、新たに10名の方が亡くなられました。

いま助けを必要としている方々に支援が行きわたりますように、困難や悲しみの中にある方々の上に主のお支えがありますように、引き続き、ご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

また私たちも改めて、日ごろから防災への備えをしてゆきたいと思います。

 

 

 

私が洗礼を受けたとき

 

 先週、礼拝の中でHさんの洗礼式が行われました。ともに洗礼の喜びを分かち合うことができ、心より感謝です。Hさんの上に、神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

 

 私自身のことを振り返りますと、私が洗礼を受けたのは2005年のイースター、もうすぐ大学4年生になろうとしていた春でした。それから14年ほどが経ったことになります。長らく、何十年と教会に来てらっしゃる方からすると、14年前なんてまだ最近のことと思われることでしょう。もちろん、当時は自分がその先牧師になるとは思ってもいませんでした。

 

 いまも聖書について日々勉強中ですが、当時はもっと、聖書についてよく分からないことがたくさんありました。キリスト教について様々なことがいまだよく分からないままに、しかし何かに促され背中を押されるようにして洗礼を受けた、というのが実際のところです。自分が復活のイエス・キリストと出会ったと感じる経験をしたのは、洗礼を受けてからもう少し時間が経ってからのことでした。

 

 

 

「罪」という言葉への戸惑い

 

私は母がクリスチャンで、キリスト教が身近な環境に育ちました。亡くなった父方の祖父は広島の因島市のバプテスト教会で牧師をしていました。幼い頃から母に連れられて教会に行っていました。中学生になると部活の練習や試合があるため教会に行くことは少なくなりましたが、高校生になると、自分なりに聖書を手に取って読むようになりました。

 

ただ、先ほど申しましたように、聖書を読んでいてもどうもよく分からない、というのがその頃の自分の実感でした。何か心にひっかかるものがあって、聖書の言葉が素直に入ってこないのです。その感覚は洗礼を受けてからも続いていました。

 

 もちろん、聖書について分からないことは、牧師になった現在もたくさんあります。しかし当時は何か根本的なところで、聖書の言葉に戸惑いを覚えていた気がいたします。

 

10代から20代前半にかけての当時、私が特にひっかかっていたのは「罪」という言葉でした。この言葉が心にひっかかり、どうしても聖書を読んでいてもモヤモヤとしてきてしまうのでした。

 

聖書には「罪」という言葉が繰り返し出てまいります。聖書において人間の罪というのは欠かせない視点ですが、この罪という言葉について、どう受け止めたらよいのかが分かりませんでした。

 

当時、私は心のどこかで、自分が存在していること自体が何か「悪い」ことであるように感じていたように思います。その「罪悪感」のような想いが心のどこかから離れませんでした。自分がこうして生きていること自体が、何か悪いことなのではないか……という意識です。「原罪意識」という言葉で言いかえることができるかもしれません。振り返りますと、聖書を開いて「罪」という言葉を目にする度、この罪悪感が呼び覚まされ、辛い気持ちになっていたように思います。

 

 

 

心の奥底の渇き

 

自分を“あるがまま”に受け入れることができないということ――。これは、現代に生きる私たちが抱える最も大きな課題の一つではないでしょうか。当時の私は、「自分が自分であること」が何か悪いことのように感じていました部分があったように思います。

 

そのように、自分で自分の存在を受け入れることができないとき、私たちは心に渇きのようなものを覚えます。それは、どれだけ水を飲んでも癒されない、別の渇きです。聖書を自分で読み始めた高校生の頃から、思えば、私はずっと心のどこかにこの渇きを覚えていたように思います。

 

またそして、私たちの社会においてもいま、非常に多くの人が、心の奥底に渇きを覚えながら生活しているのではないでしょうか。

 

 

 

「よい」という語りかけを聴いた経験 

 

 そのような中、ある時、自分にとって大切な経験をしました。洗礼を受けてから1年近くが経とうとしていた時でした。

 

学生寮の自室にて、机に向かって考え事をしていた私はふと、自分の心に、復活したイエス・キリストが語りかけて下さったように感じました。その声をあえて言葉にするなら、「よい」という言葉でした。「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」とキリストが私の心に語りかけてくださったように思いました。

 

この語りかけを受けて、私は、「ああ、わたしがわたしであることは、『よい』ことであったのだ」と思いました。その瞬間、自分の心のモヤモヤがほどかれ、消えてゆくのを感じました。

そして、自分の内にあった渇きが癒されてゆくように感じました。心のどこかでずっと感じ続けていた渇きが少しずつ、確かに、癒されてゆくのを感じたのです。

 

 自分が自分であって「よい」のだ、と思うことができたこの経験は、いまも私にとって大切な経験、信仰の原点であり続けています。自分を見失いそうになるとき、やはり自分は「悪い」存在なのではないかと思ってしまいそうになるとき、この経験に自分の心を立ち還らせるようにしています。そうして、いまも私たち一人ひとりの存在の内から湧き出し、鳴りひびいている泉に心を向けるようにしています。

 

 

 

「罪悪感」と「罪の自覚」の違い

 

この経験を踏まえ、改めて、「罪」ということを考えてきました。現在、私が思っていることは、自分は悪い存在なのではないかと捉える「罪悪感」と、自分の過ちを率直に受け入れる「罪の自覚」とはまた異なるものだ、ということです。すでに述べましたように、高校生から大学生にかけて、私は前者の「罪悪感」に苦しんできました。

 

対して、後者の「罪の自覚」とは、自分が神さまに対して、また隣人に対して犯してしまった過ちを、心からの痛みをもって悔いることです。「本当に申し訳なかった」と率直に自分の過ちを認めることです。聖書が私たちに教えているのはおそらくこの罪の自覚であって、罪悪感ではないのだ、ということに気付かされました。

 

確かに私たちはそれぞれ、弱さや欠点に見えるものを持っています。失敗や過ちを繰り返します。自己中心的な部分をもち、隣り人を傷つけずに生きることができていません。私たちの目から見て、他者や自分の醜さばかりが目に映ることもあるでしょう。そのように、私たちは様々な過ちを犯さざるを得ない弱い存在であるとしても、私たちが存在していること自体は極めて「よい」ことである、これが聖書のメッセージなのだ、といま私はそう受けとめています。私たちの罪よりももっと深いところで、神さまの「よい」という祝福の声は響いている。いま、私たち一人ひとりの存在を包み、また、私たちの存在の内から溢れ出ているのだ、と。

 

 

 

私たちは根本的に「よい」存在

 

私たちが「罪」をもっているということと、私たちの存在自体が「悪い」ことであると捉えることは、まったく別のことです。私たちがたとえ「罪」をもっていても、それでもなお、私たち人間は根本的に、「よい」ものなのです。

 

わたしたちの目から見て、自分のこれまでの歩みがどれほど過ちで満ちていていようとも、自分という人間がどれほど悪いものであると思えようとも、神さまの目から見て、私たち一人ひとりはよいものです。創り主である神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在はよいものであり、美しいものであり、価高く貴い(イザヤ書434節)ものです。いまは、そのように確信しています。

 

また、そのように自分が“あるがまま”に受け止められている、と信じることができてこそ、私たちは率直に、自分の過ちを自覚することができるようになってゆくのではないでしょうか。神さまの無条件の愛が土台にあるからこそ、私たちは少しずつ、まことの罪の自覚へと、導かれてゆくのだと思います。

 

 

 

「罪」よりさらに根本にある、神さまの「よい」という祝福の声

 

私たち人間の「罪」よりさらに根本にあるもの、それは、神の「よい」という祝福です。私たちの「罪」よりももっと深いところで、この神さまの「よい」という“声”は響きわたっています。

 

先ほどご一緒に創世記1章をお読みしました。天地創造のはじまりのとき、神さまはご自分がつくられたすべてのものをご覧になって、《見よ、それは極めて良かった》とおっしゃった、と聖書は記します。《神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった(創世記131節)

 

神さまの「よい」という祝福の中で、私たち一人ひとりは生まれ出ました。そしていまも、この祝福の声は私たちを包んでいます。この祝福の声は、天地創造のはじめから、いまも私たち人間の歴史を貫いているのだと信じています。

 

 

 

自分自身を大切にし、そして互いを大切にしてゆくことができますように

 

いま私たちが生きている社会はますます、自尊心を育みづらい、自己肯定感を持ちづらい社会になっています。私たちの社会ではいま、「よい」という声が見失われているのではないでしょうか。むしろ、自分や他者を「悪い」ものとして裁く声がいたるところで聞かれている現状があるように思います。

 

いかに自分自身を肯定し、自分自身を大切にしてゆくことができるか、私たちはいま、このことが大切な課題として問われています。そのような中、聖書が提示する視点――私たち一人ひとりは根本的に「よい」存在――は、私たちにとって大切な指針となるものではないかと考えます。

 

 私たちが自分自身を大切にし、そして互いを大切にしてゆくことができますように。一人ひとりの存在が極めて「よい」ものとして尊重される世界の実現を求めて、ごいっしょに祈りをあわせてゆきたいと願います。