2019年11月10日「祝福の源となるように」

20191110日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:創世記1219 

祝福の源となるように

  

 

創世記1219節《主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」/アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。/アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。/アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。/主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。/アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。/アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った

 

 

 

聖書 ~神と人間の約束の物語

 

聖書という書は、皆さんもよくご存じのように「旧約聖書」と「新約聖書」から成り立っています。「旧約」「新約」の「約」は、「契約」「約束」の「約」です。この名称からも分かりますように、聖書という書物は、「約束の書」であるということができます。それはわたしたち人間同士の約束ではなく、神と人間の約束です。神さまがわたしたち人間に与えてくださった約束が、歴史の中でどのように実現していったかを記した書物が、聖書です。

 

その約束は、イスラエル民族の祖先アブラハムとサラにさかのぼります。旧約聖書『創世記』に記されるアブラハム物語から、神とイスラエルの民の約束の物語がはじまってゆきます。

 

 

 

アブラハム物語 ~祝福の源となるように

 

その始まりの物語である創世記12章を、改めてご一緒に振り返ってみたいと思います。創世121-9節、神さまがイスラエル民族の父祖アブラハムと出会ってくださる場面です。

 

 それはアブラハムが75歳のときでした。妻のサラとの間には子どもはおらず、近親者で若い者は、甥のロトだけでした。当時の価値観においては、子孫が続いてゆくということが非常に重要なこととされていました。きっとアブラハムはこう思っていたことでしょう。(自分が死んだら、われわれ一族はこれでもう終わりだろう……)。

 

失意の日々を過ごすアブラハムの前に、ある日、神が現れておっしゃいました。《あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る(創世記1213

 

 将来への希望が失われていたアブラハムに、「子孫の繁栄」を約束する神さまの言葉が与えられました。驚くべきことに、後継ぎがいないアブラハムの一族が、この先、大いなる国民となるというのです。地上のあらゆる人々の祝福の源となる、というのです。アブラハムはいったいこの先何が起こるのか分からないままに、しかし主の約束の言葉に従って、妻のサラと甥のロトと共に、カナンの地へ向けて出発しました。

 

 そうして、アブラハム一行がカナンの地にたどり着いたとき、再び神さまが現れておっしゃいました。《あなたの子孫に、この土地を与える(創世記127節)

 

アブラハムの一族が偉大な国民となる約束の保証として、カナンの地をアブラハムの子孫に与えると神さまはおっしゃったのです。土地は、私たちの生活の基盤となるものです。当時、「豊かな土地」を得ることは、豊かな生活を育んでゆくことの不可欠の条件であるとされていました。豊かなカナンの地が与えられることが、アブラハムとサラにとって、自分の一族が主から祝福され、大いなる国民となってゆくことの保証となりました。

 

簡単にアブラハム物語の始まりを振り返ってみましたが、聖書の約束の物語は、失意の中にいた一組の夫婦からはじまった、ということが分かります。失意の底にいたアブラハムとサラに、神さまからの約束の言葉が与えられました。私たち人間の目から見ると希望が見えない状況のただ中に、神からの新しい一歩が示されました。

 

 

 

「子孫繁栄」の約束から「永遠の命」の約束へ

 

いま述べましたように、創世記のアブラハムの物語において重要な要素となっているのは「子孫(一族)の繁栄」です。アブラハムを通して、その神さまの約束が実現される、と創世記は記します。

 

では、新約聖書における約束とは何でしょうか。同じ神さまの約束ですが、重きを置かれる点が変わっています。それは、「永遠の命」の約束です。イエス・キリストを通して、その神さまの新しい約束が実現される、と新約聖書は語ります。

 

アブラハム物語と、新約聖書の物語に共通しているのは、共通しているのは、「わたしたちの人生は、死によって終わるものではない」というメッセージです。アブラハムにとって、それは子孫の繁栄を意味していました。アブラハム個人が生涯を終えても、その子孫が神の祝福の中で繁栄し続ける限り、アブラハムもまた大きな命の中を生き続けるのだという受け止め方です。

 

 新約聖書が記す新しい約束もまた、「死は終わりではない」ということを語っています。ただしそれは、私たちがこの生涯を終えても、この「わたし」が神さまの命の中を生き続ける、というのが永遠の命の約束です。

 

「わたし」という存在は、死をもって消え去ってしまうものではない。イエス・キリストに結び合わされた私たちは、永遠の命に結ばれる――。教会はこの永遠の命の約束をこの2000年間、大切に受け継ぎ続けてきました。

 

 

 

「わたしはある」

 

 先ほどヨハネによる福音書85159節を読んでいただきました。その中に、イエス・キリストに敵対する人々が、主イエスの言葉を引用しながら、次のように批判する言葉が出てきます。

 

 5253節《ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。/私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」》。

 

 ここで批判者たちは自分たちの父祖アブラハムを引き合いに出し、あの偉大なアブラハムでさえ「死んだ」ということを強調しています。あのアブラハムも死んでしまったというのに、あなたは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。一体、あなたは何者のつもりなのか、と人々は主イエスを批判しています。人々は、主イエスが伝える新しい約束――永遠の命の約束が一体何のことか、いまだ理解できていないことが分かります。

 

 この問答の最後に、主イエスは印象深い言葉を語っておられます。《イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」58節)

 

 不思議な表現の言葉です。はるか昔に生きていた父祖アブラハムが生まれる前から、《わたしはある》――。父祖アブラハムが生まれる前から、「わたし」は「わたし」として存在していたのだ、と主イエスはお語りになっています。すなわち、ここで主イエスはご自身の内にこそ「永遠の命」あることを宣言しておられるのです。

 

わたしはある》。この主イエスの言葉は、「わたしである」「わたしはわたしである」とも訳すことのできる言葉です。ヨハネによる福音書の中に何度も出てくる言葉の一つで、短い言葉ではありますが、この言葉には汲んでも汲みつくせない深い意味が込められています。

 

本日は、この《わたしはある》という言葉を、「わたしは永遠の命である」とのメッセージが込められた言葉として受け止めてみたいと思います。

 

 

 

「わたしはここにいる、わたしは永遠の命である」

 

「わたしはここにいる、わたしは永遠の命である」――イエス・キリストは私たちにいつもそう語り掛けてくださっています。

 

一方で、私たちは永遠の命というものがどういうものか分からなくなることがあります。死の現実を前にして、「復活」や「永遠の命」という言葉が何か空々しく思える時もあるでしょう。また苦しみや悩みの内にあるとき、私たちは神さまがそばにいてくださることを感じられなくなることもあります。

 

しかし、たとえ私たちの耳には聞こえなくても、永遠の命である主イエスは、いつも、どんなときにも、私たちに語りかけてくださっているのだと私は信じています。

 

私はよく思い起こすエピソードがあります。アウシュヴィッツの強制収容所での経験を記したフランクルの『夜と霧』の中に記されたエピソードです。

 

強制収容所の病棟において亡くなった、ある一人の若い女性がいました。亡くなる数日前、医師であったフランクルは病の床にあるこの女性を訪ねました。

そのとき、彼女は病室の窓の外のマロニエの木を指さして、「あの木とよくおしゃべりをするのです」と言ったそうです。フランクルは当惑しつつ、「木も何か言うのですか」と尋ねた。すると彼女はこう応えたそうです。《木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……》(『夜と霧』V・E・フランクル=著、池田香代子=訳、みすず書房)

 

病院の窓の外に植えられた、一本の木。この一本の木から、永遠の命の声が聴こえてきたというこのエピソードは、私の心にずっと刻まれています。私たちの世界にはきっと、このようなことが起こるのではないでしょうか。永遠の命は聖書を通してだけではなく、身近に存在するあらゆるものを通して、いつも私たちに語り掛けてくださっているのだと信じています。

 

永遠の命は、どこか遠く離れたところから私たちに語り掛けておられるのではありません。私たちがどこにいようと、私たちがどれほど困難の中にいようと、いつも私たちの傍らにいて、語り掛けてくださっています。私たちと共に喜び、共に涙を流しながら、その約束の言葉を語り続けてくださっています。

 

 ほんのかすかにでもこの声を聴き取ることができたとき、この命の約束の言葉を感じ取ることができたとき、私たちの心には光が灯ります。たとえ盛大な光ではなく、暗闇に差し込むかすかな光のようであったとしても、この小さな光こそが、私たちの心に消えることのない慰めを与え、消えることのない希望を与えてくださいます。

 

「わたしはここにいる、わたしはここにいる。わたしは永遠の命である。あなたは決して独りではない」――。

 

 命の約束の言葉に、いま私たちの心を開きたいと思います。