2019年11月3日「アダムとエバ」

2019113日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:創世記3115

アダムとエバ

 

 

創世記3115節《主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」/女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。/でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」/蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。/それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」/女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。/二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。/その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、/主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」/彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」/神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」/アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」/主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」/主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。/お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

 

 

 

アダムとエバ

 

 いまご一緒にお読みしたのは、創世記に記されたアダムとエバの物語です。はじめの人間であるアダムとエバが蛇に誘惑され、神から「食べてはいけない」と言われていた善悪の知識の木の実(禁断の果実)を食べてしまった。結果、アダムとエバはエデンの園を出ることになった、というエピソードは非常に有名ですね。古来から数多くの絵画のモチーフにもなってきました。

 

 スクリーンに映しているのは、ドイツのクラーナハという画家が描いたアダムとエバの絵です。アダムとエバが善悪の知識の木の実から果実を取る様子が描かれています。木の幹には蛇がからみついていますね。

 ちなみに、この絵を描いたクラーハナ14721553という人は宗教改革者ルターと友人であり、ルターの肖像画を残したことでも知られています。先週の1031日は、宗教改革記念日でしたね。

 

 このクラーナハ・バージョンのアダムとエバの絵では、善悪の知識の木はリンゴの木として描かれているのが分かります。西欧ではしばしば、善悪の知識の木の実はリンゴとして表現されることがありました。英語では、男性ののどぼとけは「Adam’s apple(アダムのリンゴ)」と呼ばれます。

 

 さて、このアダムとエバは最初の人類として、創世記に登場します。先ほどから私はアダムとエバを名前のようにして語ってきましたが、厳密には、アダムという言葉は固有名詞ではありません。アダムとは、訳すると、「人(人類)」という意味の言葉です。

 

 この「アダム=人」という言葉は、「土」という言葉から来ています。はじまりの時、神が人を土の塵から形作ったというのがその由来です27節)。アダムのパートナーである「エバ」は「命」の意味があります320節)

 

 

 

創世記の物語 ~私たちの「人間関係」、そして「神と人間の関係」を語るもの

 

 本日の物語の設定を改めて確認しておきましょう。舞台は、エデンの園。そこは食べる物に困らない、人が住むに最適な、楽園のような場所でした。

 

 園の中央には、二本の木が生えていました。一本は、すでに述べました善悪の知識の木。もう一本は命の木。神はアダム=人に対してあらかじめ、園のすべての木から取って食べなさい。/ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうと伝えていました21617節)

 

 アダムとエバは生活の労苦とは無縁の、何不自由ない生活をしていました。しかし、ある時、事件が起こります。野の生き物の内で最も賢い生き物であった蛇から、善悪の知識の木の実を食べるよう、誘惑を受けるのです。これが、本日の聖書箇所3115節のエピソードです。結果、二人はエデンの園から追い出されることになります。

 

 これらの物語は、もちろん、ある種の神話的な物語です。現代を生きる私たちが知っている科学的な知識とは相いれない部分も多々あります。けれどもこれらの物語は、私たち人間について、深いメッセージを伝えてくれているものです。私たちはいまも、これらの物語から、様々な大切なメッセージをくみ取ることができるのではないでしょうか。

 

 私自身、これらの創世記の物語をまだまだ理解しきれているわけではありませんが、たとえば、本日の物語は、ほかならぬ私たちの「人間関係」について、またそして「神と人間の関係」について、意味深いメッセージを語ってくれているのだと受け止めることができます。

 

 

 

蛇の誘惑 ~私たちの関係性を壊す力

 

 私たちが人との関係を作るうえで最も大切なことの一つに、信頼関係を築いてゆくことがあります。信頼というのは、私たちが人との関係を作る上で、とても大切なものですよね。逆に言うと、信頼関係が失われれば、私たちは互いに関係性を作ってゆくのが難しくなります。

 

 本日の物語に登場する蛇は、私たちの「関係性を壊す」悪しき力の象徴として登場しているのだと解釈することもできるでしょう。このような力は私たちの間にも、私たちの内にも絶えず潜み、いつでも頭をもたげて働き始め得るものであるでしょう。

 

 では、具体的には、蛇はどのような言動をもって、アダムとエバの関係性、そしてアダムとエバと神との関係性を壊していったのでしょうか。

 

 

 

事柄の歪曲

 

 蛇は最初に、エバにこう問いかけます。園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか31節)。ここで蛇は、「本当に、神さまは……と言ったのですか?」と疑問を投げかけます。当初、エバの内は神さまに対する信頼で満ちていたわけですが、そこに陰りを生じさせようとしたのですね。相手への疑いの気持ちが生じたとき、私たちの信頼関係には揺らぎが生じ始めることがあります。

 

 そのために蛇が用いた手法が、事柄の歪曲です。神がおっしゃったのは《園のすべての木から取って食べなさい。/ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう21617節)という言葉でした。対して、蛇は《園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか》とエバに問いかけました。一見、同じようなことを言っているようで、立ち止まって考えてみると、全然違う意味のことを言っているのが分かります。蛇は意図的に、不正確な引用をしているのですね。神さまの言葉を歪曲し、事実を歪曲することをもって、相手の心に疑いや混乱を生じさせ、信頼関係を壊そうとしているのです。

 

 エバはその蛇のずる賢い問いかけに対し、冷静に、正確な言葉をもって答えます。《わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。/でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました23節)。事柄の歪曲に対しては、正確な言葉をもって対応する必要があります。それをしないでいると、気づかないうちに誤解が生じ、どんどん関係性が損なわれて行ってしまうことがあります。恐ろしいことですね。この時点では、エバは冷静に対応することができました。

 

 しかし蛇はさらにエバに対して語ります。《決して死ぬことはない。/それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ4節)。ここでも、蛇は事柄の歪曲を行っています。ある本では、ここで神がおっしゃっていた「死」とは肉体的な死ではなく、信頼関係が損なわれること――すなわち人格的な死であったのに、蛇はそれを肉体的な生死の問題にすりかえて彼女に語ったのだと記されていました(並木浩一氏『講義録 創世記を読む』、112頁、ナザレン新書)。事柄の歪曲、本質のすりかえを行うことによって、再びエバを惑わせようとしたのですね。エバはこの蛇の言葉によって、大きく揺らいでしまいます。

 

 結果、エバは木の実を取って食べ、一緒にいたアダムも木の実を食べてしまいました。そうすると、二人は自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆うことをします。

 

こうして、アダムとエバは自ら、神との信頼関係を壊してしまいました。蛇のたくらみは成功したのです。肉体的に死ぬことはありませんでしたが、神さまがあらかじめおっしゃっていた通り、善悪の知識の実を食べることによって、神さまとのかけがえのない関係性が破壊されてしまったのです。

 

事柄を歪曲することが、いかに私たちの関係性に破壊的なダメージを与えるものか、そのメッセージをここから読み取ることもできるでしょう。蛇はここで神さまの言葉を歪曲しているわけですから、その罪責は極めて大きいということができます。

 

 

 

過ちの否認と責任転嫁

 

 神との信頼関係が壊れた二人は、神の顔を避けて、園の木の間に隠れるようになります。二人の内にこれまでにない感情――「罪悪感」が生じてしまっていたのです。罪悪感が生じてしまった二人は、自分たちの過ちを率直に認めることもできなくなってゆきます。

 

 神がアダムに対して、食べてはいけないと命じた木から実を食べたのか、と問うと、アダムは《あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました312節)と答えます。神さまとエバに責任を転嫁しているのですね。

 

 自分の過ちを認めず、誰かに責任を転嫁する。これは私たちが日々の生活において行ってしまい得ることですが、これは私たちの関係性を壊していってしまうものです。アダムとエバの関係性にもここで亀裂が生じていることが分かります。関係性を壊す悪しき力が蛇から人間たちに連鎖をしてしまっています。

 

 神がエバに対して「何ということをしたのか」と言うと、エバは《蛇がだましたので、食べてしまいました313節)と答えます。蛇が誘惑したのは事実ですが、自分の犯してしまった過ちを認める姿勢はやはりここには認められません。

 

 過ちの否認と責任転嫁がいかに私たちの関係性を壊していってしまうかを、私たちはここから読み取ることができます。また、その過ちの否認と責任転嫁が、神さまとの信頼関係が失われたところから生じてしまっていることも、私たちが心に留めるべき重要な点でありましょう。

 

 

 

イエス・キリストの命の言葉 ~関係性の破れの回復へ

 

 以上、部分的にではありますが、アダムとエバの物語をご一緒に見てまいりました。このように、創世記の物語は「人間関係」について、そして「神と人間の関係」について、いまも私たちに切実なメッセージを語ってくれています。

 

3章のアダムとエバの物語以降、描かれてゆく創世記の物語は、私たちと神さまとの関係が壊されてゆくことを描く物語でもあります。人と人との信頼関係が破壊され、そして神と人との信頼関係が壊されてゆく。その中で、人々は様々な苦しみを経験してゆくこととなります。その苦しみ、その痛みは、いまを生きる私たちとも通じているものであると思います。私たちもまた、様々な関係性の破れによって傷つき、呻き、苦しんでいます。人間関係を壊す力が連鎖し、ますます勢いを増してしまっている現状があります。

 

 キリスト教会は、このいかんともしがたい私たちの関係性の破れ――人と人との関係の破れ、そしてその根本にある神と人との関係の破れを回復してくださった方、それがイエス・キリストであると受け止めてきました。イエス・キリストの命の言葉の内に、私たちのこの痛みが癒される道がある、そう私たちは信じています。

 

善悪の知識の木の隣に植えられていた、命の木――。アダムとエバはこの命の木の実を食べることはありませんでしたが、いま、私たちはイエス・キリストを通して、この命の木の実をいただいていると受け止めることができます。この主イエスの命の言葉は、私たちの関係の破れを癒し、私たちをまことの命へと導いてくださることを信じます。

 

主イエスが与えてくださる命の言葉に、いま私たちの心を開きたいと思います。