2019年12月1日「恵みの良い知らせを伝え」

2019121日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書52110

恵みの良い知らせを伝え

 

 

イザヤ書52110節《奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。/立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。/主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは/銀によらずに買い戻される」と。/主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。/そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。/それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。/

 

いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。/その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。/歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。/主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ

 

 

 

アドベント

 

本日から、アドベント(待降節)に入りました。アドベントとは、「到来」という意味の言葉です。「イエス・キリストの到来」ですね。アドベントは、イエス・キリストの誕生を記念するクリスマスを共に待ち望む期間のことを言います。ローマ・カトリック教会では、アドベントから新しい一年がはじまるとされています。

 

 クリスマスに向けて、ご自宅にアドベント・カレンダーを飾った方もいらっしゃることでしょう。私も幼い頃、家に飾られたアドベント・カレンダーを一日一日めくってゆくのが楽しみでした。ある年は、待ちきれなくて、クリスマスの数日前に、こっそり25日の絵を隙間からのぞいてしまったこともあります。アドベントは、イエスさまのご誕生を待ち望む時期ですから、子どもにもその気持ちを伝えるのにアドベント・カレンダーはよいものですね。子どもの頃の私のように「待ちきれない」(!)という場合もありますが。

 

金曜日には、教会の有志の皆さんと、リースとクランツづくりをしました。講壇の前にも、アドベント・クランツを飾っています。クランツとはドイツ語で「輪」を意味する言葉です。この輪は、イエスさまの頭に被せられる「冠」を表しているという説があります。イエス・キリストが「まことの王」であることの象徴としての冠です。

また、冬の間も葉を落とさない常緑樹で編まれた「輪」であることから、イエス・キリストが「永遠の命」であることの象徴であるとも言われます。この輪のかたちは、そのどちらの意味も含んでいる、ということができるでしょう。

 

 アドベント・クランツの特徴は、ろうそくが立てられている点です。毎週1本ずつ、このろうそくに火をともしてゆきます。クリスマスには、4本のろうそくすべてに火がともされることになります。このろうそくの光は、イエス・キリストが「まことの光」であることを表しています。新約聖書では、神の御子イエス・キリストはまことの光と呼ばれます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)

 

すべての人を照らす“まことの光”――。私たちはアドベントの期間、この光を待ち望む想いを新たにします。

 

 

 

2019年を振り返って

 

 クリスマスを迎える準備をする中で、皆さまも改めてこの1年を振り返っていらっしゃることと思います。この1年はあっという間だった、気が付けばもう12月、早いなあ、という感想を抱いている方もおられることでしょう。今年は時間が経つのが早く感じた一因として、大きな出来事が立て続けに起こったことも関係しているかもしれません。

 

 大きな出来事の一つに、元号が変わったことがあります。51日に新天皇が即位し、元号が平成から令和に改元されました。

 また大きな変化としては、10月から消費税が8パーセントから10パーセントに引き上げられたことがあるでしょう。

 

 もう一つ、2019年の大きな出来事としてすぐに私たちの頭に浮かぶ出来事として、1012日に発生した台風19号による災害があります。台風19号~21号により、日本の広範囲に渡って、甚大な被害がもたらされました。今も多くの方々が困難な状況の中にあり、懸命な復旧作業が続けられています。これからもご一緒に祈りをあわせてゆきたいと願います。

 

 また、7月に京都アニメーションのスタジオで放火がなされ、36名もの方々が亡くなるという痛ましい事件がありました。先月の31日には――こちらは放火ではありませんが――沖縄の首里城が焼失するというショッキングな出来事も起こりました。

 

 もちろん喜ばしい出来事もありました。3月には三陸鉄道のリアス線が全線開通されました。8月には釜石の鵜住居復興スタジアムなどを会場として、ラグビー・ワールドカップが開催されました。日本チームはベスト8まで勝ち進み、多くの人に感動と勇気を与えました。

 

 日本の諸教会にとっては、この度の38年ぶりのローマ教皇の来日は、忘れられない出来事となったことでしょう。教皇フランシスコは長崎と広島にて、核廃絶を訴える大切なメッセージを発してくださいました。これからも教派を越え、立場の違いを超え、共に平和への祈りをあわせてゆきたいと願います。

 

 私たちの目の前には様々な重要な課題があります。日本と韓国の政府間の急激な関係の悪化、子どもへの虐待の問題、いじめ・ハラスメントの問題なども、今年ニュースで大きく取り上げられました。その他、沖縄の辺野古埋め立ての問題、原発の再稼働の問題など、私たちが向かい合い続けるべきたくさんの問題、課題があります。

 

 来年は東京オリンピックが開催されます。テレビや新聞でも大きく取り上げられることと思いますが、私たちが向かい合うべき課題から目を逸らすことなく、しっかりと向かい合ってゆくことができるようにと願うものです。

 

 

 

《目を覚ましていなさい》

 

 アドベントの第1週によく読まれる聖書の言葉があります。それは、イエス・キリストの《目を覚ましていなさい》という言葉です。《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。/気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。…あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい》(マルコによる福音書133237節)

 

 ここでの《目を覚ましていなさい》という言葉は、居眠りせずにずっと起きていなさい、という意味ではありません。ここで言われているのは、「心の目を覚ましていなさい」という意味です。クリスマスが近づいている今、心の目を覚まして、イエス・キリストをお迎えする準備をしなければならない。アドベントにおいて、私たちはまどろみに陥ることなく、心の目を覚ましていることが求められています。

 

 もちろん、12月は何かと忙しい時期です。慌ただしさの中でつい自分のことで精いっぱいになってしまいがちな私たちです。そのような中、改めて自分自身の在り方を見つめ直し、主の「到来」にまなざしを向けることができるように、神さまの助けを求めたいと思います。

 

 

 

「他者の痛みに対して目を覚ましていなさい」

 

  慌ただしく余裕のない生活の中で、私たちはどのような部分がまどろみに陥りやすいものでしょうか。それは、「他者の痛みに想いを馳せようとする心」なのではないかと思います。忙しい日々の中で、私たちはついこの心がまどろんでしまうことが多いのではないでしょうか。

 

先ほど、《目を覚ましていなさい》という主イエスの言葉をご紹介しました。これは、主イエスをお迎えすることができるようにいつでも準備を整えておくように、という意味の言葉ですが、同時に、隣人の手助けをするために、いつでも準備を整えておくように、というメッセージの言葉としても私は受け止めています。神と隣人に対して目を覚ましていること――。

 

隣人を大切にするために不可欠な姿勢、それは、その人の痛みに想いを馳せようとする姿勢ではないでしょうか。他者の痛みを感じ取り、その叫びを聞きとる中で、私たちはその人のために動き出す一歩が与えられてゆきます。

 

アドベントのこの時期、《目を覚ましていなさい》という言葉を、私は「他者の痛みに対して目を覚ましていなさい」という主の呼びかけの言葉として受けとめるようにしています。余裕のない中で心がまどろみそうになる自分への自戒を込めて、そう受け止めるようにしています。

 

 たとえば、いじめやハラスメントの問題の根本にも、この他者の痛みに対して心がまどろんでしまっている問題が関係しているように思います。余裕のない中で、激しい疲れの中で、あるいは自分は絶対に「正しい」と思い込む中で、むしろ私たちは意識をしないと、「他者の痛みに想いを馳せようとする心」がまどろんでしまうのではないでしょうか。

 

この心がまどろみに陥ってしまうとき、私たちは目の前にいる人々が自分と同じ人間であることを忘れ、時に思いがけないほど非人間的な振る舞いをしてしまうことがあります。相手も自分と同じように人格をもち、自分と同じように日々悩み喜びながら懸命に生きていることを忘れ、まるで相手を自分の道具のように利用し、ストレスや怒りのはけ口にしてしまうのです。

 

 そのような私たちであるからこそ、絶えず《目を覚ましていなさい》との主の呼びかけに立ち還ることが求められているのではないでしょうか。

 

 

 

恵みの良い知らせを伝え ~痛みを癒し、悲しみを喜びへと変えてゆくために

 

 主イエスはたとえ私たちがまどろみに陥っても、決してまどろみには陥らない方です。私たちの痛みに対して絶えず目を覚まし、私たちの叫びを聴き取ってくださる方です。この主のお姿に学び続ける中で、頑なだったこの私の心は再び柔らかにされ、まどろんでいた心は再び目を覚まし始めます。

 

 私たちの痛みを決して「なかったこと」にはしないため、主イエスは私たちのところに来てくださいました。そしていま、私たちのところへ来てくださろうとしています。私たちの痛みを癒し、私たちの悲しみを喜びへと変えてゆくために――。どれだけ目の前に悲惨な現実があっても、私たちにはそれでもなお、希望が与えられています。

 

 本日の聖書個所にこのような言葉がありました。イザヤ書5278節《いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。/その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを》。

 

 キリスト教会は伝統的に、この旧約聖書の預言の言葉を、イエス・キリストの「到来」を預言する言葉として受け止めてきました。私たちの痛みを癒すため、私たちの悲しみを喜びへと変えるため、救い主が到来する――その恵みの良い知らせを伝えて回る平和の使者たちの足は、いかに美しいことか、とここでは語られています。

 

 私たちもまた、一人ひとり、平和の使者として、神さまからかけがえのない役割が与えられています。いまはっきりと心の目を覚まし、神さまのため、隣人のため、自分にできることを一つひとつ行ってゆきたいと願います。