2019年12月15日「あなたたちには義の太陽が昇る」

20191215日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:マラキ書31924 

あなたたちには義の太陽が昇る

  

 

マラキ書31924節《見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。/しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。/わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。/わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。/見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。/彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように

 

 

 

アドベント第3主日礼拝 ~喜びの主日

 

本日はアドベント第3主日礼拝をおささげしています。アドベントは「到来」という意味で、イエス・キリストがお生まれになったクリスマスを待ち望む時期のことを言います。

 

  アドベント第3主日は「喜びの主日」とも言われます。ここでの「喜び」とはもちろん、イエス・キリストがお生まれになった「クリスマスの喜び」のことを指しています。

今朝は3本のロウソクに火がともっていますが、3本目に火をともすロウソクとしてピンク色のロウソクが用いられることもあるそうです。来週、いよいよ私たちは来週にはクリスマスを迎えます。クリスマスの喜びも、もうすぐそこですね。

 

 

 

洗礼者ヨハネ

 

アドベントの第3週に取り上げられることの多い人物として、洗礼者ヨハネがいます。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが公の活動を始めるより先に、ヨルダン川にて、人々に「悔い改めの洗礼(バプテスマ)(マルコによる福音書14節)を授ける活動をしていた人です。 先ほど、ご一緒に讃美歌193番「神の使者、その名ヨハネ」を歌いましたね。

 

スクリーンに映していますのは、グリューネバルトという画家が描いた洗礼者ヨハネの絵です(イーゼンハイム祭壇画の一部)。ヨハネはらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べものとして生活をしていたようです(マルコによる福音書16節)

 

新約聖書においてはこの洗礼者ヨハネはイエス・キリストの「先駆者」として位置づけられています。これから到来されるまことの救い主の「道」を整え、その道筋をまっすぐにするため(ヨハネによる福音書123節)に遣わされた人物として受け止められているのです。まさに、クリスマスが間近のアドベント第3週に取り上げられるにふさわしい人物であると言えます。

 

 

 

ヨハネが迫った悔い改め ~隣人愛の精神が見失われた状況に対して

 

 さて、洗礼者ヨハネはヨルダン川のほとりにて、集まってくる人々に対し、「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた、ということを述べました。川に入り、全身を水の中に沈める、という仕方です。これが、いまも一部の教会で行われている「全浸礼」の起源です。花巻教会でも、洗礼式はこの浸礼で行っていますね。ただし、このヨハネの洗礼には、まだ「クリスチャンになる」という意味はありません。ヨハネはあくまで「悔い改め=心の方向転換」の儀式として、人々に洗礼を施していました。

 

 では、ヨハネはどのような事柄に対して、人々に悔い改めを迫っていたのでしょうか。ヨハネが厳しく批判していたこととして、「隣人愛の精神」が見失われていたことがあったのだと思います。

 

 聖書にはたくさんの教えが記されていますが、そのたくさんの教えを集約すると、「神を愛し、隣人を愛する」という二つの教えになると言われます。イエス・キリストご自身も、「神を愛すること、隣人を愛すること。これが最も重要な掟」だと教えて下さいました(マタイによる福音書223440節)

 

「隣人を自分のように愛しなさい」――隣人愛について私たちに教えるこの掟は、私なりに言い直すと、「隣人を、自分と同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。目の前にいる人を、自分の同じ一人の人間として、大切にすること。少なくとも、軽んじたり、不当に扱うことはしないこと。この当たり前のことが、当時、社会の中から見失われつつある状態にあったようです。

 

 特にそれは、当時の政治的・宗教的な指導者たちにおいて顕著でありました。当時、指導者たちは都エルサレムにある神殿に集って、熱心に礼拝をささげたり、会議を行ったりしていました。一方で、神殿の外で困窮している人々の声に耳を傾けることはありませんでした。むしろ、それらの貧しい人々を支配し、お金や作物を搾取している現状があったようです。

 

また、指導者たちは、自分たちイスラエル民族こそが神に選ばれた民族であると自負していました。いわゆる「選民思想」を持っていたわけですが、自分たちのその枠組みの外にいる人々――事情があって聖書の教えを守ることができない人、病気の人、外国の人々など――を「同じ一人の人間として」見ることができていない状況がありました。

 

 このように、隣人愛の精神が見失われた状況に対し、ヨハネは激しく怒っていたようです。そうして、厳しく、悔い改めを迫っていたのです。ヨハネは特に神殿の中にこもっている指導者たちにそう訴えたかったのだと思います。

 

身内に対してだけではなく、血縁を超え、民族を超え、あらゆる立場の違いを超えて、互いに「同じ一人の人間として」尊重しあうこと、これが聖書が伝える隣人愛の精神です。またこの隣人愛の教えにおいては、いま困っている人々、弱い立場にある人々の存在を心にとめ、そのために行動を起こすことが重要なこととなります。

 

ヨハネは人々に「神を愛し、隣人を愛する」という聖書の本来の教えに立ち還るよう、人々に悔い改め=心の方向転換を迫っていたのではないかと受け止めています。

 

 ヨハネは預言者イザヤの言葉を引用して、自分は《荒れ野で叫ぶ声である》と言いました(ヨハネによる福音書123節)。この《荒れ野で叫ぶ声》とは、言い換えると、私たち一人ひとりの内にある「良心の声」ということができるのではないでしょうか。まどろみから目を覚ますようにと、荒れ野の声なるヨハネは、私たちの良心に訴えかけているようにも思えます。

 

 

 

ハラスメントの問題 ~隣人愛が見失われたところから

 

 さて、洗礼者ヨハネが直面していた状況について少しお話ししました。同様の状況は、現在を生きる私たちにも起こっているように思います。私たちのいまの社会もまた、隣人愛の精神が見失われた、危機的状態にあるのではないでしょうか。目の前にいる人、周囲にいる人々を、同じ人間として見ることができない、という危機です。そうして時に、驚くほど非人間的な言動が、当たり前のようになされてしまうのです。

 

 近年、「ハラスメント」という言葉がよく使われるようになりました。私自身、この1年を振り返って、このハラスメントの問題について考え続け、向かい合い続けた1年であったなと思います。

 

 ご存じのように、ハラスメントには様々な種類があります。パワーハラスメント、モラルハラスメント、セクシュアルハラスメント、アカデミックハラスメント、マタニティーハラスメント……など。ある人は、ハラスメントの本質にあるものは、「支配とコントロール」であると言っています。身近にいる人を力によって支配し、自分のコントロール下に置くこと、そうして相手の人格を無視して、自分の都合のいいように利用し、搾取することがハラスメントです。

 

 このハラスメントの問題も、まさに、隣人愛が見失われたところから生じているものではないでしょうか。

 

 ハラスメントを行っている人は、自分の怒りやストレスや欲求のはけ口として、相手を利用しています。また、自分の問題を押し付け、責任転嫁をするために、利用しています。相手の人格や思いや都合をすべて無視して、そうしているのです。これは、その瞬間、相手を人格をもった「同じ一人の人間」ではなく、まるで自分の「道具」のようにみなしてしまっていることを意味しています。

 

 そのように相手を自分の支配下に置き、利用してゆくために、ハラスメントを行う人は様々な巧妙な手法を用います。相手の弱みや小さな失敗につけこんだり、相手に罪悪感を抱かせ自尊心を低下させ自分が「悪い」と思わせたり。そのようにして相手の主体性を奪い、自分の力で動けないようにしてゆくのです。

 

場合によっては、被害を受けている人は一体自分に何が起こっているのか分からない、という混乱状態に陥ってゆきます。何が起こっているのか分からないし、言葉にでもできない、でも心が苦しくて仕方がない。苦しくて仕方がないけれど、その苦しみの原因が分からない。そうしてまるで穴の中に落ち込んだかのように、身動きが取れないままに、精神的な暴力を受け続けてゆきます。これはまさに、真っ暗な暗闇の中に閉じ込められているかのような感覚であると思います。

 

 ハラスメントに苦しむ人だけではなく、いま、多くの人が、まるで世界から光が失われてしまったかのような感覚で、懸命に生きているのだと思います。この暗闇は、隣人愛が見失われたことからくる暗闇なのではないでしょうか。人が人を支配し、まるで道具のように利用することが、いかに私たちの世界に暗さをもたらしていることでしょうか。いかに人々の心を暗くし、喜びと希望を失わせていることでしょうか。

 

 

 

「起きよ、目を覚ませ」 ~荒れ野で叫ぶ声

 

 暗闇に覆われているような感覚でいるとき、自分がいま置かれている状況を客観的に理解することが、そこから抜け出す重要な一歩となります。ハラスメントを受けているとしたら、「自分はハラスメントを受けている」のだ、と理解することです。多くの場合、自分でも苦しみの理由が分からないことも多いからです。ただし、それはそれほど支配とコントロールが巧妙で悪質であるからで、被害を受けている人の責任ではありません。

 

 一体いま何が起こっているのか、何が問題なのか。どのような構造で、私たちはいま苦しんでいるのか。そのことを洗礼者ヨハネははっきりと言葉にし、指摘しました。《荒れ野で叫ぶ声》なるヨハネは、私たち一人ひとりの内に宿っている「良心の声」でもあるのではないでしょうか

 

起きよ、目を覚ませ――。まどろみから目を覚まし、悪しき力の支配とコントロールから脱し、光へと目を向けるよう、この《荒れ野で叫ぶ声》はいま、私たちに促しています。

 

私たちは暗闇で苦しむために生きているのではありません。悲しむために生きているのではありません。喜びをもって生きるよう、希望をもって生きるよう、自分で自分の人生を生きてゆくことができるよう、そう促されています。

 

 

 

「あなたたちには義の太陽が昇る」

 

本日の聖書箇所にこのような言葉がありました。《しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る(マラキ書320節)

 

あなたたちには、義の太陽が昇る――。預言者マラキはそう神さまの言葉を取り次ぎます。教会は、この《義の太陽》をイエス・キリストその方として受け止めてきました。

 

暗闇を照らす光なるキリストは、私たちの存在を極みまで重んじてくださる方です。私たち一人ひとりを、「神に愛された同じ一人の人間として」受け止めて下さっている方です。《義なる太陽》であるキリストは、人が人を支配しコントロールすることを、決しておゆるしになられません。まことの支配者は、ただ神お一人です。

 

あなたは暗闇の中で苦しむために生きているのではない、悲しむために生きているのではない、そう語りかけて下さっているのはこの方です。悪しき力を打ち滅ぼし、私たちを軛から解放し、心を喜びと希望の光で満たしてくださるのは、この方です。

 

どうぞいま、まどろみから目を覚まし、《義なる太陽》であるキリストに私たちの心を開きたいと思います。