2019年12月8日「明けの明星が心の中に昇るときまで」

2019128日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:列王記上22617 

明けの明星が心の中に昇るときまで

 

 

列王記上22617節《イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。/しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、/イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめた。/そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。/イスラエルの王はユダの王ヨシャファトと共に、サマリアの城門の入り口にある麦打ち場で、それぞれ正装して王座に着いていた。預言者たちは皆、その前に出て預言していた。/ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、/他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。/ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」/ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、/王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。/そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、/彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」

 

 

 

アドベント第2主日礼拝

 

先週から教会の暦でアドベント(待降節)に入っています。アドベントはイエス・キリストが誕生したクリスマスを待ち望む期間のことを言います。本日はアドベント第2主日です。

 

講壇の前に飾っているリースは、「アドベントクランツ」と言います。アドベントの時期、教会では伝統的に、このクランツのろうそくに毎週1本ずつ火をともしてゆきます。今日はアドベント第2週ということで、2本のろうそくに火がともっています。次週の第3週目には3本、第4週目には4本すべてのろうそくに火がともります。毎週本ずつろうそくに火がともってゆくことで、クリスマスが近づいてきていることを実感することができます。

このろうそくの光は、イエス・キリストの光を表しています。聖書において、イエス・キリストは「まことの光」であると言われます(ヨハネによる福音書19節)。これらろうそくの光は、まことの光であるイエス・キリストを指し示すものであるのですね。

 

 

 

讃美歌243番『闇は深まり』

 

 先ほどご一緒に『闇は深まり』というアドベントの賛美歌を歌いました(『讃美歌21243番)。作詞はヨッヘン・クレッパーという方です。ヨッヘン・クレッパーは20世紀の前半のドイツに生きた人で、ナチス・ドイツによる激しい迫害を受ける中、優れた賛美歌を遺したことで知られています。

 

改めてご一緒に『闇は深まり』の歌詞を見てみたいと思います。1番はこのような歌詞でした。

《闇は深まり 夜明けは近し/あけの明星 輝くを見よ。/夜ごとに嘆き、悲しむ者に、/よろこび告ぐる 朝は近し》。

 この1番の歌詞では、夜空に明けの明星が輝いている様が謳われています。明けの明星は、夜明け前に東の空に明るく輝く金星の別名です。明けの明星が夜空に輝き始めたということは、もう夜明けが近いということを意味しています。明けの明星は朝の訪れを告げる存在であるのですね。

 

 《闇は深まり 夜明けは近し/あけの明星 輝くを見よ》――。この『闇は深まり』という賛美歌は、「闇」という言葉で始まっています。闇が深まっている。自分たちの周囲には、深い闇がある。しかし、同時に、夜明けは近いことを信じる言葉が語られます。喜びを告げる朝が近いことを信じ、闇の中に輝く明けの明星を共に見上げよう、そうヨッヘン・クレッパーは記しています。

 

 彼がまなざしを向けていた光とは、イエス・キリストの光でした。23番では、クリスマスの出来事が謳われます。2番《おさな子となり 僕となりて/み神みずから この世にくだる。/重荷負うもの かしらを上げよ、/信ずるものはみな 救いを受けん》。

 3番《闇は去りゆく。目さめて走れ、/救い秘めたる あの馬小屋へ。/恵みの光 照り輝きて/悩み悲しみは もはやあらず》。――

 

作詞をしたヨッヘン・クレッパーが生きたのは20世紀前半のドイツでした。ご存じの通り、ドイツでは、1930年以降、アドルフ・ヒットラー率いるナチスが台頭し、ユダヤ人への大規模な迫害が行われてゆきました。

クレッパーが結婚した女性とそのお嬢さんはユダヤ人であったそうです。やがてクレッパー家族はナチスによる迫害の下、命の危険にさらされるようになってゆきます。クレッパーはそのような、周囲が恐ろしい闇に包まれている状況の中で、神に憐れみを求め、『闇は深まり』を始めとする賛美歌を記していったのです。

 

 

 

クリスマスの喜びは、悲しみを見つめる中で

 

私たちはいま、クリスマスを待ち望み、アドベントの時を過ごしています。クリスマスは、私たちにとって、喜びの日です。しかしそれは、「悲しいことは忘れて、いまは楽しくやろうよ」という意味での喜びの日ではありません。私たちの心の中にある悲しみをはっきりと見つめる中でこそ見えてくる喜びが、クリスマスの喜びです。主イエスは、私たちの悲しみ、重荷を共に担うため、私たちのもとに来てくださいました。

 

 私たちは日々の生活の中で、様々な悲しいこと、辛いこと、困難に出会います。自分自身のこと、家族のこと、友人のこと、またこの国のこと、世界のこと……。時には、辛くて仕方がない、「主よ、憐れんでください」と叫ばずにはおられない時もあります。主イエスは、そのような私たちのため、この世界にお生まれになって下さった。それが、クリスマスのメッセージです。

 

 クリスマスの喜びは、悲しみを見つめる中で、クリスマスの光は、暗闇を見つめる中で、私たちに与えられるものです。クリスマスを喜ぶことのできないような心境の人々のためにこそ、本来、クリスマスはあるのだということをご一緒に思い起こしたいと思います。

 

 

 

クリスマスの光と、私たちが抱える暗闇と

 

ヨッヘン・クレッパー自身は、妻と娘の一人が強制収容所へ送られる直前、彼女たちと共に自ら命を絶ちました。大変痛ましいことですが、1942年のことでした。彼が遺した詩は、いまも多くの人の心を打ち続け、苦しみの中にある人々の祈りとなっています。

 

『闇は深まり』の最後の4番の歌詞はこのように記されていました。

《闇の中にも 主は歩み入り、/かけがえのない われらの世界/死の支配より 解き放ちたもう。/来たらせたまえ 主よ、み国を》。

この4番の歌詞ではクリスマスの出来事に、十字架の出来事、そして復活の出来事が重ね合わされています。

 

主イエスはご生涯の最後に十字架刑によって殺され、そして、三日目の朝に復活された――聖書はそう証しします。「死は終わりではない」、そう私たちに伝えています。クレッパーはこの復活への信仰を、自分たちの最後の希望の光としていたのではないでしょうか。

 

たとえ私たちの目には目の前が真っ暗だと思えても、神の目から見ると、そうではない。この暗闇に光をもたらすために、イエス・キリストは私たちのもとへやってきてくださる。それがクリスマスの光であり、そして、十字架の向こうから差し込んでくる復活の光です。決して消えることがないこの光を知らされているからこそ、クリスマスは私たちにとって喜びの日となります。たとえ私たちが死の陰の谷を行くときも(詩編23編)、この光は消え去ることはないのだと信じています。クレッパーご家族もいまは、この光の中で安らいでいることと信じます。

 

私たちはそのように共に信じながら、同時に、クレッパーご家族が経験したような悲しい出来事が、もう二度と繰り返されることのないように、という祈りを新たにすることが大切でありましょう。クレッパーご家族を始め、多くの人々を死に追い詰めたもの、それは他でもない人間の悪です。

 

馬小屋の飼い葉桶に眠る幼な子の向こうには、十字架が立っています。主イエスを十字架の死に追い詰めたのも、他でもない私たち自身の罪と悪です。馬小屋の周囲を覆う暗さは、私たちの社会を覆う暗さでもあるのではないでしょうか。

 

 

 

明けの明星が心の中に昇るときまで

 

先ほど読んでいただいた新約聖書のペトロの手紙二に、このような言葉がありました。ペトロの手紙二119節《夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください》。

 

ここでも、明けの明星が出てきました。東の空に輝く明けの明星――この明けの明星は、ペトロの手紙においては、イエス・キリストご自身を表しています。私たちの心に夜明けをもたらす、明けの明星なるキリストが、再び到来する時が必ず来るのだ、と手紙の著者は読者に語りかけています。

 

確かに、自分たちの周囲は闇に包まれている。闇はますます深まっているように見えるが、それは夜明け前であるから――。朝は必ず訪れる。キリストは必ず私たちのもとに来て下さる。私たちの心を光で満たしてくださる。その時まで、暗闇に輝くともし火として、この《預言の言葉》に留意していてほしい、と手紙の著者は続けます。《預言の言葉》とはすなわち、聖書の言葉のことです。

 

聖書のみ言葉とは、暗闇の中に輝くともし火。まことの光を指し示す、ともし火。このアドベントクランツのろうそくのように、イエス・キリストのまことの光を指し示すものが、聖書の言葉であるのですね。暗闇の中のともし火である聖書の言葉を大切に心に留めることを通して、夜明けは必ず訪れることへの信頼が私たちの内に育まれ、新たにされてゆきます。

 

キリストはまもなく、私たちのもとへ来て下さる。外ならぬ、私たちの内に、再び到来してくださる。私たちの心に朝の光が差し込み、私たちの存在がキリストのまことの光で満たされる時が来る。その時、私たちは、他ならぬ自分自身の内に、キリストの光が「在る」ことを知るでしょう。決して消えることのない光が輝いていることを知らされてゆくでしょう。私たちは、存在の内奥から、「わたしは在る」(ヨハネによる福音書858節)との御子の声を聴くでしょう。

 

《預言の言葉》を暗闇の中のともし火として掲げつつ、御子イエス・キリストの到来をご一緒に待ち望みたいと思います。