2019年2月3日「新しい教え」

201923日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書53339 

新しい教え

 

 

ルカによる福音書53339節《人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」/そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。/しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」/

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。/

また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。/新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。/また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 

 

 

聖書に由来することわざ・慣用句

 

私たちが普段使っていることわざや慣用句の中で、聖書に由来しているもの、と言うと皆さんはどのような言葉を思い浮かべるでしょうか。

 

よく知られているものでは、たとえば、「目からウロコ」がそうですね。テレビ番組でも時折耳にする表現で、ことわざの一つとして定着しています。《あることをきっかけにして、急にものごとの真相や本質が分かるようになること》(広辞苑)を意味する言葉ですが、もともとは聖書に由来する表現です。具体的には、新約聖書の使徒言行録に記されています。キリスト教徒を迫害していたパウロ(サウロ)という人物が、ある日復活のキリストと出会い、世界の見方がまったく変えられる場面で出て来ます。《すると、たちまち目からウロコのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった(使徒言行録918節)

 

他にことわざとして定着している聖書の言葉としては、「豚に真珠」もそうです。豚に真珠を与えてもその価値は分からないように、「その価値が分からない人には、価値あるものを与えても意味がないこと」を意味することわざです。こちらは新約聖書の福音書のイエス・キリストの言葉の中に出て来ます。《神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない(マタイによる福音書76節)

 

他にも、ことわざではないですが、日本語として定着している言葉も幾つもあります。たとえば、「狭き門」。ちょうど現在受験シーズンですが、難関大学を目指す際、この言葉が用いることもありますね。こちらももともとは福音書の中のイエス・キリストの言葉に由来します。もちろんもともとは受験とは関係のない言葉で、神の国に通じる門は見えづらい場所にあることを伝える言葉です。《狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。/しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない(マタイによる福音書1324節)。他にも、「迷い出た羊」(マタイによる福音書181014節)「砂上の楼閣」(マタイによる福音書726節)などもイエス・キリストのたとえ話に由来する表現です。

 

また、「三位一体」という語もそうですね。キリスト教徒の方であればもちろんよく知っている言葉であると思います。神は「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊」という「三つの位格(三位)」をもっておられるが、同時に「一つ(一体)」であることを述べる神学用語です。2000年代はじめに小泉内閣が《三位一体の改革》という標語を用いていましたので、その表現をよく覚えている方も多いかもしれませんが、元々はキリスト教の神学用語です。伝統的なキリスト教においては最も重要な言葉の一つであるので、聖書にこの言葉が出て来るかと思いきや、意外なことに、「三位一体」という言葉自体は聖書には記されていません。この言葉は、2世紀にテルトゥリアヌスという神学者によって造られたものであると言われています。具体的な名前はないけれども聖書の中で確かに語られている事柄に対して、テルトゥリアヌスという人が「三位一体」という名称を与えたということができるでしょう。

 

 

 

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

 

 聖書に由来することわざ・慣用句を幾つかご紹介しました。先ほどお読みした聖書箇所の中にも、ことわざとして使われることのあるイエス・キリストの言葉が記されています。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」という言葉です。「目からウロコ」や「豚に真珠」ほどポピュラーではないかもしれませんが、ことわざとして用いられることがある言葉です。「新しい内容には、新しい形式が必要だ」という意味で使われます。たとえば、ある団体が新しい目標を立て、それに伴って組織のあり方を改編する際などに、このことわざを用いることができるでしょう。

 

ルカによる福音書53738節《だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。/新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない》。

 

私たちは現在ワインと言えば、瓶詰めにされたものしか見ていないので、革袋が出て来てもあまりピンと来ないかもしれません。私たちには革袋はなじみの薄いものですが、当時のパレスチナ人々にとって革袋は日々の生活の必需品であったそうです。たとえば、水やワインなどの飲み物を革袋に入れて持ち運んでいた。いまの私たちで言えば、水筒またはペットボトルという感覚でしょうか。

 

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」――。では、なぜ新しいぶどう酒を古い革袋に入れては駄目なのでしょう。ここでの《新しいぶどう酒》とは、「これから発酵しはじめる新しいワイン」のことが言われているようです。革袋というのも、そのワインを入れて発酵させるための袋としてイメージされているのですね。

 

ぶどうの果汁は発酵することによってアルコールを生成し、だんだんとワインとなってゆきます。その発酵の過程において、アルコールと共に炭酸ガスが生成されてゆきます。もしワインを熟成させるための入れ物として古い革袋を使っていたとしたら、どうなるでしょう。新しい革袋には柔軟性がありますが、長年使っている古い革袋には柔軟性がありません。生成されたガスによって袋がふくれあがってしまって、その圧力に耐えきれず、やがて破けてしまうでしょう。そうするとワインが流れ出て駄目になってしまいます。

 

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、このような当時のワインづくりの過程が踏まえられていることが分かります。当時の人々にとっては、身近な表現であったと思います。人々にとって身近なたとえを用いて、主イエスはここで、「新しい内容には、新しい形式が必要であること」を語っておられます。

 

 

 

「古いワインがあればよい」?

 

 もちろん、ここでは「古い」ことが何か悪いこととして語られているわけではありません。むしろ、ワインは私たちが実際に飲む際は、年代物のワインの方が喜ばれることでしょう。新しいワインより熟成されたワインの方が味に深みがあります。時に仰天するような高い値段のワインがテレビで紹介されることがありますが、それらも年代物の希少なワインですよね。本日の聖書箇所の最後にも《また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」39節)という言葉がありました。当時の人々も、やはり熟成された古いワインの方を好んでいたようです。

 

 一方で、この最後の言葉は、幾分注意を促すニュアンスで記されているようです。古いワインは確かにおいしい。古いワインを飲めば、誰も新しいものを欲しいとは思わなくなる。「古いものの方がよい」と思う。しかし皆が「古いワインがあればよい」と充足してしまえば、新しいワインは作られなくなってしまう。この言葉が象徴しているのは、未来に目を向けず、「いまの自分たちさえよければよい」とつい思ってしまう、私たちの内面であるのかもしれません。そのとき、まるで私たちの内面は柔軟性のない《古い革袋》のようになってしまっているのではないでしょうか。このとき、私たちの内からは、「新しく生まれ出るもの」への意識が希薄になってしまっています。

 

 

 

新しく生まれ出ようとしているもののために「いつでも準備を整えている」こと

 

昨年の年末の礼拝にて、精神分析学者のエーリッヒ・フロムの言葉を紹介しました。『希望の革命』という著書の中の言葉です。それは次のような文章でした。

 

《希望を持つということは、まだ生まれていないもののために、いつでも準備ができているということであり、…強い希望を持つ人は新しい生命のあらゆる徴候を見つけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備をととのえているのである》(E・フロム『希望の革命《改定版》』、作田啓一 佐野哲郎訳、紀伊國屋書店、1970年、2728頁)

 

フロムはここで、「希望を持つ」ということは、《まだ生まれていないもののために、いつでも準備ができている》ことだと記しています。強い希望を持つ人は《新しい生命のあらゆる徴候を見つけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備をととのえている》のである。

 

  ここでの新しい命とは、文字通り、母の胎から生まれ出ようとしている新しい命として捉えることもできるでしょう。また、より広い意味での「命」として捉えることもできるでしょう。私たちの内に、私たちの関係性に、私たちのこの社会に、新しく芽吹こうとしている何か、です。

 

 新しく生まれ出ようとしているもののために「いつでも準備を整えている」態度。これは、先ほどの「古いワインがあればよい」という態度とは、対照的なものでしょう。未来に目を向けず「いまの自分たちさえよければよい」と思ってしまうのではなく、未来にはっきりと目を向け、「自分を超えた何ものかのために、いつでも準備を整えておく」こと。その中で、私たちの在り方もまた自然と柔軟なもの、柔らかなものへ――《新しい革袋》へと変えられてゆくのではないでしょうか。そしてそのとき、「新しいワイン」が生まれ出ることへの希望が湧き上がってきます。たとえ私たち自身がその「新しいワイン」を飲むのでなくても、それが私たちの内に、私たちの間に、新しい命が活き活きと育まれ続けるということが私たちの希望となってゆきます。

 

 

 

いま生きて働いておられる神さまの言葉を

 

 先週の礼拝後、全体懇談会を行いました。教会の課題を共有し、また未来を見つめて、さまざまなアイデアを活発に出し合う時間をもつことができ感謝でした。話し合ったことを大切な種として、私たち教会がこれからどのような歩みをしていったらよいか、これからも皆さんとご一緒に話し合って行ければと思います。

 

 現在の私たちの課題を互いに大切に受け止めると共に、これから生まれ出ようとしているもののために準備を整えている姿勢をもつことも大切でありましょう。私たちがその姿勢をもつ中で、神さまの言葉もまた与えられてゆくのだと信じています。

 

新しいワインが活発に発酵し続けるように、神さまの言葉はいま、生きて働いておられます。私たちの内で、間で、活き活きと動き続け、私たちを新しくし、生かし続けてくださっています。いま生まれ出ようとている何ものかを、その背後で生きて働く神さまの言葉を、私たちが見つめ、しっかりと携え運んでゆくことができるよう、ご一緒にお祈りをおささげしたいと思います。