2019年3月10日「荒れ野にて」

2019310日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書4113 

荒れ野にて

 

 

ルカによる福音書4113節《さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、/四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。/そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」/イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。/更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。/そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。/だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」/イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」/そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。/というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』/また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」/イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。/悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた

 

 

 

受難節

 

 36日(水)より、教会の暦で「受難節」に入っています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。受難節はイースター前日の420日(土)まで続きます。本日はご一緒に受難節第1主日礼拝をおささげしています。

 

 受難節は「四旬節」とも呼ばれます。四旬とは40日を意味する言葉です。受難節は正確には46日間ですが、日曜日を除くとちょうど40日間となります。「40」は、聖書の中で度々出て来る数字です。モーセとイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を旅したのは40年間でした(旧約聖書の『出エジプト記』より)。「荒れ野の40年」という表現もあります。

 

また、いまお読みしました聖書箇所においても40日間という言葉が出て来ました。イエス・キリストは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、荒れ野にて40日間断食をし、悪魔から様々な誘惑を受けられたことを福音書は記しています。悪魔が主イエスに「石をパンに変えてみたらどうだ」と言うと、主イエスが「人はパンだけで生きるものではない(人はパンのみで生くるにあらず)」という聖書の言葉を引用し、その誘惑を退ける場面はよく知られているものですね。

 

このイエス・キリストの荒れ野での40日間が、受難節の由来の一つとなっています。私たちもまた荒れ野でのイエス・キリストのお姿に倣おうという意味が込めているのです。よってキリスト教会では伝統的に、受難節の時期には断食や節食が推奨されてきました。現在も、受難節の時期にはお肉やアルコールを口に絶つという方もいらっしゃいます。もちろん、皆が必ずしも断食や節食をしなければならないということではありません。主のご受難を思い起こしつつ、それぞれの仕方で受難節を過ごすことが大切であるのだと思います。

 

 

 

断食、祈り、そして他者への支援

 

伝統的に、受難節の時期に重要なこととされてきたことは三つあります。一つは、いま言いました断食や節食です。もう一つは祈り。そしてもう一つは他者への慈善(支援)です。「受難節」と言うと、部屋に籠って静かにお祈りをしているというイメージがあるかもしれませんが、受難節の過ごし方というのはそれだけではなく、他者への積極的な支援も大切な要素とされているのが心に残ります。

 

旧約聖書にもこのことと共通する言葉があります。預言書のイザヤ書の中に記された言葉です。《わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと(イザヤ書5867節)

 

イザヤはここで、断食の時期に聖所にこもってお祈りをしているだけでは足りない、と語っています。むしろ、飢えた人に自分のパンを裂き与え、行き場のない貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけること。そのように、困難な状況にいる人を支えようとする積極的な行いこそが断食の時期に大切なことであり、神さまの心に適うことであることを述べています。自分の生活を節制し、一人静かな祈りの時を持つということも大切です。と同時に、困難の中にいる人々のために、たとえささやかなことであっても、自分にできることをする、というのもまた大切な受難節の過ごし方であるのですね。荒れ野での主イエスのお姿に倣うとは、主イエスと同じように断食と祈りをもって過ごす、だけではなく、他者への愛に生きた主イエスのお姿に倣うという意味を含んでいることを教えられます。

 

 

 

東日本大震災から8

 

本日は2019310日、明日で、東日本大震災から8年を迎えます。震災と原発によって亡くなられた方々を思い起こし、また、いまもなお悲しみや困難の中にいる方々のためにご一緒に祈りをささげたいと思います。本日の午後2時半からは、宮古教会と千厩教会で東日本大震災8年を覚えての礼拝がささげられます。私たち花巻教会は千厩教会での礼拝に出席します。礼拝にはどなたでもご参加いただけます。

 

今年は新しい天皇の即位と元号の変更に関する報道、来年の東京オリンピックについてたくさんの報道がなされてゆくこと思います。私たちの社会から、震災と原発事故がまるで「終わったこと」のようにみなされる傾向がますます強まってゆくかもしれません。

 

昨日、復興支援道路の釜石道の釜石千人峠‐釜石ジャンクション間が開通しました。3日には遠野‐遠野住田間も開通しています。これで釜石道の全線がつながったことになり、釜石と内陸との交通もよりスムーズになることでしょう。昨日は同時に、復興道路の三陸道の釜石南‐釜石両石間も開通しました(参照:岩手日報website201938日『釜石道あす9日全通 三陸道一部も』)。また、323日には三陸鉄道のリアス線が全線開通(盛‐久慈間)されます。釜石では今年ラグビーのワールドカップも開催されますね。

 

そのように復興を後押しするニュースもあると同時に、被災地にはいまだ様々な課題があり、復興は道半ばであることを感じさせられます。被災した方々の心のケアの課題はますます重要になってくることでしょう。これからもご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

 

 

 

原発事故の深刻な影響と「安全神話」

 

 また、原発事故は「終わったこと」どころか、その深刻な影響は現在進行形で続いています。今年1月までの1年間の間、福島第一原発から放出される放射性物質の量が、前年と比べて2倍になっているとの驚くべき報道がなされていました(47100万ベクレルから93300万ベクレルに増加)。東京電力によると、廃炉作業によって放出量が一時的に増えたのが原因ではないかということです(参照:NHK NEWS WEB 201938日『福島第一原発 放射性物質の放出量が前年比2倍に』)。福島第一原発のがれきを除去しようとすると、放射性物質を含むチリが舞い上がり、大量の放射性物質が大気中に拡散されます。事故から8年が経ちましたが、福島第一原発はいまも大量の放射性物質を放出し、汚染し続けているのです。

 

 原発事故に関連して、私たちの目前には様々な課題が山積みにされています。溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出しなどの廃炉作業は、まだスタートラインに立ったとも言えないような状況です。

 

福島県とその周辺の県には、行き場のない大量の汚染土が一時保管されたままになっています。そのような中、8000ベクレル/㎏以下の汚染土を飛散防止・覆土などをした上で全国の公共事業や農地造成のために再利用しようという計画も進められています。信じがたいことです。

 

また、放射線被ばくによる健康への影響の不安が解決されないまま、帰還政策が推し進められています。そして、子どもたちの甲状腺がんが多発している現状があるのに、医療費の補償や子どもたちの保養など、国としての具体的な対策は依然としてまったくなされていません。いわゆる「自主避難」をしている方々への住宅支援は次々と打ち切られ、放射線の影響を心配して避難生活を余儀なくされている方々が経済的にも精神的にも追いつめられている現状があります。

 

 このような深刻な現状があるにも関わらず、私たちの日本の社会においては、原発事故がもう「終わったこと」のようにみなされている風潮があります。このことの根本には、「この度の原発事故による健康への影響は『ない』」とみなす考えが横たわっているように思います。「心配しなくても大丈夫」「健康には影響がない」。これら言説は実際には、その根拠が疑わしいものです。「放射能安全神話」と形容することができるでしょう。たとえば、原発事故後に「安全」を盛んに喧伝し、社会的にも影響力を持った東大名誉教授の早野龍五氏らが発表した2つの論文の中に、市民の被ばく線量を3分の1に過小評価するなどの誤り(不正?)があったことが最近明らかになりました。

 

もちろん、原発事故後、農業や漁業の生産者の方々の放射線量を下げるための懸命なる努力が続けられています。そのことによって、安全を取り戻している作物もあります。

 

一方で、汚染されたままの土壌が、東日本において広範囲に渡って残り続けています。これら広大な範囲を完全に除染をして安全を取り戻すというのは、残念ながら不可能なことです。放射能の危険性は依然として私たちの目の前にあり続けています。けれども、事故後に新たに形づくられた「放射能安全神話」は大きな力を持ち、理不尽な国の政策に根拠を与え、不条理な現状を生み出すよう作用し続けています。

 

 

 

この度の原発事故を「過小評価する」誘惑

 

冒頭で、イエス・キリストの荒れ野の40日について触れました。主イエスは荒れ野にて、悪魔から、「石をパンに変えてみたらどうだ」などの様々な誘惑を受けました。原発事故を経験し、突如として荒れ野の中に放り込まれた私たちが最も受けやすい誘惑、それは、この度の原発事故を「過小評価」する誘惑ではないでしょうか。特に、放射能の危険性とその影響を「過小評価する」誘惑です。「この度の原発事故は、大したことなかったと思ってみたらどうだ」、「放射能の危険性も影響も、『ない』と思ってみたらどうだ」――この誘惑を受け入れさえすれば、私たちの心は楽になり、目前に山積みになっている難しい問題も解決が容易なものとなってゆくように思えることでしょう。原発事故以降、国はこの誘惑の中に取り込まれ続けてしまっているということができます。私自身、事故直後、この誘惑を受け入れそうになっていた時期がありました。恐れ、不安、混乱の中で、「心配することはない」という言説にすがりつきたくなっていた自分がいたように思います。

 

この度の原発事故において「放射線被ばくによる影響が『ない』」のだとしたら、福島第一原発から年間数億ベクレルという量の放射性物質が大気中に放出されていようと心配することはない、ということになります。国や東京電力にとってはこれほど都合のいい話はないことでしょう。

 

「放射線による影響が『ない』」のだとしたら、汚染された土を公共事業に使用しても問題はない、ということになります。そうすれば、山積みにされている汚染土をどんどん減らし、処理してゆくことができます。行き場のない汚染土を減らしてゆくには、とても都合のよい解決法です。もしも本当に、市民への「健康への影響が『ない』」のだとしたら……。

 

この度の原発事故による「放射線による影響が『ない』」のだとしたら、原発に近い自治体に対して避難指示を解除して帰還を進めても問題ないし、むしろ復興のためにはそれをどんどん推し進めてゆくべきだということになります。徹底的な除染をする必要はないし、医療費の補償をする必要もないし、子どもたちの保養を計画する必要もない。そして、放射線の影響を心配して自主的に避難をしている人々は「過剰に心配」し、「勝手に避難をしている」存在であるから、補償や支援を打ち切っても問題ない、ということになるのです。

 

日本にはもはや原発事故の影響はない、放射能の影響もない、完全に「コントロール」されている。さあ、だから、国内外の皆さま、「終わった」原発事故のことなど忘れ、これから「始まる」東京オリンピックにぜひ注目してください、というのがこの国の意向なのでしょう。

 

 

 

荒れ野にて ~一人ひとりの生命と尊厳が大切にされることを求めて

 

確かに、私たちは「大丈夫だ」「心配ない」と思いたい。私自身、事故直後、この誘惑を受け入れそうになっていた時期がありました。あまりに悲惨な現実の中で、日本に生きる多くの人々が、そう思ったことでしょう。もし本当に「大丈夫」なのであれば、どれほど幸いなことだろう、と思いますが、しかし、それは根拠のない、夢幻に過ぎません。私たちはそのような夢幻にすがるのではなく、いま目の前にある現実を見つめてゆくことが求められています。この度の原発事故を「過小評価」しようとする力に私たちは抗ってゆかねばなりません。

 

私たちの目の前にあるのは厳しい現実です。原発事故という取り返しのつかない惨劇が起こってしまったという現実。事故による放射能の脅威にさらされ続けているという現実。その現実を踏まえて、では私たちに何ができるのか、何をすべきかを考えてゆくほか、私たちになす術はありません。原発事故を「過小評価する」誘惑に屈することによって結果的に傷つけられてしまうかもしれないのは、私たち一人ひとりの生命と尊厳です。原発事故を決して「過小評価しない」ことは、事故を引き起こしてしまった私たちの責務でもあるのではないでしょうか。

 

私たちの目の前にあるのは答えも解決策がいまだ見えていない現実、厳しい現実です。しかし、この荒れ野にて、主が共にいてくださって、私たちを支えてくださると信じています。一人ひとりの生命と尊厳が大切にされることを求めて、一歩一歩、共に歩んでゆきたいと願います。