2019年3月17日「私たちを自由にする真理の霊」

2019317日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書111426

私たちを自由にする真理の霊

 

 

ルカによる福音書111426節《イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。/しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、/イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。/しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。/あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。/わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。/しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。/強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。/しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。/わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」/

 

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。/そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。/そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

 

 

 

受難節第2主日礼拝、東日本大震災から8

 

 私たちはいま教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を想い起こしつつ過ごす時期です。本日は受難節第2主日礼拝をおささげしています。

 

 今年度は新たな試みとして、消火礼拝の形式を取り入れています。講壇の前に立てられているろうそくの火を、毎週一本ごとに消してゆくという形式です。アドベントのときは毎週一本ずつろうそくに火をともしてゆきますが、その逆ですね。受難節は7週続きますので、7本のろうそくが立てられており、今日は第2週目なので2本のろうそくの火が消されています。洗足木曜日礼拝をおささげするときに、すべてのろうそくの火が消えることとなります。

 

 イエス・キリストが十字架に磔にされた際、全地が暗くなったということを福音書は記しています。《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた(マルコによる福音書1533節)。この暗闇はイエス・キリストがそのご受難と十字架において経験された暗闇であり、またいま、私たちの社会を覆っている暗闇でもあります。私たちの社会にはさまざまな苦しみ、悲しみ、痛みが満ちています。困難な現実、不条理な現実があります。

 

 先週の月曜日、東日本大震災から8年を迎えました。皆様もあの日のことを改めて思い起こし、祈りをささげられたことと思います。震災から8年経ちましたが、いまも沢山の方々が消えない悲しみ、癒えることのない痛みを抱えながら、懸命に生きています。復興はいまだ途上であり、原発事故による深刻な影響は現在進行形です。私たちの目の前には、様々な困難な課題があります。

 

受難節のこの時、主イエスのお苦しみに思いを馳せ、私たちの社会に満ちる様々な苦しみ、痛みにご一緒に心を向けてゆきたいと願います。またそして、この暗闇の向こうから差し込むイースターの光、復活の光を希望として、共に歩んでゆきたいと思います。

 

 

 

聖書における《悪霊》 ~私たちから主体性を奪う力

 

 本日の聖書箇所には、《悪霊》や《汚れた霊》と呼ばれる存在が出て来ます。人間にとりつき、心と体に否定的な影響を与える存在として、福音書の中にはこの《悪霊》や《汚れた霊》が何度も登場します。ルカによる福音書1114節《イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した》。イエス・キリストはこれらの《悪霊》と対峙し、人々から追い出す、ということをご自身の大切な働きの一つとしておられました。

 

これらの《汚れた霊》や《悪霊》がどのような存在であるかは、はっきりとは分かっていません。様々な解釈が可能であることでしょう。現代の私たちの視点からすると、中には、何らかの精神の病いに起因する場合もあったでしょう。一方で、福音書に記される《悪霊》の働きのすべてが精神的な病いに起因するものだと言えるかと言うと、必ずしもそうではないでしょう。中には、現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しい事例もあります。

 

様々な解釈ができる《悪霊》や《汚れた霊》ですが、これらの「霊」の働きについて、共通していることがあります。それは、「私たちから主体性を奪う力」であるという点です。私たちの内から自由な意志や判断を奪い、自然な感情を奪おうとする力。福音書に登場する悪霊にとりつかれた人々は、何らかの力によって主体性が奪われ、心と体が苦しめられている人々だということができます。

 

聖書における《悪霊》とは、私たちから主体性を奪う何らかの否定的な力である――このように《悪霊》の存在を受け止め直してみる時、それは必ずしも個人の心の問題だけに起因するものではないこととなります。個人の問題にとどまらず、周囲の環境がそれを作り出してしまうこともあるでしょう。ある人が誰かを支配し、その主体性を奪おうとしているのだとしたら、そこには何らかの否定的な力が働いてしまっているということになります。

 

 

 

イエス・キリストの「悪霊追放」 ~私たちに主体性を取り戻すために

 

主体性が奪われ、心と体が「自分ではない何か」に支配され、まるで自分が自分ではないような感覚にさせられてしまっている状態というのは、私たちによって非常に苦しいものです。主体性が失われている状態は、言いかえれば、「自分らしさ」が失われている状態でもあります。自分の想いや考えが尊重されない状態。有無を言わさず、自分ではない誰かの想いを強制されている状態。これらは私たちにとって苦しいことですが、私たちは日々の生活の様々な場面で、これに通ずる経験をすることがあるかもしれません。そのような時、私たちは知らずしらず、何らかの否定的な「霊」の支配の影響を受けている、ということもできるでしょう。

 

主イエスはこの私たちの現実と向かい合い、この苦しみから私たちを解放しようとしてくださいました。それが、福音書に記されている主イエスによる「悪霊追放」の出来事です。

 

主イエスは《悪霊》を追い出すことをご自身の大切な働きの一つとしておられたということを述べました。それは、言いかえると、主イエスが私たちの内に主体性を取り戻し、人間としての尊厳を回復するために働いてくださっていた、ということでありましょう。

 

聖書における《悪霊》の働きと、イエス・キリストのお働きというのはまったく対照的なものです。聖書における《悪霊》が私たちから主体性を奪うように働く何らかの否定的な力であるとすると、対して、主イエスからあふれ出ているのは私たちに主体性を取り戻すように働く積極的・肯定的な神の力です。どちらの働きも私たちの目には見えないものですが、その内実はまったく対照的なものです。

 

本日の聖書箇所では、主イエスに対して、群衆の中のある人が、《あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している》と批判をする場面が記されています(ルカによる福音書1115節)。主イエスは悪霊の親玉にとりつかれており、だから多くの人々の悪霊を追い出すことができている、というのですね。しかしこれは、見当違いの言葉であることが分かります。悪霊の働きと、イエス・キリストの働きは、根本的に異なっているからです。主イエスご自身も、《わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ20節)と述べておられます。主イエスを通して働いているのは神の力であり、主イエスを通して神の国が私たちのもとに到来することが力強く宣言されています。

 

主イエスは《真理はあなたたちを自由にする》(ヨハネによる福音書832節)とおっしゃいました。本当に大切な言葉というのは、私たちを縛りつけるものではなく、私たちを自由にしてくれるものであるのです。私たちが「自分らしく」、喜びをもって生きてゆくことができるよう力づけてくれるものです。主イエスが与えて下さる真理の霊は、私たちを自由にし、私たちが「自分らしく」喜びをもって生きてゆくことができるよう、いまも共に働いてくださっています。

 

 

 

私たちが向かい合うべき大切な課題 ~ハラスメントの問題

 

本日は、聖書における《悪霊》を「私たちから主体性を奪う力」としてご一緒に受け止めてみました。この力は、日々の生活の中で、私たちの身近なところでも生じ得るものです。私たちが誰かからこのような否定的な力を受けることもあるでしょうし、私たち自身が誰かに否定的な力を及ぼしてしまうこともあるでしょう。むしろ、私たちは意識していないと、容易にこの否定的な力の影響を受けてしまう、と言えるのではないでしょうか。

 

私たちは日々の生活の中で、気が付くと相手の想いを顧みず、相手に自分の想いを一方的に押し付けようとしたり、相手を自分の思い通りにさせようとしてしまうものです。この欲求を制御することはなかなか難しいことでもあります。だからこそ、私たちは常に立ち止まって、自分の在りようを冷静に見つめ直すことが求められているように思います。

 

 最近は「ハラスメント」の問題が改めて取り上げられるようになりました。「ハラスメント」はご存じのように、「嫌がらせ、いじめ」を意味する言葉です。セクシュアル・ハラスメント、モラル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、アカデミック・ハラスメントをはじめ、様々なハラスメントがあります。また場合によっては、複数のハラスメントが混合していることもあります。ハラスメントは、いま私たちが向かい合うべき大切な課題の一つです。

 

ハラスメントは、相手に肉体的・精神的な著しい苦痛を与え、尊厳を傷つける行為です。ハラスメントにあうと、人は自尊心が低下し、生きる意欲が吸い取られたようになり、場合によっては抑うつ状態や、深刻な心身の不調に陥ります。ハラスメントは私たちの人権を侵害するものであり、決して容認してはならないものです。ハラスメントの被害をいかにして減少させてゆくかは、私たち社会全体の重要な課題です。

 

 ハラスメントには、立場が上にある人が、その立場を利用して、立場の弱い人に対して行うという共通点があることが指摘されています。職場で、学校で、または家庭で、立場が上にある人が、その立場や権限を利用して、立場の弱い人に一方的に自分の想いや欲求を押し付けたり、嫌がらせをしたり、相手の意に反して自分の思い通りにしようとするところに共通点があります。私たちはハラスメントの被害者になることもあり得るし、また、自身がハラスメントの加害者になることもあり得るでしょう。

 

先ほど、私たちは気が付くと他者を自分の思い通りにさせてしまおうとすることを述べました。私たちが特に気をつけねばならないのは、何らかの上下関係が生じ得る環境に自分の身を置いているときでありましょう。何らかの優越する立場に自身の身を置くということは、それだけ相手を思い通りにしようとする力の中に取り込まれやすくなることを意味します。「他者から主体性を奪おうとする否定的な力」の中に取り込まれやすくなることを意味します。もし私たちが何らかのかたちで権威のある立場に身を置くことがあるとしたら、よくよく注意し気を付けていないと、むしろ私たちはこの否定的な力の中に取り込まれてしまうものだ、と認識した方がよいのではないでしょうか。

 

 

 

互いに対等な、人格をもった存在として

 

 イエス・キリストが私たちに伝えてくださっている真理、それは、「神さまの目から見て、一人ひとりが大切な存在である」ということです。神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえなく、大切な存在であること――。だからこそ私たちは、互いを人格をもった存在として尊重し合あってゆかねばなりません。相手に一方的に自分の想いを押し付けるのではなく、相手の人格を敬意をもって尊重する姿勢をもつことが求められています。

 

また、神さまの目から見ると、私たち人間には本来、上下の差はなく、主従の関係もありません。神さまの目に、皆が対等な存在です。私たちは互いに対等な、人格をもった存在として向かい合ってゆくことが求められています。

 

確かに、このことは容易なことではないかもしれません。気が付くと、私たちは他者を自分の思い通りにしたいという衝動に取りつかれてしまうものです。そのような私たちであるからこそ、絶えず自分の心や他者との関係を見つめ直し、真に対等で喜びに満ちた関係性を実現してゆけるよう、祈り求めることが必要です。そして、この私たちの一歩一歩の歩みが、この地上に神さまの願いを実現させることにつながってゆくでしょう。

 

どうぞ私たちが互いを対等な、人格をもった存在として受け止め合ってゆくことができますよう、お祈りをおささげいたしましょう。