2019年3月24日「人の子は多くの苦しみを受け」

2019324日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書91827 

人の子は多くの苦しみを受け

 

 

 

ルカによる福音書91827節《イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。/弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」/イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」/

 

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、/次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」/それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。/自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。/人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。/わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。/確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 

 

 

「イエス・キリストとは誰ですか」……?

 

「イエス・キリストとは誰ですか」。このように聞かれたとき、皆さんはどうお答えになるでしょうか。その答えは、人それぞれ違うでしょう。ある人にとっては「神の子」「救い主」がその答えであるでしょう。ある人は「生き方の指針となる人」と答えるかもしれません。またある人にとっては単に世界史の教科書に出て来る「歴史上の人物」であるかもしれません。

 

 イエス・キリストが生きておられた当時も、主イエスに対して様々なことが言われていました。ある人は「洗礼者ヨハネだ」と言い、ある人はイスラエルの偉大な預言者である「エリヤだ」と言い、またある人は「昔の預言者の生き返り」であると言っていたことが本日の聖書箇所には記されています(ルカによる福音書919節)。主イエスに対して、人々から様々な評判が立てられていたのですね。中には、根拠のないうわさ話や誹謗中傷も混ざっていたことでしょう。

 

主イエスは弟子たちから人々が自分のことをどのように言っているのかをお聞きになった後、「では、あなたがたはわたしを何者だと言っていますか」とお尋ねになりました20節)。他らならぬ弟子たちに対して、自分のことをどのように思っているのか尋ねられたのです。主イエスのこの問いに対し、弟子のリーダー格であるペトロという人物は、「神からのメシアです」と答えました。

 

「メシア」とはヘブライ語で「油注がれた者」という意味をもつ言葉で、後に「救い主」という意味で用いられるようになった言葉です。この「メシア」のギリシア語訳が「キリスト」です。ですので、ここでペトロは主イエスに対して「あなたはキリスト、救い主です」と答えたことになります。

 

「あなたはキリスト、救い主です」。一見、ペトロはふさわしい答えをしたように見えます。しかし主イエスはペトロのその答えを聞いて、このことをだれにも話さないようにと命じられました。そして、次のようにおっしゃいました。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている22節)。これからご自分は多くの苦しみを受け、宗教的な権力者たちから排斥されて殺されることを予告されたのです。そして、三日目に復活することをも予告されました。

 

 福音書に記されている受難物語を知っている私たちからすると、「その通り」と違和感なく読むことが出来る言葉かもしれませんが、その場にいた弟子たちにとっては、ただただポカンとするしかない、意味が不明の言葉であったことでしょう。理解はできないけれど、「殺される」という衝撃的な言葉に、強い不安や恐れを感じたのではないかと思います。

 

 

 

ペトロの期待するキリスト像 ~政治的な救世主

 

 特に「あなたは救い主です」と答えたペトロは、非常に困惑したのではないでしょうか。というのも、そのときペトロが頭に思い描いていたキリスト像というのは、多くの苦しみを受けたり、権力者たちから排斥される存在ではなかったからです。ましてや、殺されてしまうなんて、とんでもない、そんなことは絶対あってはならないことだと感じたことでしょう(参照:マタイによる福音書1622節)

 

 そのときペトロが頭に思い描いていたキリスト像というのは、「政治的な救い主としてのキリスト」であったようです。そのような意味で、ペトロは「救い主」という言葉を用いていたのですね。当時、イスラエルは強大なローマ帝国の支配下にありました。いわば属国的な位置にあり、当時はローマの支配から独立しようという動きが高まっていた時代でした。そのような中、たくさんの人々が主イエスに対して、イスラエル民族をローマの支配から解放してくれる「政治的な救世主」の役割を期待していました。「あなたはキリストです」というペトロの告白はその願いが吐露されたものであると受けとめることもできます。

 

ペトロの返答に対して主イエスがうなずくことはなさらなかったのは、ペトロたちの熱いまなざしの中に、一方的な期待や願望を読み取っておられたからではないでしょうか。ペトロたちが主イエスに熱烈に期待している事柄と、主イエスご自身が実際にこれから成し遂げようとしている事柄とは、大きくかけ離れているものであったのです。

 

 

 

人に自分の期待を押し付けてしまうこと

 

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》。主イエスのこの言葉は、ペトロにとって理解のできない、恐れを感じさせる言葉であると共に、「期待外れ」の言葉であったでしょう。それは、師である主イエスに対して、心のどこかではじめて落胆を感じた瞬間であったかもしれません。その後、その落胆は心の中で抑えきれなく膨らんで失望へと変わってゆき、そして主イエスが逮捕された夜、主イエスを「そんな人は知らない」と否む言動(ルカによる福音書225462節)へとつながってゆくこととなります。

 

 けれども、このペトロの姿を思う時、これと通ずることは私たちの日々の生活の中でも起こっているのではないかと思わされます。人に対して過剰な期待を抱いてしまったり、一方的に自分の願望を投影してしまったり……。いやむしろ、私たちは注意していないと、絶え間なくそのようなことを人に対してしてしまうものなのではないでしょうか。家族に対して、友人に対して、職場の同僚に対して、「~してほしい」「~のような人であってほしい」と私たちはつい相手に自分の期待を押し付けてしまうものです。

 

そのとき、私たちは相手のことを思って自分は期待をかけているのだと思っていますが、実際は「相手のため」ではなく「自分のため」であることが多いものです。そして、相手が自分の意に添うように振る舞わなければがっかりし、怒りを感じてしまうのです。

 

私たちは誰かに一方的に自分の期待を押し付けてしまってはいないか、折に触れ立ち止まり、自分の心を見つめてみることが求められています。

 

 

 

人の期待に応えようとしてしまうこと

 

 私たちは人に期待を押し付けることもありますし、また、人から期待を押し付けられることもあります。「~してほしい」「~のような人であってほしい」と誰かから期待されることも、日々の生活の中で絶えず起こっているのではないでしょうか。そのような時、私たちはつい相手の期待に応えようとしてしまうことが多いものです。本当は嫌でも、気が進まなくても、相手の期待に応えようと振る舞ってしまうのです。

 

 誰かの期待に応えて生きようとするとき、しかし、私たちは心の奥底では辛さや苦しさを感じています。そこでは、「自分がどうしたいか」ということが失われているからです。自分の本当の気持ちが犠牲にされているからです。自分の気持ちを無視して人の期待に応え続けようとするあり方は、私たちにとってとても苦しいものでありましょう。

 

私たちは他者に自分の期待を押し付けてはならないし、同時に、他者から期待を押し付けられてもならない。もしも私たちがいま、誰かからの想いを押し付けられ、自分を犠牲にして人の期待に応えようとしているとしたら、立ち止まり、そのあり方を見つめ直す必要があるでしょう。

 

 

 

「自分がどうしたいか」を大事にする

 

「自分がどうしたいか」を大事にすることは、決して「我がまま」なことではありません。「自分がどうしたいか」を尊重することができたとき、私たちは「人がどうしたいか」も尊重することができるようになってゆくのではないでしょうか。

 

私も常に立ち止まって、自分自身の心をあり方を見つめ直したいと思っています。私も、人の期待に応えようとする傾向が強いように思うからです。そこにはただ純粋に「相手のため」ということだけではなく、たとえば、相手をがっかりさせたくないという心理や、相手から良く思われたいという心理が働いている場合もあるように思います。

 

ここ数年ほどは、自分にとって大切な選択をする際は、立ち止まり、「自分がどうしたいのか」を自分の心に問いかけるようにしています。そうすると、葛藤していた自分の心の中に、実ははっきりとした答えがあることを知り、踏み出すべき次の一歩が見えて来ると感じています。

 

 

 

自分の想いを手放してゆくこと

 

改めてご一緒に本日のイエス・キリストの言動に心を向けてみたいと思います。主イエスは周囲の期待にご自分の生き方を合わせることをなさいませんでした。ご自分に向けられるその期待がどれほど強いものであっても、大切な弟子からのものであっても、大勢の人々が切に待ち望んでいる事柄であっても、それらの期待に自分の生き方を合わせることはなさいませんでした。毅然として、自分の歩むべき道――十字架と復活の道――を歩んでゆかれました。福音書は、「人の期待に自分を合わせる生き方をなさらなかった」主イエスのお姿を私たちに指し示しています。

 

 本日の聖書箇所において、主イエスは続けて、その場にいた皆に次のように呼びかけられました。《わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい23節)

 

自分を捨て》という言葉は、誤解されやすい言葉であるかもしれません。解釈の仕方によっては、「自分を犠牲にする」「自分の気持ちを犠牲にして、周囲の期待に応える」ことが勧められているようにも取れるからです。これまでのキリスト教の歴史において、実際そのように解釈されてきたこともあったでしょう。他者のために生きるということはもちろん大切なことです。けれども、自分を大切にしないで、どうして私たちは人を大切にすることができるでしょうか。

 

ここでの《自分を捨て》という言葉を、本日は、「自分の想いを手放して」という意味に受け止めてみたいと思います。どのような自分の想いを手放してゆくのか、それは「他者に期待を押し付けようとする自分の想い」であり、「他者の期待に応えようとする自分の想い」です。それら想いを少しずつ手放してゆくこと、解き放ってゆくこと、そのことが勧められているのだと受け止めたいと思います。そのためには、「自分の気持ちを犠牲にする」のではなく、むしろ、「自分の気持ちを大切にしてゆく」ことが不可欠です。

 

 

 

他の誰のものでもない、《自分の十字架》を担って

 

自分の十字架を背負って》と主イエスはおっしゃっています。この言葉も様々な解釈ができる言葉であるでしょう。重要だと思うは、主イエスが私たちのまなざしを「自分自身」に向けるよう促してくださっている点でありましょう。あの人が、でもなく、この人が、でもない。他ならぬ、「この私」のあり方がここで問われています。《自分の十字架》とは、私たち一人ひとりに与えられている重荷であると同時に、何らかの使命であると受け止めることができるでしょう。

 

この使命は、私たちの心の深くに宿されたまことの願いから生じています。私たちは自分の心の奥に宿された願い、自身の本当の気持ちを知ることを通して、自分に与えられた使命を理解してゆくことでしょう。「自分がどうしたいか」「何を心から願っているのか」を問い続けることを通して、私たちは自分がなすべき使命についてより深く理解してゆくのです。《自分の十字架》を担うことができるのは、自分自身だけです。誰も、何者も、これを私たちから取り上げることはできません。

 

もしかしたら、その《自分の十字架》を担おうとする日々の中で、苦労することや、様々な辛さや苦しみに出会うことがあるかもしれません。自分の言動が周囲から理解されなかったり、思わぬ誤解が生じてしまったり、誹謗中傷を受けたり、対立関係が生じたりすることもあるかもしれません。しかしその苦労も、苦しみもまた、私自身のものです。

 

そして、苦しみの中にあっても、それでもなお、私たちの心の奥底にまことの願いは燃え続けていることを私たちは知っています。このまことの願いは、最も深きところではすべての、一人ひとりの願いとつながっています。イエス・キリストの願い、神さまの愛とつながっているのだと信じています。

 

キリスト教は「神の御心(願い)が大事」だと伝えます。それは確かにその通りです。ただし、これからの私たちは、もはや「自分の心を犠牲にして」神の御心を尋ね求めるのではなく、「自分の心を大切にする」ことを通して神の御心と出会ってゆくようにと招かれています。

 

 どうぞ私たちが他の誰のものでもない《自分の十字架》を担って、自分自身の人生を一歩一歩、生きてゆくことができますようにと願います。