2019年3月3日「五つのパンと二匹の魚」

201933日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書91017

五つのパンと二匹の魚

 

 

ルカによる福音書91017節《使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。/群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。/日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」/しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」/というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。/弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。/すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。/すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった

 

 

 

3月に入り……

 

3月に入りました。春を思わせる気候が続いています。もう一度くらい寒くなり雪が降るかもしれませんが、あたたかな日差しを浴びていると春はもうすぐそこであることを思わされます。牧師館の方の庭には、フキノトウが顔を出していました。

 

36日(水)から教会の暦で受難節に入ります。イエス・キリストのご受難を心に留め、過ごす時期です。受難節は420日(土)まで続きます。

 

次週の310日(日)には午後2時半より、宮古教会と千厩教会で東日本大震災8年を覚えての礼拝がささげられます。私たち花巻教会は千厩教会での礼拝に出席します。震災を覚える礼拝にはどなたでもご参加いただけます。いまもなお困難の中、悲しみの中にいる方々を覚え、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

今年は新天皇の即位に関する報道、また来年開かれる東京オリンピックに向けて盛んに報道がなされてゆくことと思います。私たち日本の社会からはますます、東日本大震災と原発事故のことが思い起こされることが少なくなってゆくかもしれません。けれども、この震災と原発事故が私たちの社会から決して「なかったこと」にされることがないよう、声を上げ続けてゆきたいと願います。

 

 

 

五つのパンと二匹の魚

 

本日の聖書箇所は、よく知られた「五千人に食べ物を与える」場面です。主イエスが5つのパンと2匹の魚を分けて弟子たちに配らせると、その場にいる大勢の人々が満腹になったという、いわゆる「奇跡物語」を記したものです。このような奇跡物語が「ありえる」か「ありえないか」ということだけではなく、いまを生きる私たちにどのようなメッセージを語りかけているかということにご一緒に心を向けてみたいと思います。

 

その日、大勢の人々が主イエスのもとに集っていました。主イエスはこの人々を迎え、神の国ついて語り、治療の必要な人々をいやしておられました。 日が傾きかけたころ、弟子たちが主イエスのところに来て言いました。《群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです12節)

 

主イエスは長時間にわたって、人々に話をされ、治療を続けておられたのでしょう。いつしか日も暮れ、食事をする時間となりました。弟子たちはその場にいる大勢の人々を解散させるように要望します。そうすれば人々は自分で周りの村や里へ行って宿を取り、食べる物を見つけるだろうと考えたのです。しかし、これに対する主イエスの言葉は意外なものでした。《あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい13節)

 

弟子たちは驚いたことでしょう。というのも、その場には、男性だけで5000人ほどの人がいたからです。弟子たちは《わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり》と答えます。彼らの手元には、パン5つと魚2匹という、わずかな食糧しかありませんでした。

 

 

 

膨大な数の人々を前にして

 

ここで改めて、弟子たちが直面していた状況を思い描いてみたいと思います。弟子たちの目に前には、疲れと空腹を覚えている5000人以上もの人々がいました。どこかからお腹を空かせた子どもの泣き声も聞こえていたかもしれません。日が傾いて、辺りが暗くなり始めている中、確かに、もう解散せざるを得ないような状況です。

 

 弟子たちは膨大な数の人々に圧倒され、もはや自分にできることは何もないと感じていたのかもしれません。今日はもう解散して、各自で食べ物は用意してもらうしかない、と。心の内に無力感を覚えながら、主イエスに「今日はもう解散にしましょう」と提案したのかもしれません。弟子たちの言葉からは、早く解散して人々が自分たちの目の前からいなくなることを心のどこかで望んでいるような印象も受けます。

 

 弟子たちのこの反応というのは、私たちも実感できることなのではないでしょうか。私たちもまた、自分を圧倒するような何かに出会った時、無力感を感じることがあるからです。

 

最近はメディアの発達でたくさんの情報が私たちのもとに届けられるようになりました。世界中で日々報じられていることを全部受け止めようとすれば、私たち自身はたちまち許容量がオーバーになってしまうことでしょう。ニュースを見ますと、日々悲惨なニュースが報じられています。死亡した人々の数が数字として報じられ、また困難な状況の内にいる人々の数が膨大な数字として報じられます。そのような膨大な数字を前に、いったい自分にいったい何ができるのかと私たちは思います。そこで起こっている事柄の規模の大きさに対して、自分という存在があまりにも無力に思えてくることがあります。

 

 本日の物語において、弟子たちもまた、膨大な数の群集を前に、自身の許容量がオーバー気味になってしまっていたのかもしれません。もはや自分たちの手には負えない。自分たちにできることはない、と。

 

私たちは困難な状況を目の前にしたとき、その問題に対して心を閉ざすことで自分を守ろうとすることがあります。起こっている事柄の規模の大きさに対して、自身の許容量がオーバーになってしまうのですね。このとき、弟子たちもそのような心境であったのかもしれません。早く問題が自分たちの前から過ぎ去ってくれることを望む心境になってしまっていたのかもしれない、と想像します。

 

 

 

「大勢の群衆」から「顔の見える存在」へ

 

 主イエスはそのような弟子をご覧になり、ある提案をなさいました。目の前にいる大勢の群集を、50人くらいずつの食事の組に分けるようにお命じになったのです。《人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい14節)。弟子たちはその指示のとおり、人々を組に分けて座らせてゆきました。

 

そうするとどうなったでしょうか。大勢の群衆が、互いに顔が見える集まりになっていったのではないかと想像します。弟子たちは人々の数に圧倒されていましたが、細かなグループに分けられてゆくことにより、一人ひとりの表情が見えるようになっていった。それに伴い、弟子たちの恐れや無力感は少しずつ軽減されていったのかもしれません。主イエスがお命じになったこのグループ分けを、本日はそのような意味をもつものとして受け止めたいと思います。このグループ分けの作業を通して、「大勢の群衆」がだんだんと互いに「顔の見える存在」へ――自分自身の隣人となっていったのです。

 

 

 

「あなたの手にあるものを、いま目の前にいる人と分かちあいなさい」

 

主イエスが私たちにおっしゃっているのは、5000人の空腹を満たせということではなく、いま目の前にいる人のために、自分のできることをするということであると思います。

 

弟子たちの手元にあるのは五つのパンと二匹の魚という、わずかな食糧でした。それをもって5000人もの人々の食料とするのだとしたら、それは確かに不可能なことです。けれども、そのわずかな食糧を、顔の見える、いま目の前にいる人々と分かち合うことはできます。主イエスが伝えたかったのは、「あなたの手にあるものを、いま目の前にいる人と分かちあいなさい」ということであったのだと本日は受け止めたいと思います。

 

 大勢の人々のために何ができるか、ではなく、いま目の前にいて苦しんでいるその人のために何ができるか。たとえ自分の手元にあるのがただ一つのパン、一匹の魚であったのだとしても、目の前にいる人とそれを分け合おうとすること。私たちの目には小さく、ささやかな行為であっても、神さまの目には「十分なこと」をしたと映っているのです。そして主イエスは、その私たちの小さな行為を豊かに用いてくださいます。

 

主イエスは弟子たちから受け取った5つのパンと2匹の魚をお取りになると、天を仰いで賛美の祈りを唱えられました。そうしてそれを裂き、人々に分け与えて下さいました。すると、その場にいたすべての人が食べて満腹した、と福音書は記します。残ったパンの屑を集めると、十二籠にもなったほどでした。

 

 

 

小さなパンと魚が、キリストを通して

 

手元にある5つのパンと2匹の魚を分け合う――。その小さいと言えば小さな行為が、5000人の必要を満たすような大きな働きへと、主イエスを通して変えられてゆきました。この奇跡は、「五つのパンと二匹の魚を分け合う」という、人の目には小さく見える行為を用いて、神さまが豊かな恵みの業を成し遂げてくださるのだということを私たちに伝えています。私たちの目には小さくささやかな行為であっても、主イエスを通して、神さまの愛の御業へと変えられてゆくのです。私たちにできることは確かに小さなことかもしれませんが、それを「しない」でいるのではなく、「する」こと。それが大切なことなのだとこの度の物語から教えられます。

 

私たちが自分にできることをしなければ、それはゼロです。もし私たちが自分にできることをすれば、それが1であっても0.1であっても、ゼロとは明確な違いがあります。主イエスがもっとも悲しまれるのは、私たちが何も「しない」でいることでしょう。私たちが具体的な誰かのために自分のできることを実行する時、主イエスが私たちと共に働いていてくださいます。私たちの小さなパンを祝福し、思いのままに用いてくださるでしょう。

 

 

 

ただ一つのパンを分け合うことの豊かさ

 

自分の手にあるものを、いま目の前にいる人々と分かち合うこと。これは他ならぬ主イエスご自身が、生涯を通して実行してくださったことでした。そしてご生涯の最期には、ご自身の体そのものを一つのパンとして、私たちに分け与えて下さいました。目の前にいる一人ひとりをかけがえのない存在として愛し、御自身の命を分け与えて下さいました。私たちのために裂かれたこの一つのパンから、神さまの大いなる恵みは溢れ出ました。私たちはいまも、この恵みに生かされ、育まれ続けています。ただ一つのパンを分け合うことのまことの豊かさを、主イエスは私たちに示し続けて下さっています。

 

「あなたの手にあるものを、いま目の前にいる人と分かちあいなさい」――十字架から、主イエスはそう私たちに語りかけておられます。

 

たとえ手元に一つのパンもなくても、私たちは祈ることができるでしょう。私たちの内にともされているキリストの愛を、目の前にいる人々と分かちあってゆくことができるでしょう。

 

 主の語りかける声に、いま私たちの心を開きたいと思います。