2019年3月31日「山上の変容」

2019331日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書92836

山上の変容

 

 

 

ルカによる福音書92836節《この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。/祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。/見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。/二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。/ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。/その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。/ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。/すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。/その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった

 

 

 

《ペトロと仲間はひどく眠かった》

 

眠ってはいけないような場で、眠気が襲ってくることがあります。たとえば、講演会を聴きに行ったとき、途中でふいに睡魔が襲ってくることがあります。特にお昼の食事を終えた後は眠くなることが多いですよね。「眠ってはいけない」と懸命に眠気を覚まそうとするのだけれど、どうしても眠気に抗えない。そのような時は事前にコーヒーを飲もうと、何をしようと、駄目なものです。 

 

私も10代の後半から20代の前半までが、特にそうでした。最近はそこまで激しい眠気を催すということはなくなりましたが、若かったからでしょうか、授業中などに無性に眠くなったのを覚えています。自分なりに懸命に目を覚まそうとは努力するのですが、どうにもなりません。たとえば、あえてあくびをしてみるとか。でも効きません。シャーペンの先で手の平をつついてみるとか。チクッとした痛みで目が覚めるのではないかと思うのですが、でも効きません。最後には、息を止めてみる(!)ということも試してみました。息を止める苦しさで目が覚めるのではないかと思ったのですが、それでも駄目でした。考えてみれば、息を止めると脳に酸素が行き渡らなくなって、余計に眠くなってしまったかもしれません。さまざまな手を尽くしても、どうしても眠い。気が付くと、コックリコックリ舟を漕いでしまっているということがありました。十代の頃は、教会の礼拝に出席しているとき、説教中にコックリコックリ舟を漕いでしまっているということがよくありました。

 

聖書を読んでいると、人物たちが眠っている場面がよく登場します。夢の中で神さまや天使が語りかけるという場面も幾度も出て来ますので、聖書において夢はとても重要な働きをしていると言えます。

 

一方で、眠ってはいけないような場で、人物たちが眠ってしまう場面もあります。よく知られている聖書箇所としては、「ゲツセマネの祈り」の場面が挙げられるでしょう。イエス・キリストが逮捕される直前、弟子たちを伴ってゲツセマネという場所で祈りをささげられました。主イエスが祈りながら苦しみ悶えておられるとき、弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでしまっていました(ルカによる福音書223946節)。深い悲しみを前に心身が眠り込んでしまうというのは、人間の一種の防衛本能によるものであるということもできるかもしれません。主イエスは眠り込んでいる弟子たちを責めることはなさいませんでした。その後、すべてを受けとめ、すべてを引き受けて、お一人で十字架の道を歩んでゆかれました。

 

 本日の聖書箇所でも弟子たちがひどい眠気に襲われる場面が描かれています《ペトロと仲間はひどく眠かったが、じっとこらえていると…(ルカによる福音書932節)。この一文を別の翻訳では《ペトロとその仲間はすっかり眠りこけていたのだが、目をさますと…》と訳出していました(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 2上 ルカ福音書』、作品社、2011年、39頁)。眠気を堪えているのだけではなく、実際に眠ってしまったと翻訳しているのですね。そうしてハッと目を覚ますと、山の上に立つ主イエスのお姿が光り輝いているのが見えた、と福音書は記します。

 

 

 

山上の変容

 

本日の聖書箇所は、教会で伝統的に「山上の変容(変貌)」と呼ばれている場面です。イエス・キリストがペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちと共に山に登られた際、主イエスのお姿が変わり真っ白に光り輝いた、という場面です。正教会では、この出来事はクリスマスやペンテコステと共に祭日の一つとして祝われています。

 

主イエスが弟子たちと共に登られた山がどの山であるのかははっきりとは分かりませんが、伝統的には「タボル山」とされてきました。パレスチナにある標高588メートルのお椀型の山です。

 

主イエスは祈っておられる内に顔の様子が変わり、その服は真っ白に輝き始めました。《祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた29節)。またその輝きの中で、旧約聖書の重要人物であるモーセとエリヤが現れて主イエスと共に語り合っていた、と福音書は記します。《見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。/二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた31節)。《エルサレムで遂げようとしておられる最期》とは、十字架の死、そして復活のことを指しているのでしょう。弟子たちはこの会話が指し示すことを理解することができず、眠りの中に落ち込んでゆきました。

 

 

 

キリストの光 ~神さまからの尊厳の光

 

眠気の中で弟子たちが垣間見たキリストの光とは、どのようなものであったでしょうか。福音書にはその意味ははっきりとは記されていません。様々な受け止め方ができることでしょう。

 

ペトロたちは自分たちが垣間見たその光を理解することはできませんでした。受け止め切れずに、眠りの中に落ちてゆきました。ここでの眠りとは身体的な眠りというよりも、心がまどろみ眠っている状態として受け止めることができます。

 

 ペトロたちが夢見ていたのは、「イスラエルに栄誉の光を取り戻す」ことでした。当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。その支配から解放され、イスラエルに栄光が取り戻されることを熱望していました。ペトロたちは主イエスに政治的な救世主の役割を期待していました。

 

しかし、主イエスが成し遂げようとしていたのはイスラエルに栄光を取り戻すことではありませんでした。主イエスが願っておられたのは「一人ひとりに尊厳の光を取り戻す」ことであった、と私は受け止めています。国籍を超えて、民族を超えて、宗教をも超えて、すべての人に神さまからの尊厳の光がともされてゆくこと――。この意味をペトロたちは受け止めることができず、その光を垣間見てもすぐに心がまどろみの中に陥ってしまったのだと本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

旧約聖書のイザヤ書に、次の神さまの言葉があります。《わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している(イザヤ書434節)。神さまの目から見て、あなたという存在が、かけがえなく、貴いことを語っている言葉です。

 

  イエス・キリストを通して、この光の言葉が私たちに伝えられています。神さまの目から見て、あなたという存在が、かけがえなく貴いということ。「尊厳」とは、言いかえれば、「私という存在のかけがえのなさ」のことです。神さまから見て、あなたのかわりになる人は存在しません。私たち一人ひとりの存在は、かけがえのない=かわりがきかない存在であり、だからこそ貴いのです。

 

 

 

私たちの社会を覆う「暗さ」

 

「かけがえのなさ」の反対語は、「かわりがきく」という言葉でしょう。私たちのいまの社会を見ると、様々な状況において人が「かわりがきく」存在にされてしまう現状があるように思います。(自分はいてもいなくてもいい存在なのではないか。自分はかわりがきく存在なのではないか……)、その悲痛な声が、私たちの近くに遠くに満ち満ちています。

 

  個人の尊厳の光が見失われ、各人が「かわりがきく」存在にされている時、私たちの目の前を「暗さ」が覆います。人の人格が軽んじられ、尊厳がないがしろにされることの暗闇が、いま、私たちの社会全体を覆っているように思います。新聞やテレビで報じられているニュースを見るだけでも、私たちの生きる社会がいかに暗さを帯びているかが分かります。日々、私たちの心を痛めるニュースが後を絶ちません。

 

またそして、私たち自身、だんだんとその暗さに慣れていってしまうこともあるでしょう。尊厳がないがしろにされることの痛みに無感覚になってしまう危険性もあるのではないでしょうか。

 

 

 

暗闇の中に輝く光 ~神は私たちの痛みを「なかったこと」にはなさらない

 

痛みに無感覚になるということは、痛みに慣れてしまうことにつながります。尊厳がないがしろにされることが「当たり前の日常」になっていってしまうことにつながります。

 

 痛みを「なかったこと」にされてしまうこと、それは私たちにとって最も大きな苦しみの一つなのではないでしょうか。私たちはそれぞれ、自分に固有の痛みを抱えながら生きています。もしその痛みが周囲からあたかも「存在しないかのように」されてしまうとしたら。それは私たちにとって大変な苦しみです。

 

私たちの社会には、時に、意図的に他者の痛みを「なかったこと」にしようとする悪しき力が働くことがあります。そのような不正義が、悲しむべきことに、いまの私たちの社会では至るところに存在しているというのが現状のように思います。

 

聖書が伝えるのは、神さまは私たちの痛みを決して見過ごされない方である、ということです。私たちの痛み、苦しみを決して「なかったこと」にはされない方であるということです。この神さまの正義への信頼が、聖書全体を貫いています。

 

尊厳がないがしろにされている現実は、決して「当たり前」であってはならない。あなたがそのように痛み、苦しんでいる状態は、あってはならない。それは、神さまの願いではありません。

 

  神さまは私たちの痛みを、あってはならない痛みとして受け止め、その痛みをわが痛みとして受け止め、苦しんでくださっています。聖書は、神さまは私たちの痛み、叫びを必ず聴いていてくださると語ります。そしてそのために、御子イエス・キリストを私たちのもとに遣わしてくださいました。暗闇の中に輝く光として――。 この光はいま、私たち一人ひとりを照らしています。

 

受難節の今、はっきりと目を覚まし、このキリストの光に私たちの心を向けたいと思います。