2019年4月28日「エマオへの道にて」

2019428日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書241335 

エマオへの道にて

 

 

ルカによる福音書241335節《ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、/この一切の出来事について話し合っていた。/話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。/しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。/イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。/その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」/イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。/それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。/わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。/ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、/遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。/仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」/そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、/メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」/そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。/

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。/二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。/一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。/すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。/二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。/そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、/本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。/二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した

 

 

 

教会総会

 

新しい年度が始まり1ケ月ほどが経ちました。新しい生活を始めた方にとってはちょうど疲れが出てくる時期かと思います。どうぞご無理はなさらないようにしてください。

 

昨日からゴールデンウィークが始まりました。今年は10連休ですね。ゴールデンウィークのただ中ではありますが、今日は礼拝後、花巻教会の2019年度の教会総会を行います。昨年度の歩みを振り返るとともに、新しい年度について意見を出し合い、祈りを合わせてゆきたいと思います。教会員の皆さんはどうぞ出席をよろしくお願いいたします。

 

 

 

2018年度を振り返って ~110周年を迎えて

 

昨年度、私たち花巻教会は《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマの信徒への手紙1215節)を年間主題聖句にして歩んできました。私たちがこれからも、このみ言葉に常に立ち帰ることができますように、喜びも悲しみも共に分かち合う歩みをしてゆくことができますように願います。

 

昨年、大きな感謝であったことの一つは、私たち花巻教会が創立110周年を迎えることができたことです。1124日には創立110周年記念講演会を行いました。講師に雜賀信行さん(雜賀編集工房、クリスチャン・プレス編集長)をお招きし、「宮沢賢治とクリスチャン」を主題にお話しいただきました。教会関係者の方々や地域の方々がたくさん集ってくださいました。お忙しい中、講師をつとめてくださった雜賀さんに感謝いたします。

 

また、この110年の間、この教会が神さまと多くの方々に支えられながら歩んでこられましたことを心より感謝いたします。これから、私たち教会がより地域に根ざし、地域の課題を共に担う教会となってゆくことができますよう願っています。

 

 

 

2019年度の年間主題聖句 ~空の鳥、野の花を見てごらん

 

2019年度は次のみ言葉を年間主題聖句としてご一緒に歩んでゆきたいと思っています。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。/しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった(マタイによる福音書62629節)

 

イエス・キリストのよく知られた言葉、「空の鳥、野の花を見よ」の部分ですね。このみ言葉はイエス・キリストというお方が「この世界をどのように見つめておられたか」ということが、最も端的に表されている聖書箇所であると思います。ある人は、新約聖書全体の中でこの箇所ほど読者に豊かな色彩的イメージを喚起する箇所は他にないと記していました(大貫隆氏『イエスという経験』、岩波書店、2003年、7071頁)

 

このみ言葉を読んでいると、ガリラヤ湖畔の花々が咲き乱れる丘の上で、主イエスが「空の鳥、野の花をみてごらん」と弟子たちに微笑みながらお語りになっているお姿が目に浮かんでくるようです。そしていま、ここにいる私たちにも主イエスはそう語りかけておられます。

 

この箇所が指し示す世界の在り方は、まさに創世記1章に描かれる、すべてが神の目に「よい」世界そのものであると思います。天地創造において、神はご自分がお造りになったすべてのものをご覧になって、「極めて良かった」とお語りになったと創世記は記しています。《神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった(創世記131節)

 

たとえ私たちの目に、自分の存在が「悪い」ものに思えたとしても、神さまの目から見るとそうではない。神さまの目から見ると、私たち一人ひとりの存在は「よい」ものである。そしてイエス・キリストもまた私たち一人ひとりをそのように見つめてくださっているのだとご一緒に受けとめたいと思います。

 

確かに私たちはそれぞれ弱さをもち、課題を持っています。時に失敗をしたり、過ちを犯すこともあるでしょう。それでもなお、私たちは神さまの目に「よい」存在であるのだと信じています。そしてこのすべての存在が極めて「良い」世界において、最も大切なことは「存在していること」です。私たちがいまここに「いること」こそが最大に価値あることです。

 

私たちの社会は現在、「効率」や「生産性」が過度に強調される傾向があります。効率や生産性に価値を置き、それで人の価値も判断してしまう。生産性や効率で人の価値が判断されてしまうのであれば、価値ある人に該当する人は、ごくごく一握りの限られた人たちだけになってしまうでしょう。社会がどんどんとそのような方向へ向かってしまう状況にあって、私たちが上記の主題聖句のまなざしを取り戻してゆくことは喫緊の課題なのではないでしょうか。

 

聖書は、神さまが私たち一人ひとりを「極めてよい」ものとして創ってくださったことを語っています。神さまの目から見て、私たち一人一人の存在が大切な、「かけがえのない=替わりがきかない」ものであることを語っています。神さまの目に、いない方がよい人など、一人として存在しません。何か有用な働きができないと価値がないという考え方は、イエス・キリストが伝えてくださった福音とは正反対のものです。

 

私たちがいまここに「存在していること」自体が最大の価値であるという視点を、今一度取り戻してゆけますように。「よい」という声を私たちの社会の土台に据え、共に歩んでゆけるようにと願っています。

 

 

 

エマオへの道にて ~内に燃える神さまの愛

 

私たちはいま教会の暦で復活節の中を歩んでいます。今日は復活節第2主日礼拝をおささげしています。先週のイースター礼拝では、洗礼式が執り行われました。喜びに満ちたイースターとなり感謝でした。

 

先ほどご一緒にルカによる福音書241335節をお読みしました。二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かう道すがら、復活された主イエスと出会う場面です。

 

暗い顔をして歩いていた二人ははじめ、自分たちと一緒に歩むお方が主イエスだとは気づきませんでした。一緒に食事の席に着き、主イエスが賛美の祈りを唱えパンを割いてお渡しになったとき、二人の目は開け、目の前にいる方がどなたであるか分かりました。彼らの目が開かれると同時に、主イエスのお姿は見えなくなりました。二人は、《道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか32節)と語り合いました。

 

不思議な物語ですが、これまでたくさんの人々の心を捉えてきた物語です。復活された主イエスがすぐ隣にいてくださっていたのに、心の目が遮られていて、主イエスだとは分からなかった弟子たちの姿に、共感を覚えるからかもしれません。また、その時は気付かなかったけれど、思い起こすと、主イエスが聖書の説明をしてくださっていたとき心が燃えていた、という言葉に、私たち自身の心も熱くなるからかもしれません。このエマオへの途上の物語が語るように、私たちは復活の主イエスに出会っていても気付かない時もあるし、ゆっくりと時間をかけて、そのことに気付くこともあるでしょう。

 

たとえ私たちの心の目が遮られていても、まどろんでいても、主イエスの愛はいつも私たちに注がれています。その愛は確かに、私たちの心の奥底にともされています。ある瞬間、私たちの心の目は開かれ、内に燃える神さまの愛に気付いてゆきます。

 

私たち一人ひとりを価高く、かけがえのない存在として見つめてくださっている主イエスのまなざしに、神さまの愛に、いま私たちの心を開きたいと思います。