2019年4月7日「「ぶどう園と農夫」のたとえ」

201947日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書20919 

「ぶどう園と農夫」のたとえ

 

 

ルカによる福音書20919節《イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。/収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。/そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。/更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。/そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』/農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』/そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。/戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。/イエスは彼らを見つめて言われた。

「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』/

その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」/そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた

 

 

 

新しい年度の始まり

 

新しい年度が始まりました。今日は2019年度の最初の礼拝になります。4月から花巻を離れ、新しい地で生活を始めた方もいらっしゃいます。また新たな環境で学校生活や仕事をスタートした方もいらっしゃることでしょう。この2019年度も、皆さんの上に神さまの祝福がありますようお祈りいたします。

 

428日(日)には花巻教会の総会を予定しています。昨年度の歩みが神さまと多くの方々によって支えられた恵みに感謝すると共に、新しい年度に向けて、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

当時の宗教的・政治的な権力者 ~律法学者、祭司長たち

 

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。本日は受難節第5主日礼拝をおささげしています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。421日(日)にイースターをお迎えします。

 

 イエス・キリストの受難と十字架の道行きが描かれた物語を、受難物語と言います。福音書の中でも多くの分量がこの受難物語に割かれています。受難物語には、主イエスを死に追いやった存在として、律法学者や祭司長という人々が登場します。本日の聖書箇所にも律法学者、祭司長たちが出て来ました。律法学者や祭司長とは、当時の宗教的・政治的な権力者たちであるということができます。

 

主イエスが生きておられた時代、絶大な権威をもっていたのが「最高法院」という自治機関でした。トップの議長の座にいるのは大祭司と呼ばれる人物、そして議員を構成しているのが祭司長、長老、律法学者と呼ばれる人々でした。

 

最高法院はエルサレム神殿の「石切の間」と呼ばれる部屋を議場としていました。主な働きは国民の宗教生活を監督することでしたが、その他にも裁判所の役割も担っていました(参照:『新共同訳 聖書辞典』)2000年前のイスラエルはいまだ「三権分立」という考え方はありませんので、この最高法院がいわば行政であり、司法でもあったのです。現代の視点からすると恐ろしいことですが、当時としては当たり前のことであったのですね。

 

というのも、最高法院が議会においてある人物を「有罪にしよう」と決めたとしたら、それを前提として強引に裁判を進めてゆくことも可能であるからです。万が一その人物が無実であったら、大変なことです。

 

そしてまさに主イエスはそのような不正な仕方で、死刑の判決を受けました。無実であるにも関わらず、最高法院の策略によって逮捕され、裁判にかけられ、そして死罪を言い渡されたのです。罪状は、「ユダヤ人の王を自称し、民衆を扇動しようとした罪」(ローマ帝国への『反逆罪』)でした。これはまったくの濡れ衣、冤罪でした。主イエスは無実の罪によって殺されてしまったのです。権力者たちの策略によって主イエスが殺されたのは紀元30年頃と考えられています。

 

 

 

「ぶどう園と農夫」のたとえ ~権力者たちに対する批判として

 

 なぜ律法学者や祭司長たちは主イエスを執拗に攻撃し続けようとしたのでしょうか。ありもしない罪状をでっちあげ、断罪しようとしたのでしょうか。様々な要因が考えられるでしょう。人々から熱い支持を受ける主イエスに対する妬みや嫉妬もあったかもしれません。また大きな理由の一つとして、主イエスから率直に問題点を批判されたということもあったでしょう。福音書には、主イエスが当時の権力者たちを臆することなく批判される姿が記されています。

 

最高法院とそれに属する宗教的な指導者たちは当時、神殿の権威を利用して人々を支配し、人々の財産を搾取していました。本来、すべての人の祈りの家であるべき神殿で、貧しい人々が不当に搾取されているという現状があったようです。またそして、神殿の外で助けを求める人々の存在は顧みられることはない。主イエスはその現状を御覧になり、深く嘆いておられました。福音書の中には「あなたたちは神殿を強盗の巣にしている」という、権力者たちに対する主イエスの痛烈な批判の言葉も記されています(ルカによる福音書1946節)。このような主イエスの言動を受けて、律法学者たちや祭司長たちは主イエスを執拗に攻撃し、主イエスを殺害する計画を立てるようになったのです。

 

本日の「ぶどう園と農夫」のたとえにも、彼らに対する主イエスの批判が込められています(ルカによる福音書20919節)このたとえ話では農夫たちの暴徒化してゆく様子が描かれています。借りているぶどう園を自分たちのものにしようとし、主人が遣わした僕に暴力を働き、殺してしまう。暴走してゆく農夫たちは、実は、暴走している権力者たちを暗に指し示しているものでした。主人から与えられているぶどう畑を私物化する様子は、神から与えられているエルサレム神殿を私物化していることの批判、主人が遣わした僕に暴力を振るう様子は、神が遣わした僕に暴力を振るっていることの批判が込められていたのです。実際、その後、彼らは主イエスを十字架刑によって殺害することとなります。

 

律法学者や祭司長たちは主イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたことを気づき、主イエスに手を下そうとしましたが、民衆の反応を恐れてその場から立ち去ってゆきました19節)

 

 

 

「過ちを過ちとして認めない」姿勢

 

 この場面を読んでも分かりますように、祭司長たちや律法学者たちは主イエスから問題点を指摘されても、一切自分たちの過ちを認めることはありませんでした。むしろ激しく怒り、主イエスをさらに執拗に攻撃してゆくようになってゆきます。「過ちを過ちとして認めない」という当時の権力者たちの姿勢が、やがて主イエスを十字架の死に追いやってゆきます。

 

これはかつて2000年前、パレスチナで起こった出来事であると同時に、私たち自身にも起こり得ること、かたちを変えて日々起こっていることなのではないかと思わされます。

 

私たちには、過ちを指摘されたとき、それを否定しようとする反応が起こることがあります。場合によっては、そのために、相手を攻撃しようとしてしまうこともあります。「過ちを過ちと認めない」姿勢は、神さまと隣人との関係をだんだんと壊して行ってしまうものです。

 

 

 

自分の問題と向き合わないようにするために他者を攻撃すること

 

 私たちは誰かを攻撃したいと思ったとき、立ち止まり、自分の心を見つめ直してみる必要があります。「自分の問題から目を逸らすために他者を攻撃する」ということを私たちはしてしまうものだからです。

 

「あなたが悪い」と誰かを責めているとき、実は、私たちは自分の問題と向き合うことから目を背けてしまっていることがあります。自分自身の課題や問題と向き合わないようにするために、他者を攻撃しているのですね。他者を攻撃している間は、自分の問題に向き合わずに済むからです。そしてその瞬間は、自分こそが「正しい」、自分は「優れた」存在であると感じることができるからです。私たちは日々の生活において、無自覚にそのような言動を行ってしまうことがあります。また、誰かからそのような攻撃を受けてしまうこともあるでしょう。

 

律法学者たちや祭司長たちもそうだったのではないでしょうか。なぜ彼らはあれほどまでに執拗に主イエスを攻撃し続けたのか。主イエスを攻撃している限り、自分たちの問題に向かい合わなくても済むからです。最高法院の腐敗した現状、目の前に山積する様々な問題……主イエスに問題の原因のすべてを押し付けることで、それらの問題から目を背け続けることができるからです。律法学者や祭司長たちのこの姿は、「人を攻撃せずにはいられない」私たちの姿を映し出していると受け止めることもできます。

 

 

 

モラル・ハラスメントについて

 

 このような言動は、他者に対する暴力であると私たちははっきりと自覚することが求められています。肉体的な暴力を行使しなくても、不当に他者を攻撃し続けることは、他者に対する精神的な暴力であり、相手の人権を侵害するものです。

 

「モラル・ハラスメント」という言葉があります。略すると「モラハラ」。「精神的な嫌がらせ」と訳すことのできる言葉です。「自分の問題と向き合わないようにするために他者を攻撃すること」は、モラル・ハラスメントの特徴の一つです。私も最近改めてモラル・ハラスメントについて考えていました。

 

ある本では、モラル・ハラスメントを《自分の心の問題を他者に流し込む手段として行われる攻撃》と説明していました(谷本惠美『モラハラ環境を生きた人たち』、而立書房、2016年、12頁)。実際は自分の心の問題を相手に押し付けているだけなのに、モラル・ハラスメントの加害者は「自分は正しい」「あなたが悪い」と言葉巧みに相手を攻撃してゆきます。何か相手の小さな失敗や弱みを見つけると徹底して攻撃し、そうして被害者に「自分が悪い」と思い込ませてゆくのです。罪悪感を抱かせ、自分では身動きが取れないようにさせ、被害者を加害者のコントーロール下に置いてゆく。被害に遭っている人自身が「自分がモラル・ハラスメントを受けている」と認識しづらいところに、問題の深刻さがあります。モラル・ハラスメントは被害者の心に深い傷を残し、深刻な心身の不調を引き起こし、場合によっては自死に追いやってしまうこともあります。

 

「モラル・ハラスメント」という言葉を初めて提唱したのはフランスの精神科医のマリー=フランス・イルゴイエンヌという方です。その『モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない』(原著1998年)の訳者まえがきでは、モラル・ハラスメントは《「精神的暴力」、あるいは「精神的な虐待」くらいの強い意味を持っている》ものであり、《これは肉体的な暴力や虐待と同じくらいひどいことで、はっきり言えば犯罪である。単に「嫌がらせ」というようななまやさしいものではない》と記されています(高野優訳、紀伊國屋書店、1999年、7頁)。モラル・ハラスメントは「精神的な虐待」であり、決して許容してはならないものです。

 

モラル・ハラスメントの被害に遭っている方々をいかに助け出してゆくかは、いま私たちが考えるべき最も切実な課題の一つです。律法学者や祭司長たちが体現する「自分の問題から目を逸らすために他者を攻撃する」という問題に関連して、モラル・ハラスメントという問題について少しお話しいたしました。

 

 

 

《隅の親石》 ~主イエスを通して与えられている尊厳の光

 

 本日の「ぶどう園と農夫」のたとえ話の最後に、次の主イエスの言葉が記されています。《家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった17節)。これは旧約聖書の詩編11822-23節)の引用です。かつて必要のないものとして捨てられた《石》が、新しく建てられる家の礎(親石)となったという言葉です。

 

教会では伝統的に、この《石》とは、十字架刑によって殺され、そしてよみがえられたイエス・キリストを指し示していると捉えてきました。過ちを過ちとして認めることができない人々から攻撃され、殺された主イエス。しかし、この主イエスが、私たちの世界を新しく創造し直す礎としてよみがえられ、働いてくださることがここで予告されています。

 

かつて必要のないものとして捨てられた《石》――。それを、本日は、主イエスを通して私たちに与えられている「神さまからの尊厳の光」と受け止めたいと思います。捨てられてもなお残るもの。虐待され暴力を受けてもなお失われないもの。主イエスを通して一人ひとりに与えられているこの神さまからの命の光は決して失われることなく、私たちの存在の根底に宿され続けています。どんな執拗な攻撃も、この尊厳を傷つけることはできません。どんな暴力も、この光を私たちから奪うことはできません。この光は命の光として私たちの内によみがえり、輝き出で、私たちの魂を再び立ち上がらせてくださいます。

 

 どうぞいまご一緒にこの《隅の親石》、キリストの光に私たちの心を向けたいと思います。