2019年5月26日「神の国の権威」

2019526日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書7110 

神の国の権威

 

 

ルカによる福音書7110節《イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。/ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。/イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。/長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。/わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」/そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。/ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。/わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」/イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」/使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた

 

 

 

《もはやユダヤ人もギリシア人もなく……》

 

 ここ数日、全国的に真夏のような気候が続いています。花巻も昨日は30度を超える暑さでした。今日も非常に暑い一日になるとのこと、花巻では最高気温33度の真夏日の予想、福島市では37度の猛暑日になると予想されているそうです。5月末であるのに真夏の暑さですね。皆さんも水分をこまめに補給し、どうぞ熱中症には十分にご注意ください。

 

 私たちはいま教会の暦で復活節の中を歩んでいます。421日のイースター礼拝では、洗礼式が執り行われました。

 新約聖書の中には、キリスト教が誕生して間もない頃に洗礼式の中で実際に読み上げられていたとされる言葉が残っています。たとえば、ガラテヤの信徒への手紙3章の中の一節もその一つです。《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤの信徒への手紙328節)

 

  クリスチャンになることを志願する人は、この言葉を告白して、洗礼(バプテスマ)を受けたのと言われています。この信仰告白の言葉において印象的なのは、イエス・キリストに結ばれた者はもはや、民族や国籍からも自由である、と宣言されているところです。また、社会的な身分からも、性別や家庭の役割からも自由である、と宣言されています。

 

この信仰告白の言葉は、当時の人々にとって、非常に新しい、革新的な言葉として響いたことと思います。当時はいまの私たちの社会よりさらに民族間の差別、社会的な身分による差別、女性に対する差別が激しい時代であったからです。多くの人が、それらに囚われ、苦しんでいた。言い換えますと、そういう状況であったからこそ、このメッセージは人々の心を力強く捉えたのではないかと思います。《もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》――教会が伝えるこの使信は、貧困や差別の中で苦しむ人々の心を真っ先に捉え、その希望の光となっていったのではないでしょうか。

 

 

 

ユダヤ人と「異邦人」との間の「壁」

 

 本日の聖書箇所には、百人隊長とその部下が登場します。「百人隊長」とは、イスラエルに配備されていたローマ軍の指揮官のことを言います。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にあり、日常的に大勢のローマ軍が常駐していました。数十人~百人ごとに分けられた部隊を指揮するのが百人隊長の役割でした。本日の物語では、百人隊長の部下が重い病気になり、百人隊長がイエス・キリストに助けを求めるところから始まります。

 

ここで心に留めておいていただきたいのは、百人隊長はローマ人であり、ユダヤ人ではない、という点です。百人隊長はイスラエルに駐留する外国人であった。聖書独特の呼称を用いるなら、「異邦人」でした。

 

軍事力という面においては、確かに、百人隊長は強大な力をもっています。しかしユダヤ人社会における地位は低いものであったと想像されます。当時のユダヤ人社会において、外国人は侮蔑・差別の対象であったからです。日常生活においてもその交流には制限が課されていました。当時のユダヤ人社会においては、外国人の家を訪問することを避けたり、同じ食卓を囲むことを避ける、ということが当たり前になされていました。現代の視点からすると、これは問題のあることだというのはもちろんのことです。ユダヤ人と「異邦人」の間には、目には見えない大きな「壁」があったのです。

 

しかし、本日の物語において、当時としては例外的に、外国人である百人隊長と近隣のユダヤ人たちとの間に親密な交流があったことが記されています。百人隊長に依頼を受けて主イエスのもとにやってきたユダヤ人の長老たちは、熱心に願いました。《あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。/わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです5節)。百人隊長とユダヤ人の長老たちの間には、民族の「壁」を超えた信頼関係が育まれていたことが伺われます。

 

 

 

百人隊長の部下の癒し

 

 ユダヤ人の長老たちの願いを受けて、主イエスは民衆たちと一緒に百人隊長と部下がいる家に向かいました。家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友人を使いにやって、言わせました。《主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。/ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください6節)

 

先ほど、当時の社会において、外国人は不当な差別を受けていた、ということを述べました。当時、ユダヤの人々は、「異邦人」とは交際しない、ましてや家に客として招かれたりはしない、という態度を取っていました。百人隊長はふと冷静になって、そのことを思い出したのでしょうか。主イエスを家にお迎えすることを遠慮する伝言を友人に託したのです。しかし、部下の病を癒してほしい。ではどうしたらいいのか。百人隊長は次のように続きの伝言をしました。《ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください》。

 

百人隊長はこのことの根拠として、日ごろの自分の経験を付け加えました。《わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします》8節)

 

私も部隊において、ある程度の権威をもっている者です。兵隊の一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。「これをしろ」といえば、その通りにします。ましてや、私よりもはるかに権威あるあなたのお言葉なら、その通りになるでしょう――と主イエスに対する全幅の信頼の言葉を伝えたのです。すなわち、あなたが「治る」と言ってくだされば、その言葉の通り、部下は病から癒されるでしょう。

 

主イエスはこの百人隊長の絶大なる信頼に、深く心を動かされました。《言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない9節)。民衆の方を振り向いて、「これほどの信頼はユダヤの人々の中でさえ見出したことがない」と称賛されました。

 

このやり取りの後、使いに行った人々が家に帰ってみると、部下は元気を取り戻していました。部下の病は癒されていたのです。

 

 

 

私たちを隔てる「壁」をいかに取り壊してゆくかという課題

 

 本日は百人隊長の部下が癒された物語をご一緒にお読みしました。重篤な病が主イエスによって癒されるという、いわゆる「奇跡物語」の一つということができるでしょう。と同時に、この物語の背景には、ユダヤ人と「異邦人」の間の「壁」という、当時の社会が抱える問題も関わっています。「壁」を乗り越えることで主イエスとの出会いが生まれ、そして癒しがもたらされてゆくこととなりました。

 

また、百人隊長と部下との関係は、上下関係を超えた、人間的なものであったことが伺われます。《部下》と訳されている語は《奴隷》と訳した方がより正確であるという指摘もあります。その場合、社会的な身分の差はさらに大きな二人であったということになるでしょう。しかし、そのような身分の差という「壁」を超えた信頼関係が二人の間にはあったようです。本日の物語は、登場人物たちが目の前に立ちはだかる「壁」を乗り越え、主イエスに一つに結ばれてゆくことで、癒しがもたらされていった物語でもあるのです。

 

私たちが生きるいまの社会においても、目には見えない「壁」はやはり存在しています。アメリカのトランプ大統領がちょうど昨日から来日しています。皆さんもよくご存知のように、トランプ氏が推進しているのは、むしろ国と国との間に「壁」を作るという政策です。自分たちを利益を守るために、むしろ積極的に周囲に「壁」を作る――そのような価値判断が力をもち、支持されている現状があります。そのような状況の中にあって、私たちはいかにしたら私たちを隔てる「壁」を取り壊してゆくことができるか、そのことが問われています。

 

私たちの社会に存在する「壁」を私たちが少しずつ打ち壊してゆくことを通して、癒される痛みがあるのだということを、本日の物語を通して改めて思わされました。

 

 

 

互いに神の目に大切な「一人の人間」として

 

改めて、冒頭でご紹介したガラテヤの信徒への手紙328節をお読みしたいと思います。《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》。

 

イエス・キリストが権威をもって治めておられるこの場――聖書はこの場を「神の国」と呼んでいます――には、もはやユダヤ人と異邦人という区別はない。奴隷も自由な身分の者もなく、男性と女性もないのだ、とこの信仰告白の言葉は述べています。イエス・キリストが支配されているこの場においては、人と人とを分け隔てる「壁」はすでに取り壊されています。

 

では、どのような視点が大切となるのか。それは、「一人の人間」という視点であるでしょう。民族でもなく職業でもなく性別でもなく、あらゆるレッテル貼りを超えて、「一人の人間」として互いの存在を受けとめあい、重んじあうことが、いま私たちに求められているのだと思います。

 

主イエスは、私たちを「一人の人間」として受け入れてくださっている方です。主イエスはあなたを国籍や出自で判断せず、年齢、職業でも判断せず、性別やセクシュアリティでも判断されません。ただ、あなたを、あなたそのものとして、受けとめ、重んじてくださっています。主イエスはわたしたち一人ひとりを「かけがえのない=替わりがきかない」存在として愛してくださっている方です。

 

どうぞ私たちが互いを神の目に大切な「一人の人間」として重んじあってゆくことができますように、そしてそのことを通して私たちの生きるこの社会に癒しがもたらされてゆきますように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。