2019年5月5日「復活の主との出会い」

201955日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書243643

復活の主との出会い

 

 

ルカによる福音書243643節《こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。/彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。/そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。/わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」/こう言って、イエスは手と足をお見せになった。/彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。/そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、/イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた

 

 

 

不思議な教理 ~「身体のよみがえり」

 

10連休も明日で終わり……皆さんはゴールデンウィークはいかがお過ごしだったでしょうか。桜は散ってしましたが、春らしい、気持ちの良い天気が続いています。あたたかな陽気の中、外に出かけると、心と体がホッとしますね。

 

私たちは421日にイースター礼拝をおささげしました。イースターはご存知のように、イエス・キリストの復活を記念する日です。本日は復活節第3主日礼拝をおささげしています。

 

キリスト教の教えの中に、「身体(からだ)のよみがえり」という不思議な考え方があります。礼拝の中でごいっしょにお読みする使徒信条という告白でも、最後のところで「身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず」という文言が出てきます。イエス・キリストの復活の命に結ばれた私たち一人ひとりもまた、終わりの日に復活することを指し示す言葉です。

 

 ここで不思議に思われることは、なぜ「身体(からだ)」という言葉が出てくるのか、ということですね。死んでしまったら私たちの「身体」は消えてしまうはずなのに、なぜだろうと思われる方もいらっしゃることでしょう。

 

 ここに、聖書のメッセージの特徴があります。というのも、聖書は、私たち人間存在において、心と体は切り離せないものとして捉えているのです。心も体も魂も合わさって、「私」という一人の人間となる。この捉え方の背後には、目に見えない心や魂だけではなく、目に見える私たちの体もまた神さまが創ってくださった「かけがえのないもの」なのだ、という考え方があるように思います。

 

このように、聖書は目に見えるもの、耳で聴くことができるもの、手で触れることができるもの――私たちのこの体やこの世界のさまざまな物質を、なくてはならない大切なものとして捉えています。先ほどお読みした復活したイエス・キリストの出会いの場面においても、主イエスが体をもたない幽霊ないのような存在ではなく、体をもった確かな存在として描かれていました。《彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。/そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。/わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」/こう言って、イエスは手と足をお見せになった(ルカによる福音書243643節)

 

 

 

心も体も魂もあわさって、その人自身

 

これは私たちの普段の感覚からしても、実感できることなのではないでしょうか。私たちは愛する人の目には見えない内面を愛しています。と同時に、その人の笑顔や、声、外面もまた、大切に思っています。愛する人のことを思い浮かべるとき、自然とその人の顔や声色、面影を想い起こすことでしょう。心も体も魂も、それら全部が合わさって、いとおしいその人の存在を創り出しています。

 

花巻ともゆかりの深い詩人・彫刻家の高村光太郎さんが、亡くなった妻・智恵子さんとの愛を謳った詩集『知恵子抄』に収められた詩「裸形」に次のような言葉があります。《智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。/つつましくて満ちてゐて/星宿のやうに森厳で/山脈のやうに波うつて/いつでもうすいミストがかかり、/その造型の瑪瑙質に/底の知れないつやがあつた。/智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで/わたしは意味ふかくおぼえていて、/今も記憶の歳月にみがかれた/その全存在が明滅する》(新潮文庫、1967年、114頁)

 

高村光太郎さんは、智恵子さんの背中の小さな黒子まで、意味深く記憶していたようです。その小さな黒子が、その体の位置に在るということ。その小さなしるしも、高村光太郎さんにとっては「智恵子さんが智恵子さんであること」の、かけがえのない証しであったのでしょう。

 

そのように、その人がその人であるためには、心も体も魂も、切り離すことはできません。それらすべてが合わさって、かけがえのない、その人らしさを形づくっています。もちろん、私たちの体は刻々と変化し、そしていつかは消え失せるものです。しかし、体を通して伝えられたその人らしさ、「その人がその人であること」の確かさは失われず、私たちの記憶に刻印され続けます。

 

キリスト教は「身体のよみがえり」ということを大切にしてきた、ということを先ほど述べました。体もその人の「かけがえのなさ」を形づくっているのであるから、終わりの日に魂だけではなく体もまた復活する、という考えが大切にされ続けてきたのではないかと受け止めています。

 

 

 

「もし天国で君と会ったなら…」

 

 終わりの日の復活に体もまたよみがえる――とりあえず、そのようになると仮定するとして、今度は、では「どのように復活するのか」という素朴な疑問が私たちの内にわき上がってくることでしょう。私たちは、どんな体で復活するのか。自分が一番若々しかったときの体で復活するのか、もしくは晩年の体で復活するのか。できれば若々しい体がよい(!?)と思う方もいらっしゃるかもしれません。もしくは現在の姿とは異なる、天使のような姿で復活するのでしょうか。

 

 キリスト教の歴史においても長らく、このことが議論になってきました。しかし、聖書の中にはっきりとその説明が書いているわけではありません。先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙一においても、象徴的なイメージで語られるにとどまっています。《わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。/最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます(コリントの信徒への手紙一155152節)

 

 またそして、私たちが知りたく思うのは、神さまのもとに召された愛する人々とまた再会できるのであろうか、ということです。再会できると信じているとしても、いざ再会した時、私たちは互いに互いが分かるのであろうか。聖書が語るように、私たちが《今とは異なる状態》に変えられるのであれば、いとおしく思っていたその人の面影はもはや失われてしまっているのではないか、とふと不安を覚える人もいらっしゃるかもしれません。

 

 この聖書の言葉を読むとき、思い起こす歌があります。エリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘブン(天国の涙)』という曲です。愛する息子を、幼くして不慮の事故で亡くしたクラプトンが、その悲嘆の中で記した歌詞がもととなっていると言われています。歌の歌詞は次のように始まります。

Would you know my nameIf I saw you in heaven

Would it(you) be the sameIf I saw you in heaven

I must be strongAnd carry on

'Cause I know I don't belongHere in heaven

(もし天国で君と会ったなら、僕の名前を覚えていてくれるかい。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるかい。僕は強くならなくては、そして生き続けていかなければ。だって僕は、この天国にいるような人間ではないから……)》

 

天国で息子と再会した時、彼は自分を覚えていてくれるだろうか。以前と同じ姿で、同じ関係でいてくれるのだろうか……。誰しもがふと感じ得る根源的な疑問を言葉にしてくれている歌詞であると思います。これらの言葉から、天国にいる愛する息子が自分からどんどん遠い存在となってしまうのではないか、というクラプトン氏の悲しみや不安が伝わってきます。この歌のタイトルは『ティアーズ・イン・ヘブン(天国の涙)』ですが、どれほどの涙と共に、クラプトン氏はこの詞を書いたのであろうか、と思います。同時に、その深い悲しみの中で、地上に遺された自分は、しかし、しっかりと生き続けねばならないとの決意も歌われています。

 

 

 

復活の命に中に抱かれて ~「私が私であること」は失われない

 

「もし天国で君と会ったなら、僕の名前を覚えていてくれるかい。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるかい」……聖書にもこの問いに対するはっきりとした答えが記されているわけではありません。私たちにとってそれは、いまだ謎であり続けています。当然のことでありますが、いま生きている人の中で、死を実際に経験した者はいないからです。

 

けれども、「その人がその人であること」は、決して失われることはない。死をもっても、そのしるしは消え去ることはない――その希望は私たちに与えられている、ということはできるのではないでしょうか。その希望を端的に表わしている言葉が、「身体のよみがえり」という言葉です。

 

この「身体」という言葉の中には、愛する人の笑顔、声、手のあたたかさ、この世界でその人と過ごした大切な記憶、それらすべてが込められているのだと思います。私たちにとってかけがえなく大切なそれら部分は、消え去ってしまうのではない。終わりの日に、それらのすべてが、神さまのもとへ抱きとめられる。神さまの永遠の命の中に抱き入れられ、永遠に記憶される、本日はそのようにご一緒に受けとめたいと思います。

 

先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙一では、このことが《この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る》と表現されています(コリントの信徒への手紙一1554節)。朽ちるべきものとは、私たちの身体です。私たちの体はいつかは消え去ります。その意味で、はかないものでもあります。対して、朽ちないものとは、永遠の命であられるイエス・キリストの体です。私たちの体ははかないものであっても、イエス・キリストの体はそうではない、と聖書は力強く語ります。朽ちることのないキリストの体が、終わりに日に、私たち一人ひとりの心と体と魂を抱きとめてくださるでしょう。

 

キリストの復活の命に抱かれる中で、「私が私であること」のかけがえのなさは、失われることなく守られてゆくのだと信じています。終わりの日に、キリストの命の中に抱かれる中で、私たちはまた再び、いとおしい面影を見出すことができるでしょう。聖書は、その希望を私たちに約束してくれています。