2019年8月18日「人を大切にするための道」

2019818日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙12921 

人を大切にするための道

  

 

ローマの信徒への手紙12921節《愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、/兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。/怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。/希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。/聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。/あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。/互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。/だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。/できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。/愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。/「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」/悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい

 

(ホームページに掲載するにあたって、内容を一部省略しています)

 

 

隣人愛

 

「隣人愛」という言葉があります。聖書に由来する言葉の一つで、私たちの社会にも定着している言葉です。イエス・キリストの教えの根底にあるものが、この隣人愛に関する教えであるということができるでしょう。

 

 隣人愛という言葉は具体的には聖書の《隣人を自分のように愛しなさい》という教えに由来しています。旧約聖書のレビ記1918節)に記されている言葉です。イエス・キリストも最も重要な掟として、「神を愛する」教えと共に、この「隣人を愛する」教えを取り上げられました。

 

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』/これが最も重要な第一の掟である。/第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』/律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書223740節)

 

 

 

隣人を「自分と同じ一人の人間として」大切にすること

 

隣人を自分のように愛しなさい》――旧約聖書の原文を見てみますと、「自分のように」と訳されている部分は、英語でいうと「like(~のように)」とも、「as(~として)」とも捉えることのできる言葉です。「自分自身のように」と訳しても、「自分自身として」と訳しても、どちらも可能であるわけですね。本日はこの部分を、後者の「自分自身として(=as)」の意味に受け取ってみたいと思います。この教えは元来、隣人を「自分と同じ人間として」尊重することを教える掟であると考えるからです。この教えを私なりに言い直してみますと、「隣人を、自分と同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。

 

最後の部分を「愛する」ではなく、「大切にする」としたのは、ここでは「好き」「嫌い」という心の中の感情というよりも、相手を尊重するという具体的な姿勢が問われていると考えるからです。別にいまは相手のことが好きになれなくてもいい。私たちは心の中にある感情自体は、無理やり変えることはできません。好きになれない相手を無理に「好きになろう」と自分に強制することは不可能なことでしょう。しかし、その相手を同じ一人の人間として尊重してゆくことはできるのではないでしょうか。

 

たとえいまは相手のことを好きになれなくても、それでも、相手を自分と同じ一人の人間として尊重すること、敬意をもって接すること。少なくとも、相手を不平等に扱ったり、相手の人格を攻撃したり、相手の尊厳を傷つけようとするということはしない。そのことを私たちに教え続けてくれているのが、この隣人愛の教えであると受け止めています。

 

 

 

隣人愛の精神 ~好き嫌い、立場や考え方の違いを超えて

 

ですので、この隣人愛の教えは自分が「好き」な人、好感を抱いている人だけに適応されるものではない、ということが分かります。自分が感情的には好きではない人にも、変わらずこの教えを実行することが求められています。たとえ自分が感情的には好きではなくても、いま目の前にいる人を、分け隔てなく、自分と同じ一人の人間として、尊重することが重要であるのですね。

 

またこの教えは、普段から親しい間柄の人に対してだけではなく、いま初めて会った人、まだ直接会ったことのない人にも同じように実行されるべきものです。たとえ初対面の人であっても、まだ会ったことがない人であっても、自分と同じ一人の人間であることに変わりはないからです。面識がないから、別に親しい間柄ではないから、冷たくしてもよい、ということにはなりません。

 

自分の好き嫌い、立場や考え方の違いを超えて、相手を自分と同じ一人の人間として尊重することが、イエス・キリストが伝えてくださっている隣人愛の精神です。

 

 

 

隣人愛の精神が見失われつつある現状

 

 このことを踏まえますとき、いまの私たちの社会においては、隣人愛の精神がどんどんと見失われつつある、と言えるのではないでしょうか。自分が好感を持っている人、親しい間柄の人には親切にするけれども、自分が好きではない人や意見が合わない人、また面識のない人にはとたんに冷淡になる。人が変わったように冷たくなる。そういう言動が増えてきてしまっているのではないでしょうか。元々私たち日本の社会は身内には優しいけれどその枠組みの外の人には途端に冷たくなるという傾向があったかと思いますが、近年、その傾向がより顕著になってきているように思います。

 

 先ほど申しましたように、人に対する「好き」「嫌い」が生じてしまうことは仕方がないことです。誰しも、「苦手だなあ」と感じる人、できれば距離を取りたい人がいることでしょう。また、相手の意見が自分と全然違い、思わずカッと腹が立ってしまうこともあるでしょう。見ず知らずの人に対して、何の親しみの感情が湧いてこない、ということももちろんあるでしょう。それは私たちが生きてゆく上で当然の反応であり、その感情自体は特に否定するべきものではありません。

 

 隣人愛の教えが私たちに訴えているのは、たとえ感情的に相手のことを快く思っていなくても、それでも、同じ一人の人間として尊重する、ということです。少なくとも、自分の気分によってその人を他の人と区別し、軽んじたり冷たくあしらったりすることは、決してしないこと。

 

 自分が相手のことが「好きじゃない」だからといって、その相手をいじめたり、ハラスメントを行ってよいことにはもちろんなりません。また、自分と立場や意見が違うからといって、その相手を不当に攻撃したり、軽んじてもよいことにはなりません。この当たり前といえば当たり前のことが、近年、私たちの社会では見失われつつあるのではないでしょうか。自分が一度「嫌い」と判断した相手、「駄目だ」とみなした相手、「敵認定」した相手にはとことん冷たくしてもよい、非人間的に扱ってもよい、そのような感覚が私たちの心のどこかに住み着いてしまってはいないでしょうか。

 

 相手が「自分と同じ一人の人間」であるということは、相手が自分と同じように人格をもち、自分と同じように日々悩み喜びながら懸命に生きているということです。自分と同じように、感情をもっているということです。誰かから軽んじられたら悲しいし、攻撃されたら苦しい、辛いことがあったら、心が痛む。これは人が生きてゆく上で、当然のことですよね。でも私たちは時に、この当たり前の感覚、他者の痛みに対する感受性がまどろんでしまうことがあるのです。この感受性がまどろんでしまっているとき、私たちは他者に対してとんでもなく非人間的な言動を取ってしまうことがあります。

 

隣り人を、「同じ一人の人間として」愛するために大切なこと。それは、「その人の痛みを理解しようとすること」であると思います。私たちの社会はいま、他者の痛みへの想像力、感受性を失いつつある危機的な状況にあります。ある人は、「私たちはいま隣人愛の危機に直面している」と述べていました。隣人愛の精神が見失われつつあるのは日本だけではなく、世界的な現象でもあります。私たちはいま隣人愛の精神を改めて思い起こすことが喫緊に求められているのではないでしょうか。

 

 

 

隣人愛の精神に基づいて

 

 本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙12921節には日々の生活における指針が記されていました。これらの教えもやはり、隣人愛の精神に基づいて語られているということができるでしょう。

 

「互いを大切にし、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思うべきこと」10節)、「旅人をもてなすよう努めるべきこと」13節)、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くべきこと」15節)など。これらの教えには、相手によって人を分け隔てする、という要素が一切見られません。相手がどのような人であっても、同じように「自分と同じ一人の人間」として大切にする、一貫した姿勢が認められます。

 

また、15節の《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》という教えに代表されるように、他者の痛みへの感受性が人間関係の土台とされていることが分かります。

 

 

どうぞ私たちが互いを同じ一人の人間として受け止めあってゆくことができますよう、私たちの間にまことの平和を実現してゆくことができますよう、神さまからの知恵と導きが与えられますよう祈りましょう。