2019年9月29日「キリストの平和が」

2019929日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:コロサイの信徒への手紙31217

キリストの平和が

 

 

コロサイの信徒への手紙31217節《あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。/互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。/これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。/また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。/キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。/そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい

 

 

 

愛はすべてを完全に結ぶ「帯」

 

いまお読みしました聖書の言葉の中に、印象的な言葉が出てきました。新約聖書コロサイの信徒への手紙314節《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。

愛はすべてを完成させるきずな――印象的な言葉ですね。愛唱聖句(大切にしている聖書の言葉)にしている方もいらっしゃることでしょう。

 

新しく出版された聖書協会共同訳では、《さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です》と翻訳されていました。「きずな」と訳すか、「帯」と訳すかで、また少しイメージが違ってきますね。

 

この14節の前の部分では、怒りや憤りや悪意、そしりに基づいた言動を「脱ぎ捨て」、憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容さを「身に着ける」べきことがすすめられています。衣服のイメージで語られているのですね。そのイメージを踏まえると、聖書協会共同訳の「帯」という翻訳もまたふさわしいものであることが分かります。

 

憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容などの徳目を身に着けるべきことは大切ですが、愛がないと、それらの徳目は本当には身に着かない。それはまるで「帯」がない着物のように、私たちの体からずり落ちてしまう。愛こそはこれらの徳目を私たちにしっかりと結び付け、そのすべてを完全に結ぶ「帯」または「きずな」であることが語られています。

 

 

 

聖書が語る神の愛

 

 聖書が「愛」という言葉を使うとき、それはまず第一の意味として、「神の愛」を指します。私たちから生じる愛というより、神から生じている愛を指します。だからこそ、他の徳目よりも根本的なものとして、愛が位置づけられているのですね。憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容などの大切な徳目はみな、この愛から生まれ出ているものだということもできます。

 

 聖書は言葉を尽くして神の愛について私たちに語っています。神について語る言葉は聖書の中にたくさんありますが、その中でも、神の愛について最も美しく、かつ直截的に語ってくれていると思う言葉があります。旧約聖書のイザヤ書の中の一節です。

 

 イザヤ書434節《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》。

 

旧約聖書の主人公であるイスラエル民族に対して、神ご自身が語ったものとして記録されている言葉です。イスラエル民族に語った言葉ではありますが、これはいま、私たち一人ひとりに語りかけられている言葉として受けとめたいと思います。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」と。

 

 新しい聖書協会共同訳では《あなたは私の目に貴く、重んじられる。/わたしはあなたを愛するゆえに/人をあなたの代わりに/諸国の民をあなたの命の代わりに与える》と訳されています。私たちがいま礼拝で使用している新共同訳が「貴い」と訳している部分が「重んじられる」と訳されているわけですが、これも、原文のニュアンスを生かした素晴らしい訳であると思います。ここで用いられている語は「貴ばれる」とも「重んじられる」とも訳すことのできる語であるからです。

 

本日は後者のニュアンスを重視して、このイザヤ書434節を「わたしの目にあなたは価高い存在、大切に、重んじられている存在」という意味でご一緒に受けとめてみたいと思います。「重んじられる」という表現を使うことによって、聖書が語る神の愛をより理解し、実感できるようになるのではないかと考えるからです。すなわち、聖書が語る愛とは、言い換えると、相手の存在を極みまで「重んじる」ということなのではないでしょうか。

 

 

 

神はその独り子をお与えになるほどに

 

 聖書は、神が私たちを極みまで愛してくださっていることを語ります。私たちを愛するゆえ、独り子であるイエス・キリストを私たちに与えてくださったことを語ります。それは言い換えますと、神はそれほどまでに私たちを重んじてくださっているということです。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(新約聖書 ヨハネによる福音書316節)

 

 先ほどのイザヤ書でも、神が、「国々をあなたの代わりとする」というスケールの大きな表現が出てきました。それも、神さまがそれほどまでに、私たちの存在を重んじてくださっていることを示しているものでありましょう。神さまは世界中の国々を代わりとして与えてもよいほどまでに、あなたを重んじておられる。神さまはその独り子をお与えになるほどに、私たち一人ひとりを愛している=重んじてくださっている。聖書はそのことを私たちに伝えています。

 

 

 

重んじられることの喜び、軽んじられることの悲しみ

 

 このことは、私たちの普段の感覚でも、実感できることなのではないでしょうか。私たちは人からから重んじられていると感じることができたとき、とても嬉しく思うものです。とても嬉しく、誇らしい気持ちも湧いてくるものです。たとえ互いに軽口を叩いていたとしても、相手が自分を人格をもった大切な存在として重んじてくれていることが分かるとき、私たちはその人を自分の友であると感じます。この喜びは、あらゆる相違を超えて、私たち人間に共通の感情であると思います。

 

「重んじる」と反対語は、「軽んじる」ということですよね。一方で、反対に、私たちは人から軽んじられていると感じるとき、とても悲しく思います。侮辱されたように感じ、自尊心が深く傷つけられます。自分を軽んじてくる相手とは、私たちは友情を結ぶことは難しいものです。「軽んじられている」という表現は、少し強い言葉で言いかえれば、「なめられている」と表現することもできるでしょう。人から軽んじられる、なめられる、馬鹿にされ見下されることの悲しみも、あらゆる相違を超えて、私たち人間に共通の感情であるでしょう。

 

 ヘブライ語の「軽んじる」という語には「呪う」という意味もあるそうです。他者を軽んじるという行為は、それほどまでに相手に深刻な影響を与えるものである。相手の存在の内に呪いを植え付けるものである。だから、他者を軽んじる言動は決してしてはならない、そのような古代イスラエルの人々の認識が示されているように思います。

 

 一方で、私たちのいまの社会はどうでしょうか。他者を軽んじることがどれほど深刻な影響を与えるものであるか、しっかりと認識されているでしょうか。残念ながら、その認識はどんどんと希薄になっていると言わざるを得ません。いまの私たちの社会は、互いに「軽んじ、軽んじられる」ことがむしろ当たり前になってしまっている現状があるように思います。そのような中で、私たち自身、自分や他者の存在が軽んじられることの痛みに無感覚になってしまっている部分があるかもしれません。

 

 

 

キリストの平和が

 

 メッセージの冒頭で、コロサイの信徒への手紙の「愛はすべてを完全に結ぶ『帯』」であるという言葉をお読みしました。憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容さなどの徳目も、愛がなければ、本当には身に着かない。すなわち、相手の存在を重んじる姿勢がなければ、それらの徳目も上辺だけの、表面的なものにとどまってしまうということでありましょう。相手の存在を重んじる心があるからこそ、そこからまことの憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容さなども生じてくるのではないでしょうか。

 

 コロサイの信徒への手紙は続けて、このように読者に語りかけています。315節《また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです》。

 

「キリストの平和」という言葉が出てきました。このキリストの平和は、私たちが互いを「重んじる」ことから与えられる平和ということができるのではないでしょうか。私たちが互いに互いを「軽んじる」連鎖を断ち切ることから生まれてくる平和です。コロサイの信徒への手紙の著者は、このキリストの平和が私たちの心を支配するようにしなさい、と伝えます。この平和にあずからせるために、私たちは招かれて、一つの体とされているのだ、と。

 

 

 

互いに互いを「軽んじる」ことの連鎖を断ち切る

 

 他者から軽んじられ、傷つけられ続ける中で、私たちの内には激しい怒り、復讐心が生じます。それは当然のことでありましょう。自分を軽んじた相手を軽んじてやりたい、同じように傷つけてやりたい。自分の存在をないがしろにし、否定した相手に、復讐してやりたい。そのような心情が生じるのは人間として自然なことです。または、別の誰かにその怒りの矛先を向け、軽んじ、傷つけるということをしてやりたい、と思うこともあるでしょう。場合によっては、社会全体にその怒りの矛先を向け、実際、無差別に人を傷つけてしまう、という痛ましい事件も至るところで起こっています。

 

 聖書は、私たちの内にある怒りや復讐心自体を否定はしていません。そのような感情が生じるのは人間として当然だからです。その怒りは、それほど自分は深い傷を負ってきたのだということの証しでもあります。私たちはその自分の内にある感情をありのままに受けとめつつ、しかしその怒りにまかせて行動してしまうのか、それとも、別の道を歩むのか、それが問われています。自分が人から軽んじられた分、自分も同じように人を軽んじる方向へと向かっていこうとするのか、それとも、自分は人から軽んじられたけれど、その痛みをこれ以上人に負わせることはしまいとし、別の道へ進もうとするか。どの一歩を踏み出すのかはいま、私たち一人ひとりに委ねられています。

 

 イエス・キリストが私たちに願っておられるのは、平和への道――互いに互いを「軽んじる」ことの連鎖を断ち切る道です。この呪いの連鎖を断ち切る道へ、私たちが一歩を踏み出す決意をすることを、主は私たちに願っておられます。

 

たとえ誰かが自分を軽んじ傷つけてきても、怒りと復讐心に駆られて同じように相手を軽んじ傷つけようとはしない。また、別の誰かにその怒りの矛先を向け、相手を軽んじ傷つけることはしない。これもまた、他者を「重んじる」姿勢の一つであるでしょう。その姿勢を祈り求めてゆくとき、私たちは互いに互いを「軽んじる」呪いの連鎖を断ち切る一歩を、すでに踏み出していることになります。その一歩一歩の積み重ねが、私たちの間にまことの平和を作り出してゆくのだと信じています。

 

 

 

神はあなたの存在を極みまで重んじてくださっている方

 

もしもその旅路に疲れたら……。イエス・キリストを通していま語られている、神さまの言葉を思い起こしましょう。「わたしの目にあなたは価高い存在、大切に、重んじられている存在」――。

 

神さまはあなたの存在を極みまで重んじてくださっている方です。神さまはその独り子をお与えになるほどに、キリストはその命をお与えになるほどに、あなたの存在をかけがえのないものとして、重んじてくださっています。この神さまの愛から、どんなものも私たちを離すことはできません。この神さまの愛は、いつも私たちと共にあります。

愛と平和の道を、ご一緒に一歩一歩、歩んでゆきたいと願います。