2020年10月11日「地上の住みか、天にある住みか」

20201011日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二5110

地上の住みか、天にある住みか

 

 

コリントの信徒への手紙二5110節《わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。/わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。/それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。/この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。/わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。/それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。/目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。/わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。/だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。/なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです

 

 

 

《私たちの本国は天にあります》

 

皆さんの中で、海外で生活をしたことがある方はいらっしゃるでしょうか。私はそのような経験はないので推測するだけしかできませんが、母国を離れて生活をすることは、私たちにとってとても大きな経験であることと思います。

外国にいるともちろん、自分自身が外国人であることになります。自分が外国人であるとの感覚。これも、母国にいるときにはまったく感じることのない、独特な感覚でありましょう。

また、国という単位だけでなく、私たちはそれぞれ自分の故郷をもっています。たとえばたとえ同じ日本であっても東北出身の方が関西に移住すれば、どこか自分が「外国人」であるような感覚になることもある(?)かもしれません。

 

 聖書には《わたしたちの本国は天にあります(フィリピの信徒への手紙320節)という言葉があります。私たちはそれぞれ地上の母国や郷土をもっていますが、まことの本国は「天にある」との考え方です。

 この地上ではなく、地上を超えた天を私たちのまことの故郷とする視点は、聖書のみならず、さまざまな宗教に見出されるものです。何か地上を超えた場所、「ここではないどこか」に、私たちの魂の故郷がある、との視点ですね。そうすると、私たちがいま生きているこの世界はどこに行っても、私たちにとって「異国(外国)」であることになります。

 

 

 

天に「帰る」ことを重視しすぎることの危険性

 

 時に、私たちは強い郷愁に駆られてしまうことがあります。たとえば海外で生活しているとして、一度「母国に帰りたい」気持ちにとらわれてしまえば、なかなか日常の生活や仕事に身が入らなくなってしまうこともあるかもしれません。

 もしこれが、宗教的な事柄において起こってしまったらどうでしょうか。まことの本国である「天に帰りたい」という郷愁にとらわれてしまったら……。実際に、私たち人間の歴史において、魂の故郷へ「戻る」ことをその第一目標とする宗教的な思想も、繰り返し登場しました。

 

この地上の生活においては辛いこと、悲しいこと、苦しいことが無数にあります。そのような中、「天の国は素晴らしいところだ」と教えられたら、「早くそこへ行きたい」と思ってしまうのは当然の心情であるのかもしれません。

私たち人間には魂の故郷があるとの考え自体には何ら問題はありませんが、しかし、天に「帰る」ことを重視しすぎると、この地上の生活が軽んじられて行ってしまう危険性があります。天の国に帰ることを第一の目標にしてしまうと、この地上での営みや人との関係が「しがらみ」とみなされ、軽んじられてしまう危険性があるのです。

 

 

 

天の国が「来る」ように

 

 先ほど《わたしたちの本国は天にあります》という言葉を紹介しました。聖書もこの地上を超えたまことの故郷があるとの考え方をもっています。その点は、他のさまざまな宗教的な思想とも共通しているでしょう。

一方で、聖書が独特なのは、私たちが天の国に「行く」のではなく、天の国が「来る」と捉えている点です。この地上の世界から私たちが解放されて天の国に「行く」のではなく、神が創造されたこの地上に天の国が「来る」ことを待ち望む――これが、聖書において提示されている視点です。

 

《わたしたちの本国は天にあります》との御言葉には続きがあります。《わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています》。やはり、終わりの日にイエス・キリストが再び私たちのもとに「来る」ことが述べられていますね。

 

 この聖書の視点に基づくと、いま生きているこの世界が、あくまで私たちの「現場」であることとなります。本日のコリントの信徒への手紙二5110節の御言葉も、このような世界の見方に基づいているものとして読むと理解がしやすくなるのではないかと思います。

 

 

 

自分がいまいるこの場所で

 

改めて1節をお読みいたします。コリントの信徒への手紙二51節《わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです》。

手紙の著者であるパウロはまず、私たちには天に永遠の住みかがあることを1節で語っています。一時的な住まいである《幕屋》(テント)は消え去っても、決して消え去らない《建物》が天にある。ここまでは、キリスト教以外の諸宗教にも共通している視点でしょう。独特な視点が加わるのは、次の節からの言葉です。2節《わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています》。

天から与えられる住みかを《上に着たい》とパウロは述べています。地上の世界から私たちが解放されて天の国に「行く」のではなく、この地上に天の国が「来る」ことを待ち望む視点が表されています。天の国が到来することを、パウロは天の住みかを「上に着る」と表現しているのですね。

 

4節の言葉はそれをさらに具体的に言い直しています。《この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に呑み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです》。

 この言葉にもありますように、パウロはあくまで私たちの現場は、いま生きているこの世界であると捉えていたことが分かります。

 いつか神の国が地上に訪れ、この体をキリストの命が包む時まで、私たちはそれぞれ自分がいまいる場所で、この体を通して、できることを精一杯するのだ――パウロはそのように受け止めていたのでしょう。

 

 

 

しがらみや重荷を投げ捨てたいという気持ち

 

 一方で、パウロは意外にも思える言葉を書き記しています。8節《……そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます》。パウロはここで、この地上を離れて、天におられる主のもとに行くことをむしろ望んでいると語っています。

 これらの言葉に、私たちはパウロという人の、もう一つの側面を見るようです。パウロは必ずしも、元気いっぱいにこの地上での自分の使命にまい進している訳ではなかったのです。その胸の内側は、悩みや苦しみ、そして神さまのもとに行くことへの切なる想いで満ちていた。できることなら、神さまがおられる天の国に早く行きたい。しかし自分にはやるべきことがあるので、この地上にとどまっている……という感覚でしょうか。

 

 使徒言行録やパウロの手紙には、彼が何度も死の危機に直面したり、迫害を受けたり、人々から誹謗中傷をされたりしたことが書かれています。パウロ自身、困難の中で、何度も自問自答した瞬間があったかもしれません。これほど辛いこと、苦しいこと、悲しいことがある中で、なぜ、それでもなお私は生きてゆかねばならないのか……? いっそ、神さまの元へ早く行きたい。この地上でのしがらみや重荷を全て投げ捨てて、楽になりたい……。私たちは時に、このような心境になることがありますが、それはパウロもまた同様であったのではないでしょうか。

 

 そのように時に打ちひしがれつつも、しかしパウロはそれでもなお、この地上でのつとめを果たそうとし続けました。パウロを「生きる」ことへとつなぎとめていたものは何だったのでしょうか。

 

 

 

愛の絆 ~私たちを「生きる」ことへつなぎとめるもの

 

 その答えは、ひとつだけではないと思います。様々な事柄が合わさって、パウロをこの地上へ、「生きる」ことへとつなぎとめていたのでしょう。

パウロが遺した手紙から私が感じることは、大切な人々との関わりが、パウロを「生きる」ことへとつなぎとめていたのではないか、ということです。パウロがイエス・キリストを伝える中で出会った、教会の人々との関わりです。

 

他者との関係性は、時に私たちを縛るもの――「しがらみ」として表現されることもあります。人との関わりがなければ、私たちは誰かから傷つけられることもないし、その関係性において悩んだり悲しんだりすることもありません。

しがらみは元来、川の流れをせきとめるため、水の中にくいを立て、それに木の枝や竹などを横向きに結び付けたもののことを言います。このイメージから、私たちを引きとめ、束縛するものを表す言葉として、どちらかというとネガティブな意味をもって使用されるようになりました。人間関係は私たちにとって、確かに、時にしがらみとなり重荷になるものかもしれません。

 けれども一方で、他者との関わりがあるからこそ、私たちは生きることの喜びを感じることができることも知っています。人と関わる中でともされるあたたかさが、私たちの心にまことの喜びと安らぎをもたらしてくれます。

 

 近しい人々との関わりは私たちにとって、時にめんどうなしがらみのように感じることがあるかもしれません。しかしそれは確かにそこに実体があり、重みがあるからこそでありましょう。この実体をもった、重みのある関係性は、「絆」と言い換えることもできると思います。この絆が、まるで船をつなぎとめる「もやい綱」のようにして、パウロを「生きる」ことへとつなぎとめていたのではないでしょうか。そしてそれは、私たちにおいても同様です。大切な人々との重みのある関係性が、私たちを今日も、「生きる」ことへとつなぎとめてくれています。

 

 この絆の土台になるもの、それは、愛に外なりません。神さまからの愛と、大切な人々からの愛。この愛とその絆がもやい綱のようにして、今日もこの私をこの地上へと、「生きる」ことへつなぎとめてくれているのだと信じています。本日は今一度、ごいっしょにこの愛の絆の存在を思い起こしたいと思います。

 

 最後にコロサイの信徒への手紙の御言葉をお読みいたします。《これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです(コロサイの信徒への手紙314節)