2020年10月25日「天地を創られた主」

20201025日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:箴言81節、2231

天地を創られた主

 

 

箴言81節、2231節《知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。/… 主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。/永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。/わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。/山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。/大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった。/わたしはそこにいた/主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき/主が上から雲に力をもたせ/深淵の源に勢いを与えられたとき/この原始の海に境界を定め/水が岸を越えないようにし/大地の基を定められたとき。/御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し/主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ》 

 

  

 

降誕前節

 

本日から教会の暦で「降誕前節」に入ります。聖書の御言葉を学びつつ、イエス・キリストのご降誕に向けて準備をしてゆく期間です。1129日(日)からはアドベント(待降節)に入り、いよいよクリスマスに向けての準備が本格化してゆきます。気が付けばもうそんな時期になっていたのですね。

今年も残り2か月ちょっと。今年2020年は新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により、本当に大変な年となりました。いまも現在進行形で困難な状況が続いています。現在、ヨーロッパなどでまた急速に感染が再拡大していると報じられています。WHO(世界保健機関)もコロナに関し、「特に北半球で重大な岐路にある」との懸念を示しているとのことです。

どうぞ一人ひとりの健康と生活とが守られますよう切に祈るものです。いま困難の中にある方々に必要な支援がなされることを祈りつつ、御子のご降誕に向けて準備をしてゆきたいと思います。

 

 

 

すべてのものは神によって造られた

 

先ほどご一緒に讃美歌224番「われらの神 くすしき主よ」を賛美いたしました。作詞・作曲はヨアヒム・ネアンダー16501680。すぐれた賛美歌をいくつも残し、《賛美歌のシューベルト》と呼ばれる人です(参照:川端純四郎『さんびかものがたりⅡ この聖き夜に アドヴェントとクリスマスの歌』、日本キリスト教団出版局、2009年、23頁)。ウイルス感染予防のため最初と最後の節のみを歌いましたが、2番の歌詞をご紹介したいと思います。

《青き空よ、つくり主の/みわざをつたえよ。/輝く陽よ、主なる神の/み栄えあらわせ。/月も星も造り主のみ名をほめよ》。

 ここでは空、太陽、月や星が神さまを賛美する様子が謳われています。私たち人間だけではなく、自然や天体も神を賛美する様子が謳われているのですね。

 このような視点は聖書独特のものであるかもしれません。人間だけではなく、自然も天体も、世界のそのすべてが神を賛美しているのだと受け止める。なぜなら、それらすべてのものは神によって造られたもの――神の被造物であると考えているからです。

 

 いま、「被造物」という言葉を用いました。「造られたもの」を意味する言葉ですが、これも聖書特有の言葉でありましょう。私たちはみな「神によって造られたもの」、すなわち「被造物」である。対して被造物を造られた神は聖書では「創造主」と呼ばれます。

 

ちなみに、先ほど引用した讃美歌224番の作者ヨアヒム・ネアンダーさんはすぐれた賛美歌を幾つも残したことで知られている人ですが、もう一つ、意外なところにおいてもその名をとどめています。ネアンダーさんは自然が好きで、よく郊外の谷に出かけて黙想をしたり、人々を招いて集会を開いたりしていたそうです。彼が愛した谷は、後に町の人々から「ネアンダーの谷(ネアンデルタール)」と呼ばれるようになりました。その後、時を隔てた1856年にその谷から偶然、別種の人類の骨が発見されました。その別種の人類は「ネアンデルタール」から発見されたということで、「ネアンデルタール人」と命名されることとなりました。ヨアヒム・ネアンダーさんは思いがけないところで、その名を残しているのですね。

 

 

 

わたしたちはすべての被造物と「きょうだい」(!?)

 

「この世界は神によって創られた」との世界観――この世界観によって成り立っているのが聖書です。冒頭にお読みした箴言8章でも、神が天地を創造される様子が《知恵》と呼ばれる存在の視点を介して描き出されていましたね。《…主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき/主が上から雲に力をもたせ/深淵の源に勢いを与えられたとき/この原始の海に境界を定め/水が岸を越えないようにし/大地の基を定められたとき(箴言82729節)

 このような聖書の描写は日本に住む私たちにとっては新鮮に感じられるものであるかもしれません。この世界は様々な要因が偶然的に重なってできたもの、と捉えている方にとっては異質な描写に思えるかもしれません。

 

また、先ほどの賛美歌224番のように、太陽や月もあくまで被造物の一つとして捉える視点は、日本に住む私たちにとって特に新鮮に感じられるものではないでしょうか。私たちの住む日本では、とりわけ太陽は非常に大切な存在とされてきたからです。太陽に向かって拝む、いわゆる太陽信仰と呼べるものが私たちの暮らす日本にはあります。日本古来の世界観と聖書の世界観とでは、またずいぶんと違いがあることが分かります。双方において、その世界観が異なることを私たちは受け止めてあってゆく必要があるでしょう。

 

 中世イタリアの生きた修道士、アッシジのフランシスコは「創造主への賛歌(太陽の賛歌)」という詩において、太陽を「兄弟」、月と星を「姉妹」と形容しています。太陽や月をも「きょうだい」と受け止める視点はとてもユニークなものですね。ユニークであると同時に、聖書の世界観にしっかりと根をおろした表現であると言えます。すべてのものが神によって造られたものであるなら、確かに、私たちとすべての被造物とは「きょうだい」の関係にあるからです。

 

 

 

パウロの言葉に認められる他の被造物との「連帯感」

 

聖書は人間中心的な書だと言われることがあります。確かに人間存在にスポットが当てられた書であることは間違いないですが、必ずしも人間中心的な記述ばかりではないことが、先ほど申し上げたことからもお分かりいただけるかと思います。この世界を私たち人間だけで完結しているものとみなすのではなく、他のすべての被造物を含んではじめて、この世界は完結するとの視点も見出すことができます。

 

たとえば、ローマの信徒への手紙においてパウロはこのように述べています。《被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。/被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます(ローマの信徒への手紙82223節)

私たち人間だけではなく、他のすべての被造物も共にうめき、産みの苦しみを味わっていると語られています。非常に大きなスケールで神の救いを捉えていることが分かります。このパウロの言葉にも表れているように、他の被造物との「連帯感」と呼べるものが聖書には存在しているように思います。他のいのちとの連帯意識、他のすべての被造物との連帯意識です。アッシジのフランシスコの表現を踏まえますと、神によって造られた被造物はみな「きょうだい」であるとの意識です。

この意識を、いつしか私たちは忘れてしまっていたのではないか。どこか遠くに置き忘れてきてしまったのではないか、と思わされます。

 

 

 

私たち人間が被造世界を深く傷つけている現状

 

 私たち人間の営みが原因で環境が破壊され、生態系が破壊されていると警鐘が鳴らされてから、もうずいぶんと時間が経ちました。環境問題について、私たちの社会はいまだ十分な対応をすることができていません。パウロはかつて《被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている》と述べましたが、あれから2000年近く経った現在、私たち人間の営みが原因で、他のすべての被造物がうめき、苦しんでいる現状があります。他の被造物が「きょうだい」であることを忘れ、そのいのちを軽視し、自分たちに都合のいいように搾取し続けてきてしまった結果、私たちは神さまが造られたこの被造世界を深く傷つけてしまいました。

 

 この度の新型コロナウイルスの世界的大流行によって私が改めて思い至ったことは、私たち人間は神さまがお造りになった被造世界の一部であるとの認識でした。当たり前のことではありますが、このことに立ち還るよう、強く促された思いがいたしました。

自然が私たちに向かって猛威を振るう時、私たちは無力であることを思わざるを得ません。

 もちろん、病原性のあるウイルスから自分たちを守る努力は不可欠ですが、私たちにはウイルスを完全に撲滅することはできないことも事実です。また、撲滅すべきではないでしょう。ウイルスという存在自体は元来、この被造世界において重要な役割を果たしているものであるからです。私たち生物を進化させてきたのはウイルスであるとの指摘もあります(武村政春『生物はウイルスが進化させた 巨大ウイルスが語る新たな生命像』、講談社、2017年)

 

私たち人間もまた、神が造られた被造世界を構成する一部である。であるはずなのに、他の被造物(=きょうだい)を意のままに支配・コントロールしようとし、その結果、異常気象をはじめとする様々な問題が引き起こされている現状があります。私たちが生態系に無秩序に進出することによって、動物から人間へと種の壁を超えて病原性のあるウイルスが伝染するリスクも高まっています。

私自身、今一度、他の被造物との連帯・共生を語る聖書の言葉に立ち還り、学び直さなければならないと思わされています。

 

 

 

主の言葉に学びつつ、平和への道を

 

 教会の暦で降誕前節を迎えました。聖書に学びつつ、イエス・キリストのご降誕に向けて準備をする時期です。教会が伝統的にイエス・キリストの到来を預言していると受け止めてきたイザヤ書11章にこのような言葉があります。

狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない(イザヤ書1169節)

 このイザヤ書の預言では、主イエスがこの世界に到来して成し遂げられる平和は、私たち人間社会においてだけではなく他の被造物たちにも及ぶことが語られています。

 

わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない》。もはや被造物同士が互いに傷つけあうことはしない。互いに害を加えず、滅ぼしあうことをしない。イエス・キリストは私たちの被造世界に調和と平和をもたらすために来て下さる方である。うめき苦しむ私たち人間を、そして被造物全体をいやすために――。

 

私たちの目の前には、人と人とが傷つけあう現実、私たち人間が被造世界を傷つけている現実があります。私たちはいかにしたら他の被造物の生きる権利を尊重しながら、共に生きてゆくことができるのか。主の言葉に学びつつ、その平和への道を祈り求めてゆきたいと思います。