2020年2月16日「キリストによる癒し」

2020216日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書5118

キリストによる癒し

 

 

ヨハネによる福音書5118節《その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。/エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。/この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。/さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。/イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。/病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」/イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」/すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。

 

その日は安息日であった。/そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」/しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。/彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。/しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。/その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」/この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。/そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。/イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」/このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである

 

 

 

♪『ユー・レイズ・ミー・アップ』

 

『ユー・レイズ・ミー・アップ』という曲があります(作詞:Brendan Graham 、作曲:Rolf Løvland。ここにいる皆さんの中にも、この曲が好きだという方がいらっしゃることでしょう。テレビでも時折耳にしますが、特に2006年のトリノオリンピックにおいてフィギアスケート選手の荒川静香さんがエキシビジョンでこの曲を使用したことで日本では知られるようになりました。

 

「ユー・レイズ・ミー・アップ(You raise me up)」は「あなたが私を力づけてくれる」「励ましてくれる」など様々な訳が可能な、詩的な表現です。直訳すると「あなたが私を起き上がらせてくれる(立ち上がらせてくれる)」となりますね。

 

 歌詞の一部をご紹介いたします。《あなたが私を起き上がらせてくれる(You raise me up)、だから山の上にだって立てる/あなたが私を起き上がらせてくれるから、嵐の海の上も歩ける/私は強くなれる、あなたの支えがある時/あなたが私を起き上がらせてくれる、私が出来ると思う以上に》。

 

 大切な「あなた」がそばにいてくれることで、どれほど強くなれるかを謳ったラブソングです。 あなたが私を起き上がらせてくれる、力づけてくれる。だから山の上にだって立てる。あなたが私を起き上がらせてくれるから、嵐の海の上も歩ける――力強い歌詞ですね。 何か宗教性をも感じさせるような、心打たれる歌詞になっています。

 

 どのような曲か思い起こしていただくため、『ユー・レイズ・ミー・アップ』を実際に聴いていただきたいと思います。ケルティック・ウーマンというグループによるカヴァーバージョンです。

 

 ♪『ユー・レイズ・ミー・アップ』

 

  ……いかがだったでしょうか。聴いたことがある、という方も多いことと思います。この曲は冒頭の歌詞も印象的ですよね。《落ち込んで、魂がひどく疲れてしまった時/困難がやってきて、心に重荷を負った時/そのような時は私はここで、静けさの中、じっと待つ/あなたが来て、私と一緒に座ってくれるまで……》。

 

 歌詞の中の「わたし」はとても落ち込んで、魂がひどく疲れてしまっている。困難の中で重荷を負っている。そのような時、静かに、大切な「あなた」がそばに来てくれるのを待っている。そういう詞であることが分かります。この冒頭の部分があるのでなおさら、その後に繰り返される《あなたが私を起き上がらせてくれる、だから山の上にだって立てる》という詞が私たちの心を打つのではないでしょうか。

 

 

 

心が起き上がることができないでいるとき

 

 私たちも日々の生活の中で、ひどく落ち込んでしまうことがあります。ひどく疲れてしまい、心は重くなり、何の力も湧いてこなくなってしまうことがあります。エネルギーが奪い取られたようになって、元気が湧いてこない。何とかしたいとは思うのだけど、もう自分の力ではどうしようもできない。そういう状態になることがあると思います。心がまるで寝たきりのようになり、起き上がることができないでいる、そういう非常な苦しみを私たちは時に経験します。

 

 そういう時、私たちの支えになるのは、誰かが、傍にいてくれることではないでしょうか。自分の苦しみを共有し、そばに寄り添っていてくれることではないでしょうか。もちろん、すぐに心が元気を取り戻すわけではありませんが、誰かがすぐ近くにいてくれることで、私たちの内に本来備えられている生きる力が少しずつ取り戻されてゆくということが起こるのだと思います。起き上がることができないでいた魂が、再び起き上がらされてゆくことが起こるのです。

 

 私たち一人ひとりの内には、再び立ち上がる力が宿されています。ほかならぬ、自分自身の内にその確かな力が宿されています。しかし時に、私たちは自分一人だけでは、その力とつながることが難しいことがあります。そのような時、私たちが誰かのサポートを得ることが重要です。大切な存在がすぐ近くで寄り添っていてくれることは、私たちにとってどれほど心強いことでしょうか。

 

 私たちの心の奥深くにあるこのような願いに触れるので、先ほどご紹介した『ユー・レイズ・ミー・アップ』は切実なものをもって私たちの心を打つのかもしれません。

 

 

 

起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい

 

 新約聖書の中には、イエス・キリストが病人を癒す場面がたくさん出てきます。いわゆる奇跡物語ですね。病いに苦しんでいる大勢の人々を、主イエスは癒されました。中には、起き上がることができない状態であったところを、主イエスによって起き上がらされた人々もいます。

 

 それはもちろん、身体の病いが治ったということですが、それだけではなくて、その人の魂が癒された。起き上がることができないでいた魂が起き上がった。そのような出来事を語るものとして受け止めることもできるでしょう。起き上がることができないでいた魂が、主イエスによって起き上がらされた。その恵みを私たちに語るのが、これら奇跡物語であるとご一緒に本日は受け止めてみたいと思います。

 

 本日の聖書箇所(ヨハネによる福音書5118節)も、そのような奇跡物語の一つです(今年の世界祈祷日の聖書箇所もこの場面ですね)。エルサレムの羊の門の傍らに、べトザタと呼ばれる池がありました。この池には病を癒す力があると信じられており、池の回廊には毎日多くの病いで苦しむ人々が集まってきていました。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人など、多くの人が回廊に横たわっていました。

 

 人々は、池の水が動くのをジッと待っていました。池の水が動くのは天使が降りてきたことのしるし。水が動いたとき、一番に水に入ることができた人は癒される、そのような伝承があったようです(異本による訳文 53b4節参照)。皆が癒しに与ることができるわけではなかったのですね。癒しに与るためには、他の人との競争に勝たねばならなかったのです。

 

 さて、そこに、長い間病気で苦しんでいる一人の男性がいました。何の病気であるかははっきりとは書かれていませんが、男性は38年もの間、病気で苦しんでいたようです。この男性も癒しに与りたいと思って、床の上に横たわりながらジッと水面を見つめていました。しかしいざ水が動いても、身体が不自由であったので、他の人々との競争に勝つことはできませんでした。自分が行こうとする内に、他の人が水面まで降りて行ってしまうのです。

 

 その日も、男性は水面を眺めながら、苦しい思いでいたことでしょう。せめて誰かが自分の体を支えて一緒に水面まで連れて行ってくれたらいいのに……。しかし男性のすぐ隣にいてサポートしてくれる人はどこにもいませんでした。男性の苦しみは病いによるものであることはもちろんですが、それだけではなく、その自分の苦しみを共有し、寄り添ってくれる人がいない、ということからも来ていたのではないでしょうか。もしかしたら、その苦しみの方がより深く根源的なものであったかもしれません。

 

その時、主イエスがその男性のもとに近づいて行かれました。主イエスは床の上に横たわってジッと水面を見つめる男性をご覧になり、その苦しみを理解されました。長い間病気で苦しんできたその苦しみ、孤独であることの苦しみをすべて理解し、受け止めて下さったのです。

 

主イエスは男性に《良くなりたいか6節)と語り掛けました(本田哲郎氏の訳では《元気になりたいね》)。すると男性は《主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです7節)と答えました。この男性の言葉は病気を治してほしいという想いだけではなく、自分をサポートしてくれる人がいないその苦しみを訴えるものでもあるように思います。

 

主イエスは男性に《起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい8節)とおっしゃいました。すると驚くべきことが起こります。男性はすぐに良くなって、床を担いで歩き出したのです。

 

これは男性の病いが治ったというだけではなく、イエス・キリストを通して、孤独の中で起き上がることができないでいた魂が起き上がった、生きる力を与えられた――その大いなる恵みを語るものとして受け止めたいと思います。

 

 

 

「起き上がる」=「復活する」

 

 今日は「起き上がる」という言葉をキーワードのようにして、何度も用いてきました。この「起き上がる」という言葉は、聖書の中でもう一つ、別の場面でも用いられています。それは、イエス・キリストの復活の場面です。主イエスが暗い墓の中から「復活した」。この「復活する(よみがえる)」という言葉が、原文のギリシャ語では「起き上がる」という言葉です。

 

 私たちの魂を起き上がらせてくださるイエス・キリストの力。その力とは、死の支配を打ち破り、暗い墓の中から起き上がった、復活の主の命からいずるものであると本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

復活された主イエスは目には見えないけれども、いつも私たちと共にいてくださっています。

 私たちがひどく落ち込んでしまうとき。ひどく疲れてしまい、心は重くなり、何の力も湧いてこなくなってしまうとき。心がまるで寝たきりのようになり、起き上がることができないでいるとき。主は私たちのそぐそばにいて、苦しみを共有し、励まし続けて下さっています。

 

 

 

いつも傍らにいてくださる復活の主

 

 メッセージのはじめに、『ユー・レイズ・ミー・アップ』をご紹介しました。私の個人的な感じ方ですが、この曲を聴いていると、私は復活の日の朝、イエス・キリストと出会った人々のことを想い起こします。

 

十字架の悲惨な死を目の当たりにし、絶望のただ中にいた人々の魂は、復活した主イエスとの出会いによって、再び起き上がらされました。主イエスのお姿は確かに目には見えなくなったけれど、いつもこの「わたし」の傍らにいて、支え続けて下さっている。このことを知ったマリアや弟子たちの魂は再び起き上がり、新しく歩み出す力を与えられてゆきました。

 

よみがえられた主イエスが共にいてくださるから、自分たちは山の上にだって立てる、嵐の海の上も歩ける。どんな困難にも向かい合ってゆける。そのような心境になることができたのではないか、と想像します。もちろんこれは私の個人的な感想ですが、『ユー・レイズ・ミー・アップ』という曲を聴いているとそのようなことが心に浮かんできます。

 

聖書が伝える復活とは、イエス・キリストが暗い墓の中から「起き上がった」出来事であると同時に、のこされた人々の魂が「再び起き上がった」出来事でもありました。復活の主がいつも傍らにいてくださることを知らされたことにより、起き上がれないでいた心が、再び起き上がったのです。

 

 《起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい》――。どうぞいま、私たち一人ひとりの心に、復活の主、イエス・キリストの恵みが届けられますように。