2020年2月2日「神殿の境内にて」

202022日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書21325

神殿の境内にて

 

 

 

ヨハネによる福音書21325節《ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。/そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。/イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、/鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」/弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。/ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。/イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」/それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。/イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。/イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。/

 

イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。/しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、/人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである

 

 

 

「宮きよめ」の出来事

 

 本日の聖書箇所は、イエス・キリストが神殿の境内にて羊や牛を追い出したり両替人の台をひっくり返したりしたという、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれる出来事です。

 

 読み方によっては、イエス・キリストが怒りのあまり我を忘れて「暴れた」(!?)とも読める箇所です。しかしそのような姿というのは、徹底した「非暴力」を説いた主イエスの姿勢とは異なるものです。本日の箇所から主イエスが変革のための暴力行為を肯定されていた、と読み取るべきではないでしょう。暴力的な行為としてこの行為がなされたのではなく、あくまで象徴的な行為としてこれら一連の行為をなされた、と受けとめるのがよいと思います。

 

 

 

エルサレム神殿と最高法院

 

 本日の出来事の舞台になっているエルサレム神殿です。このエルサレム神殿はいまはもう存在していません。紀元70年、ユダヤ戦争の際にローマ軍によって破壊されてしまいました。外壁だけは現存しており、その西側の部分がよく知られた「嘆きの壁」として残されています。写真やテレビの映像などで、嘆きの壁に手を当てて祈っているユダヤ教徒の方々の姿を見たことがある方もいらっしゃるでしょう。

 

 イエス・キリストが生きておられた当時は、神殿はまだ存在していました。紀元前20年頃からヘロデ大王による大規模な修繕と拡張工事が始められており、当時、人々の目に神殿は壮麗な姿を見せていたことでしょう。

 

この時代、ユダヤ社会の中で最も権威があったのが、エルサレム神殿を中心とする権力体制でした。神殿内部には「最高法院(サンヘドリン)」というユダヤ人の自治機関が存在しており、宗教的にも政治的にも絶大な権力をもっていました。

トップの議長の座にいるのは大祭司。議員として祭司長、長老、律法学者と呼ばれる人々が加わっていました(参照:山口雅弘氏『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』)。最高法院は70人の議員で構成され、神殿の「石切の間」と呼ばれる場所を議場としていたそうです。後に主イエスは十字架刑に処せられますが、その策略が練られていったのもこの最高法院においてでした。

 

 

 

神殿の境内にて

 

 さてその日、主イエスと弟子たちはエルサレム神殿に来ていました。最も大切な祭りの一つである過越祭が近づくと、多くの人々が神殿に巡礼に集います。このときも大勢の人が神殿にやってきていたことでしょう。

 

 神殿の門をくぐると、「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭があります。この「異邦人の庭」はユダヤ教徒のみならず、外国の人々も入ることができたようです。この「異邦人の庭」では、巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いやお金の両替がなされていました。

 

 その光景をご覧になっていた主イエスは突如、周囲の人々が仰天するような行動に出られます。縄で鞭を作り、境内にいる犠牲の献げ物のための牛や羊を追い出し、両替人のお金をまき散らし、その台をひっくり返されたのです。

そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。/イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、/鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」1416節)

 

 この驚くべき行為は、あることを厳しく批判するための、主イエスの象徴的な行動であると受け止めることができます。主イエスはいったい何に対して、これほどまでに激しく憤られたのでしょうか。

 

 一つのヒントとなるのは、最後の言葉です。《わたしの父の家を商売の家としてはならない16節)。神に祈りをささげるための神殿が《商売の家》とされてしまっていることを批判している言葉です。ただし主イエスが厳しい批判は、境内で売り買いをしている人々に対してというより、その背後で多大な利益を得ている権力者たちに対してのものだったということを理解する必要があるでしょう。

 

 

 

不公正な状況に対する「否」のメッセージ

 

「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭では巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いやお金の両替がなされていました。巡礼者は犠牲の献げ物を購入し、それを神に献げるということをしていたのです。

 

神さまに犠牲の献げ物をするということ自体は律法に記されている大切な掟でした。問題は、当時の宗教的・政治的な指導者たちが、そのシステムを利用して、莫大な利益を上げていた、という点でした。神殿の内側にいる指導者たちが、巡礼に来る民衆から金銭を搾取して利益を得ている現状があったようなのです。

 

犠牲の献げ物をささげることはユダヤ教徒の務めとされていましたので、経済的に困窮している人々も、無理をしてでも犠牲の動物を購入していました。購入する際には神殿でのみ通用する硬貨にお金を両替しなければなりませんでしたが、その際も手数料を取られたようです。そのように、祈りの場であるはずの神殿が、人々から金銭を取り上げる場となっていたのです。

 

 そのような構造というのは、当時の社会の構造を象徴するものでした。当時のイスラエルの社会の構造自体が、民衆から不当な搾取をくり返す構造となっていたのです。貧しい者はますます貧しくなり、富める者はますます豊かになってゆく。その不公正な社会の構造の中心にあったのが、エルサレム神殿でした。そのような社会の状態を深く悲しまれ、主イエスは《わたしの父の家を商売の家としてはならない16節)とおっしゃったのではないかと思います。

 

 そのような中、主イエスが起こされたのが「宮きよめ」と呼ばれる象徴的な行為でした。これは、エルサレム神殿を中心とする経済活動に対する「否」を訴えた象徴的な行為であると受け止めることができます。両替のお金をまき散らしその台をひっくり返すという行為は、いまの社会の不公正な状況を「変えるべき」だというメッセージ、文字通り「ひっくり返すべきだ」という意思表示が込められていたのだ、と受け止めたいと思います。

 

騒ぎを聞きつけ、神殿の中の指導者たちも当然、主イエスのもとに集まってきたことでしょう。そうして自分たちに対する主イエスのメッセージを敏感に感じとったことでしょう。ただしその切なる訴えは指導者たちには届かず、むしろ主イエスは彼らから危険人物として敵視されてゆくこととなります。

 

 

 

主イエスの厳しい側面 ~不正義に対して

 

本日の聖書箇所が描き出す主イエスの激しくかつ厳しい側面は、意外に感じられるものであるかもしれません。イエス・キリストといえば、いつも穏やかで、どんなことがあっても黙って微笑んでいる、そういうイメージで捉えている方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、そういうイエス・キリストの側面も、福音書は描き出しています。と同時に、本日の「宮きよめ」の場面に代表されるように主イエスは厳しい一面も持っていらっしゃったことが分かります。

 

その厳しさとは、人間の尊厳がないがしろにされている状況を決して容認しない、という厳しさです。主イエスは不正義――すなわち、人々の尊厳がないがしろにされることに対しては、厳しく対峙されました。

 

 

 

主イエスが伝えて下さっている真理と正義

 

 主イエスが私たちに伝えて下さっている真理とは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴いということ」です。一人ひとりに、等しく、神さまからの尊厳が与えられているということです。

そして、主イエスが伝えて下さっている正義とは、「神さまは、尊厳をないがしろにする行為を決しておゆるしにならない」ということです。その神の正義に基づき、主イエス御自身、尊厳をないがしろにする力に対し、はっきりと「否」とおっしゃいました。そうして具体的な行動を起こしてくださいました。内心でそう思っているだけではなく、はっきりと公に声を上げ、意思表示をしてくださったのです。

 

「尊厳」とは、言い換えれば「かけがえのなさ」ということです。私たち一人ひとりが、かわりがきかない存在として神さまに創られた。だからこそ大切な存在なのであり、その尊厳がないがしろにされることがあってはならないのです。

 

 私たちの近くに遠くに、尊厳がないがしろにされている状況があります。私たちはそのような状況に対して、どのように応答するのか。そのことが問われ続けています。私たちはいま改めて、本日の主のお姿に学ぶことが求められているのではないでしょうか。

 

 

 

もう一つのメッセージ ~十字架の死と復活を指し示す「しるし」として

 

 ヨハネによる福音書においては、本日の「宮きよめ」の出来事にはもう一つのメッセージが込められています。本日の「宮きよめ」は、主イエスの十字架の死と復活を指し示す「しるし」である、というのです。

 

ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。/イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」/それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。/イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。/イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた1822節)

 

 この問答の中に、《この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる19節)という主イエスの言葉がありました。これは主イエスが十字架刑で殺されること、そして三日目に復活させられることを暗示しています。

 

 

 

新しい神殿 ~キリストの体

 

 キリスト教は伝統的に、復活された主イエスのお体こそが「新しい神殿」である、と受け止めてきました。不思議な捉え方ですが、エルサレム神殿という建物ではなく、よみがえられたイエス・キリストのお体こそ自分たちにとっての新しい神殿なのだ、というのですね。《イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。/イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた2122節)

 

 一人ひとりが、かけがえのない存在として大切に尊重されている場、それが「キリストの体」なのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。この新しい神殿においては、もはや誰も不当に搾取されることはありません。それぞれが尊厳ある存在として、尊重されています。 

 

十字架の死よりよみがえられた主――。復活の主は、いま、私たちと共におられます。私たちと共におられ、真理と正義の言葉を伝え続けて下さっています。キリストの体に結ばれた一人として、互いに互いを大切にする道を歩んでゆきたいと願います。