2020年2月23日「命のパンを分け合って」

2020223日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書6115

命のパンを分け合って

 

 

ヨハネによる福音書6115節《その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。/大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。/イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。/ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。/イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、/こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。/フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。/弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。/「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」/イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。/さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。/人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。/集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。/そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。/イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた

 

 

 

新型コロナウイルス

 

国内外で新型コロナウイルスの感染が広がっています。皆さんも不安の中、生活をしていらっしゃることと思います。岩手ではまだ発症者は確認されていませんが、岩手でもいつ発症者が出てもおかしくない状況です。今後どのような局面になってゆくか、大変気がかりですね。

ウイルスに感染しても多くの場合は軽症で回復するとのことで、過度に恐れる必要はありませんが、ご高齢の方の場合、また体調によっては重症化する場合もあります。

どうぞ感染の拡大が抑止され、被害が最小限に食い止められますように、人々の命と安全とが守られますように願います。

 

一方で、すでに感染してしまった人、またはこれから感染する人が周囲から不当な扱いや差別を受けることがないよう、注意をしたいものです。新たなウイルスの蔓延が社会に不安や恐れを引き起こしているこのような状況であるからこそ、心を落ち着けて、互いに配慮しあうことが求められています。

 

感染対策には手洗いと咳エチケットが有効であるとのことです。風邪やインフルエンザの予防とまったく同じです。また無理をせず自宅療養をすることも有効であるでしょう。私たちも小まめに手洗いをし(アルコール消毒も有効とのことです)、咳などの症状がある場合はマスク着用を心がけるなど(マスクを外した後も手洗いが必要です)、日常的な予防をより徹底してゆきましょう。

 

 

 

五千人への供食

 

 本日の聖書箇所は「五千人への供食」と呼ばれる場面です。イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚を用いて多くの人々の空腹を癒したという、よく知られた場面ですね。いわゆる奇跡物語の一つです。五千人というのは男性の数であったと記されていますので10節)、女性と子どもを含めるとそこにいた人々はもっと多かったということになります。先ほどご一緒にこの場面を主題とした『二ひきのさかな』という賛美歌を歌いました。

 

《二ひきのさかなと 五つのパンを

 イエスさましゅくして わけました/

 おとなもこどもも なかよくすわり

 みんなでいっぱい たべました ……》(讃美歌21198番『二ひきのさかなと』12番)

 

大人も子どもも、イエス・キリストが分け与えて下さったパンを食べ、心も体も満たされました。

このような奇跡物語があり得るかあり得ないかということだけではなく、この物語がいまを生きる私たちにどのようなメッセージを語りかけているか、ということにご一緒に心を向けてみたいと思います。

 

 

 

直接パンを分け与えて下さる主イエス

 

 この五千人への供食はマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の4つの福音書すべてに記されています。大まかには同じ内容ですが、福音書によって強調点の置き所が異なっています。いまお読みしましたのはヨハネによる福音書バージョンの五千人への供食です。

 

 ヨハネによる福音書バージョンの特徴の一つは、イエス・キリストが直接人々にパンと魚を分け与えているというところです11節)。集まっていた人々は皆、直接イエス・キリストからパンと魚を受け取ったのですね。

 対して、他の3つの福音書ではパンを配るのは弟子たちの仕事として描かれています。主イエスはパンを裂いてまず弟子たちに渡し、弟子たちはそれを人々に配りました。

 

 ヨハネによる福音書と他の3つの福音書では相違があるわけですが、どちらか一方が正しいということではありません。それぞれ、重点の置き所が異なっているのです。それぞれ大切なことを私たちに伝えてくれているのですね。

 

 マタイ・マルコ・ルカ福音書バージョンには《あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい(マタイによる福音書1416節)というイエス・キリストの言葉も記されています。ここでの《あなたがた》とは弟子たちのことです。イエス・キリストが分け与えて下さるパンを人々に届けるのは弟子たちの仕事。主イエスと人々とをつなぐ役割が弟子たちに託されていることが分かります。そのように弟子たちの働きにも重きを置いているのがマタイ・マルコ・ルカ福音書バージョンの特徴の一つであると言えるでしょう。

 

 一方で、本日のヨハネ福音書バージョンでは先ほど述べました通り、主イエスが直接人々にパンを分け与えてくださっています。弟子たちの仕事は、人々が満腹した後に、のこったパン屑を集めるというものでした12節)。弟子たちの存在は背後に退き、主イエスの存在が前面に打ち出されています。

 

 

 

《わたしが命のパンである》

 

 本日の聖書箇所の続きにはこのような言葉があります。《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない35節)。ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは《命のパン》であると記されています。イエス・キリストののもとに来る人は決して飢えることがないのだ、と。

 

 ヨハネ福音書において主イエスが直接人々にパンを届けたことは、この言葉と関係しているようです。私たちの心を満たし、魂の飢えを癒す《命のパン》――。このパンを私たちに分け与えて下さるお方こそ、イエス・キリストその方であるからです。

 

 本日の物語も、人々の空腹が満たされたというだけではなく、《命のパン》によってその魂が癒されることを指し示す出来事であったのだと受け止めることができるでしょう。

 

 

 

魂の飢え ~尊厳への飢え渇き

 

いま「魂の飢え」という言葉を用いました。私たち自身を顧みてみるといかがでしょうか。私たちもまた日々の生活において、時に心がからっぽになってしまったかのように感じることがあります。体の空腹とは別の満たされない、激しい飢え渇きのようなものを感じることもあるのではないでしょうか。

 

 マザー・テレサは「人は、人間としての尊厳に渇いている」ということを繰り返し語ったそうです。私たちは自分の存在が大切にされず、ないがしろにされていると感じる時、非常に辛い思いをします。いま多くの人が、その飢え渇きを覚えながら懸命に生活をしていることと思います。

 

「尊厳」とは、言い換えますと、「かけがえのなさ(代替不可能性)」のことです。「わたし」という存在のかけがえのなさを指し示すのが尊厳という言葉です。

自分の存在のかけがえのなさを感じることができない状況にあるとき、私たちは魂に強い飢え渇きを覚えます。

 

「かけがえのなさ」の反対語は「替わりがきく」という言葉でしょう。私たちは社会で生きてゆく中で、さまざまな場面で、自分が替わりがきく存在であるかのように思わされる経験をします。そのような時、私たちの魂は飢え渇きを感じます。そうして生きるための力が奪い取られたかのようになってゆきます。

 

 そしてそれは大人だけではなく、子どもたちもそうであるかもしれません。日々の生活の中で、自分の存在の大切さ、かけがえのなさを感じることができない状況に追いやられてしまうことがあるかもしれません。たとえ尊厳という言葉は知らなくても、それがないがしろにされることの痛みを子どもも全身で感じ取っていることでしょう。

 

 

 

命の言葉 ~わたしの目にあなたは価高く、尊い

 

旧約聖書のイザヤ書434節には、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります。神さまの目から見て、イスラエルの民がいかにかけがえのない存在であるかが語られている言葉です。かつてイスラエルに向けて語られたこの言葉は、いまイエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられているのだと受け止めたいと思います。

 

神さまの目から見て、この「わたし」は「かけがえのない=替わりがきかない」存在であるということ。だからこそ、一人ひとりの存在は大切なのであり、決して不当に扱われたり差別されたり、軽んじられることがあってはならないのです。

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――この神さまの命の言葉に出会うとき、私たちの魂の飢え渇きは癒されてゆくのだと信じています。失われていた生きる力が取り戻されてゆくのだと信じています。

 

この神さまの言葉はいまイエス・キリストを通して、直接私たちの心に語り掛けられています。かつて主イエスが人々に直接、《命のパン》を分け与えて下さったように、いま主イエスは私たちにこの命の言葉を差し出して下さっています。私たちの心の飢え渇きが癒されるように、私たちの心が喜びで満たされてゆくように。

 

どうぞいま、心を開き、主イエスが分け与えて下さる命の言葉に与りたいと思います。