2020年3月22日「ナルドの香油」

2020322日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ヨハネによる福音書1218

ナルドの香油

 

 

ヨハネによる福音書1218節《過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。/イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。/そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。/弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。/「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」/彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。/イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。/貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

 

 

受難節において大切にされてきた三つのこと ~断食、祈り、他者への支援

 

私たちはいま教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難を心に留めて過ごす時期です。本日は受難節第4主日礼拝をおささげしています。

 

この受難節の時期に、伝統的に大切なこととされてきた三つのことがあります。それは断食、祈り、そして他者への支援(慈善)です。

まず一つ目の断食について説明いたします。キリスト教会では伝統的に、受難節の時期に断食や節制をするということがなされてきました。たとえば現在も、受難節の時期にお肉やアルコールを口にしない方々もおられます。もちろん、皆が必ず節食をしなければならないということではありません。それぞれの仕方で、イエス・キリストのご受難を思い起こしつつ過ごすことが大切であるのだと思います。

二つ目の祈りについて。これは、皆さんもすぐに納得されることと思います。主のご受難を思い起こし、祈りつつ過ごすこと、これが受難節において重要な要素です。

  最後の他者への支援については、意外に感じる方もいらっしゃるかもしれません。受難節というと部屋に籠って静かに祈りをささげるというイメージがあるかもしれないからです。けれども、キリスト教では伝統的に受難節の時期に他者を積極的に支援することが推奨されてきたのですね。家の中で静かに過ごすだけではなく、助けを必要としている人々のために自分にできることをすることも大切なこととされてきたのです。

 

 聖書の中にも、このことと通ずる言葉が記されています。旧約聖書のイザヤ書の言葉です。《わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと(イザヤ書5867節)

 

  ここでは、家の中で断食をしているだけでは十分ではないのだ、ということが語られています。パンを必要としている人に自分のパンを裂き与える、服を必要としている人に自分の服を着せかけるなど、いま困難な状況にある人々を支えるために自分にできることを行うことが、断食の時期に大切なことであると言われているのですね。そしてそれが神さまの心に適うことなのだ、とイザヤ書は述べています。

 

 

 

他者への支援は自粛しない

 

 いま述べましたことは、いま私たちの世界が置かれている状況ともつながるところがあるように思います。新型コロナウイルスの影響により、いま非常にたくさん人が困難の中にいます。いま国内外がまさに受難の時にあるのだということができるでしょう。健康に対する影響だけではなく、経済が打撃を受けることにより窮地に陥る人が今後さらに増えてゆくことが懸念されています。

 

感染拡大の危機が叫ばれ、社会不安が著しく高まる中で、現在、私たちの生活に関わる様々なことに制約が設けられています。私たちはいま、ある意味での断食(節制)を迫られている状況にあると言えるかもしれません。学校の授業や行事の中止、集会やイベントの中止または規模の縮小、大人数での会合の自粛、海外から・海外への渡航の制限、そして地域や国によっては外出の禁止令が出されるなど、国内外で多くの人の生活に節制が設けられている状況があります。

困難の中にあって、私たちは祈りをあわせてゆくことが求められています。互いに祈りに覚え合うことが大切です。

そしてこのような困難な中であるからこそ、私たちは互いに支え合い配慮しあってゆくことが求められている、他者への支援が求められているのではないでしょうか。

 

様々なことが制限される中で、いま多くの人が閉塞感を感じていることと思います。もちろん、何らかの疾患がある方や体調が優れない方をはじめ、大事をとってこの時期、自宅で安静にしていることは大切なことです。と同時に、私たちは他者への支援まで自粛する必要はありません。むしろこのような時であるからこそ、自分にできることを積極的に行うことも大切なのではないでしょうか。

今回の場合、感染症という特殊なケースであることの難しさがあります。場合によっては、外に出かけたり、直接会って支援するということを控える必要が出てくるからです。しかし、たとえ家の中にいても、私たちにはできることはあります。

先週、山梨県の中学1年生の女の子がマスクを612枚手作りして県に寄付をしたことがニュースになっていましたね。身近なところで、私たちにもできることがあるのではないかと考えさせられます。

 

 

主のお姿に倣って

 

受難節において大切にされてきた断食、祈り、他者への支援――。これはイエス・キリストがそのご生涯において実践してくださったことでもあります。主イエスは公の活動を始められる前、荒れ野で断食をなさいました。朝昼晩と絶えず神さまに祈りをささげておられました。そしてその生涯を他者への支援、隣人への愛に献げられました。私たちは受難節のこの時、この主のお姿に少しでも倣うことができるよう招かれているのだと受け止めることができるでしょう。

 

 

 

恐れによるブレーキ

 

一方で、人のために何かをしようとするとき、心のどこかでブレーキがかかってしまうことがあります。他者への支援をすることを願う自分と、それにブレーキをかけようとする自分が私たちの内にはいるのです。

たとえば人のために何かをしようとするとき、(これをしたら周囲からどう思われるだろうか)(周囲からどう言われるだろうか)と周囲の視線が気になってしまうことがあります。場合によっては批判されるのではないか。その恐れが、私たちの行動にブレーキをかけてしまうことがあります。

 

何か行動を起こすということには、確かにリスク(悪い事象が起こる可能性)が伴います。批判されるかもしれないリスク、理解されないかもしれないリスク、また、失敗するかもしれないリスク……。様々な懸念が頭をよぎり、結局は何もしない、という結論に落ち着いてしまうことはよくあるのではないでしょうか。

 

現在のように、社会不安が高まり色んな事が自粛される中、何か新しい行動を起こすというのは確かに勇気が要ることであるかもしれません。

 

 

 

ナルドの香油

 

本日の聖書箇所は、このような私たちに大切なメッセージを伝えてくれているように思います。改めて、ご一緒に物語を振り返ってみたいと思います。

 

それは、過ぎ越し祭というお祭りの6日前のことでした。主イエスと弟子たちはある家に招かれ、食事の席についていました。すると、弟子たちがびっくりするようなことが起こりました。マリアという名の女性が――このマリアは主イエスの母マリアとは別の女性です――高価なナルドの香油を持ってきて、主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。家は香油の香りでいっぱいになりました。

 

ナルドの香油とは、甘松という植物の根から抽出する、ヒマラヤ原産の油です。私はこのナルドの香りを嗅いだことはありませんが、《地に足をつけるような土や草木を想わせるどっしりとした香り》であるそうです(『信徒の友 20156月号』4445頁、坂口聖子氏「キリスト教と香りの世界」より)。当時イスラエルでは非常に高価なものであったそうで、マリアがこのとき用いた油は、300デナリオンもの値打ちがあったと福音書には記されています。300デナリオンは、当時の日雇い労働者のほぼ1年分の賃金に相当する値段です。

 

当時、香油を客人の足に注ぐという風習はなかったようで、マリアが取った行動は異例なものであったことが分かります。これまで誰もしたことがないことを、彼女は行いました。非常に高価な――もしかしたら自分のすべての財産である――ナルドの香油をすべて、主に献げたのです。

 

弟子の一人のユダは、そのマリアの行為を見て、批判します。《なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか5節)。ユダはそのとき会計係を任されていたそうです。ですので余計にお金の額に敏感であったのかもしれません。

 

 主イエスはこのユダの言葉を受けて、このようにお語りになりました。《「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。/貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」7-8節)

 

 

 

《葬りの日》のために

 

「救い主」を意味する「キリスト」という言葉は、ヘブライ語の原語では元来、「油注がれた者」を意味する言葉です。主イエスに対する全き信頼と愛とを、マリアはこの油注ぎの行為によって示したのだと受け止めることができるでしょう。

 

 またそして、主イエスは彼女の行為を、ご自分の《葬りの日》のためにしてくれたこととしても受け止められました。《葬りの日》とは、十字架刑で殺される日のことを指しています。本日の物語からまもなくして、主イエスは十字架上でお亡くなりになることとなります。当時、亡くなった人の体に香油を塗る(塗油)という習慣がありました。彼女は知らずしらず、その葬りの儀を前もって自分に執り行ってくれたのだ、と主イエスは深く感謝されました。別の福音書では《はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう》との主イエスからの最大限の賛辞と感謝の言葉が書き留められています(マルコによる福音書149節)

 

 

 

そうせずにはいられない愛 ~愛は恐れを締め出す

 

 このように、主イエスから深く感謝される行為をマリアは行ったわけですが、その行為は周りにいた弟子たちからは理解されることはありませんでした。周囲からどう思われるか、という点においてはリスクのある行動を彼女は行ったことになります。実際、会計係であったユダからは、「なぜこの香油を売って貧しい人々に施さなかったのか」との厳しい批判を受けました。

 

 今回のマリアの行動は、周囲からの視線や批判されることのリスクを考え始めてしまうと、確かに恐くてできない行動であったでしょう。けれどもマリアはこのとき、周囲の視線や批判を一切気にすることなく、愛する主のための行動を起こしました。とても勇気あることでしたが、もしかしたら彼女はこのとき、そもそも先のリスクを考えること自体をしなかったのかもしれません。主イエスへの愛ゆえ、そうせずにはいられなかったから、一心に、ただそのようにしたのかもしれません。そうせずにはいられない愛が彼女を駆り立てていたゆえに――。

 

 新約聖書のヨハネの手紙一には《愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します》という言葉があります418節)。このときマリアの心の中は主への完全な愛で満たされていたのではないでしょうか。よって心の中から恐れが締め出されていたのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 受難節のこの時、愛に根差し、愛に力を得て、隣り人のために自分にできることを行ってゆきたいと願います。