2020年4月19日「主イエスとトマス」

2020419日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書201931

主イエスとトマス

 

 

ヨハネによる福音書201931節《その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。/そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。/イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」/そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。/だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」/十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。/そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」/さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。/それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」/トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。/イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」/

 

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。/これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである

 

 

 

緊急事態宣言の対象地域の拡大

 

この度、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大されました。緊急事態宣言はとりあえず連休が終わる56日まで続きます。

 

新型コロナウイルスの感染拡大を予防するにあたって、「家にいること」が最も重要なことであることを私たちはこの度学びました。皆さんもできるだけ人との接触を減らし、不要不急の外出の自粛を心がけていらっしゃると思います。これからもそれぞれ、爆発的感染を防ぐため、より予防を心がけてゆきたいと思います。

 

いま闘病している方々の上に、懸命に治療に当たっている医療従事者の方々の上に主のお支えがありますよう、また、一人ひとりの健康と生活とが守られますよう祈ります。

 

私たちの住む岩手県は全国で唯一、新型コロナウイルスの発症者がいまだ確認されていません。理由ははっきりとは分かりませんが、いくつかの要因が重なり合ってそうなっているのでしょう。岩手在住の私たちの実感としては、それが幾ばくかの安心感につながっている一方で、自分が一人目の発症者になることの恐ろしさも感じているのではないでしょうか。この先、岩手で発症者が出たら間違いなく全国ニュースで、しかも速報で報道されることでしょう。

この度の新型コロナウイルスに関して、感染することの健康のリスクと同時に、周囲から厳しいまなざしを向けられる社会的なリスクが著しく高まってしまっている状況があります。

 

 

 

感染者が厳しいまなざしを向けられてしまう現状

 

 ニュースを見ながら危惧を覚えるのは、感染が確認された人の精神状況です。たとえ症状は無症状や軽症であっても、隔離生活を続ける中、自分が感染したことそれ自体、また誰かに感染させてしまったことについて、自分を責め続けておられる方がいまたくさんおられることと思います。著名人が感染すると、本人や関係者が謝罪をするということも起こっています。

 

感染した方やその濃厚接触者の方の中には実際、周囲から差別を受けるという経験をした方もいらっしゃることでしょう。感染予防の徹底が叫ばれるほどに、いざ感染が確認されると、当事者たちが周囲から厳しいまなざしを向けられてしまう現状があります。そのような中、本人や家族もまるで自分がとんでもなく悪いことをしてしまったかのように感じ、罪悪感にさいなまれる、ということがいま起こっているのではないでしょうか。

 

 他者への差別はこうして起きてゆく、ということを私たちはいま現在進行形で経験しています。差別は他ならぬ、私たち一人ひとりの内にある不安や恐れから生み出されてゆく、ということをいま、多くの人が生々しく実感しているのではないでしょうか。

 

インフルエンザに関しては、国内だけで毎年およそ1000万人が感染していると言われます。もはや冬期にインフルエンザが流行するのは当たり前のことになっており、集団感染が起こる度に速報で伝えられるということはありません。新型コロナウイルスは感染者のほとんどの場合無症状や軽症で、その分、気が付かないうちに水面下で感染爆発が広がる可能性が高く、感染状況が逐一報告されているという特異な状況があります。

 

 

 

「あなたは悪くない」というメッセージを

 

感染した人・これから感染する人に対し、私たちの社会がいま伝えねばならないことは、「あなたは悪くない」というメッセージではないでしょうか。自分を責める必要はないし、謝る必要もない。

感染するまでの経緯をたどってゆくと、「あのときこうしなければ良かった」「こうしていたら良かった」ということは出てくるでしょう。しかし、では、「あのときこうしなければ良かった」ということが一つもないような、非の打ちどころのない生活をしている人は果たしているのでしょうか。社会で生活を営む以上、たとえ本人がどれほど気を付けていても、感染するときは感染してしまうのがウイルスによる感染症です。

 

私たち社会はいま感染予防を徹底すると共に、感染した方々に対しては「あなたは悪くないよ」と声をかけあい、最大限に配慮し合ってゆくことが求められているように思います。感染した当事者や家族を批判し、精神的に追いつめることがあってはなりません。

もしかしたらこの先、私たち自身が感染するかもしれません。自分に身近な方々が感染するかもしれません。互いに労わり合い、祈り合う姿勢をいまこそ大切にしてゆきたいと願います。

 

 

 

家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち

 

先週の412日、私たちはイエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝をおささげしました。先週から教会の暦で復活節に入っています。

 

 先週のメッセージでは、イエス・キリストが復活したことに思い至らず、墓穴の前で涙を流していたマグダラのマリアを取り上げました。私たちの心もまた、イースターを迎えてもいまだ受難節が続いているような感覚になっている部分があるのではないか、ということもお話ししました。本日の聖書箇所においても、イエス・キリストが復活されたことに思い至らず、恐れの中で、家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちが登場します。《その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた》(ヨハネによる福音書2019節)

 

 この場面において、弟子たちはもちろん感染症を恐れて家の中に閉じこもっていたわけではありません。イエス・キリストの弟子であることがばれて、自分たちも捕まってしまうことを恐れて、家の中に身を潜めていたのです。また、愛する主を見捨てて逃げてしまったことの罪悪感が彼らを打ちのめしていたでしょう。

 

そのとき、弟子たちは恐れと激しい罪悪感の中で、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。「もうすべては終わってしまった」、そう思っていたかもしれません。

 そのような弟子たちの前に、復活された主イエスが現れます。主イエスは真ん中に立ち、《あなたがたに平和があるように》とおっしゃいました。主イエスの弟子たちに対する第一声は怒りの言葉でも呪いの言葉でもなく、弟子たちに平和と平安を願う言葉でした。

 

そうして主イエスは手と脇腹とをお見せになった、と福音書は記します。手と脇腹には十字架の傷痕が残されていました。手の傷は、釘を打ち込まれた際の痕、脇腹の傷は、槍で突かれた際の痕です。この傷痕は主が苦しみを受けられたことのしるしです。主イエスはその傷痕をあえて見せることによって、彼らの罪をはじめから「ゆるしていた」ことを伝えられたのです。

 

 

 

《あなたがたに平和があるように》 ~自分を責め続けるのは止めなさい

 

あなたがたに平和があるように》――手と脇腹の傷痕を見せながら私たちにそう語り掛けて下さる主。復活の主は私たちに「自分を責め続けるのを止めなさい」と語り掛けて下さっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。自分がしてしまったことをいつまでも責め続けるのは止めるように、と。ドストエフスキーが『罪と罰』で描いているように、もしも「罰」というものがあるのなら、私たちが罪悪感により自分自身を責め苦しめ続けることが、すでに何よりの「罰」となっているのではないでしょうか。

 

 神さまは、私たちが恐れと罪悪感によって苦しみ続けることを願っておられません。私たちが自分で自分を罰し続けることを望んでおられません。神さまが私たちに願っておられるのは、私たちの心が平安で満たされてゆくことです。喜びで満たされてゆくことです。私たちの心が前を向き、希望の光で照らされてゆくことです。

 

 

 

主イエスとトマス

 

 ただし、復活の主イエスとの出会いにより、弟子たちはすぐに恐れと罪悪感から解放されたわけではなかったようです。それから8日後、弟子たちはまた戸に鍵をかけ、家の中に閉じこもっていました。

 

この弟子たちの根強い恐れと罪悪感を象徴する人物が、本日の聖書箇所の後半に出てきます。トマスと言う人物です。トマスは1週間前、復活の主が現れてくださった際、その場にはいませんでした。ですので、トマスはとりわけ強い恐れと罪悪感にさいなまれていたのかもしれません。トマスは他の弟子たちに対してこう言いました。《あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない25節)

 

 すると再び、復活の主が現れ、彼らの真ん中に立って《あなたがたに平和があるように》とおっしゃいました26節)。それから、主イエスはトマスに語りかけられました。《あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい27節)

 その瞬間、トマスの全身を主の愛が包み込みます。トマスは主イエスの手と脇場の傷痕を目の前にして、自分ははじめからゆるされていたことを知りました。

 

 トマスが《わたしの主、わたしの神よ28節)と告白すると、主イエスはトマスにおっしゃいました。《わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである29節)

 

 

 

神さまの愛に全身をゆだねて

 

 復活の主のお姿はいまは私たちの目には見えません。しかし、目には見えなくても、復活の主イエスはいま、私たちに《あなたがたに平和があるように》と語りかけて下さっています。手と脇腹の傷痕を見せながら、自分を罰し続けるのは止めるように語りかけて下さっています。

 

 神さまが願ってくださっているのは、私たちの心が平安で満たされることです。喜びで満たされることです。私たちの心が前を向き、希望の光で照らされてゆくことです。

主イエスを通して現わされている神さまの愛に、いま私たちの全身をゆだねたいと願います。