2020年5月24日「生きた水が川となって」

2020524日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書73239

生きた水が川となって

 

 

ヨハネによる福音書73239ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。/そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。/あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」/すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。/『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」/祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。/わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」/イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである

 

 

 

かける言葉が見つからない現状

 

 皆さんもご存じのように、新型コロナウイルスの感染者数がここ1週間ほど、減少の傾向にあります。国内の多数の府や県で緊急事態宣言が解除され、少しずつではありますが経済活動が再開され始めています。しかしいまだ私たちの生活への深刻な影響は続いています。それは大人にとっても、子どもにとっても同様です。

 

たとえば先週の19日、県の中学校総体の開催中止が決定されました。開催中止となるのは1954年の第1回大会開催以来初めてであるとのことです。本来519日に開幕予定だった県の高校総体もすでに4月の段階で中止となっていました。これも1949年の第1回大会開催以来初めてのことです。

また、20日は夏の甲子園の中止が発表されました。私が聖書科の非常勤講師を務める学校は甲子園を目指して全国から生徒が集まってきています。これまで懸命に努力をし続けてきたその成果を発揮できる場が突然奪われてしまった、これまでずっと追いかけ続けてきた夢の舞台への切符が奪われてしまった、そのことの衝撃と悲しみは、いかばかりのものでしょうか。特に最後の大会となる3年生の皆さんの辛さはいかばかりのものでしょうか。生徒たちに何と声をかければいいのか分からない、かける言葉が見つからないというのが正直なところです。

大切な行事や大会が中止となってしまっているのは運動部も文化部も同様でありましょう。保護者の皆さんも子どもたちに何と声をかければいいのか分からず戸惑っている、というのが率直な心境なのではないでしょうか。

 

小説家の早見和真さんが甲子園の中止を受けて朝日新聞に寄稿した文章にこのような一文がありました。早見さん自身、高校まで野球をしていた高校球児であったそうです。《だから、球児の甲子園に憧れる気持ちには寄り添えたとしても、それを奪われた人間の思いは代弁できない。指導者も、記者も、教師も、保護者も経験したことがなく、誰も答えめいたものさえ導き出せない出来事にいまの高校三年生は直面しているのだ。その気持ちを正しく推し量れる大人はいない》(朝日新聞、2020522日、21面、文化・文芸欄より)

 

早見さんが言うように、私たちにはいまの高校3年生の気持ちを正しく推し量ることはできないでしょう。その困難は、私たちがこれまで経験したことのないものだからです。かつて経験したことのある事柄であれば、経験則から語れることもあるでしょう。けれども今回のケースに関しては私たちはみな経験値がない――この100年ほどの期間においては――ので、かけるべき言葉が見つからない状況にあります。

 

 

 

紡ぎ出されようとしている、新しい言葉

 

早見和真さんは続けて、選手一人ずつ《この夏の正解》は違うのだから、自分の頭で考え抜いて《正解》を見つけてほしい、と記しています。《メディアが垂れ流すわかりやすい悲劇の駒としてではなく、たとえ尊敬に値するにしても大人たちの言葉でもなくて、今回だけは、自分の頭で正解をひねり出し、甲子園を失った最後の夏と折り合いをつけてもらいたい》。

早見さんは球児たちに、自分自身でこの夏の《正解》を見つけてほしい、と呼びかけた後、誰も経験したことのないこの三年生の夏について考え抜いた末に導き出された《新しい言葉》をいつか聞かせてほしい、との願いを記して文章を締めくくっています。

 

私たちはいまそれぞれ、これまで経験したことのない状況に直面しています。学校で、職場で、家庭内で……。私たちはいま新しい事態に直面し、互いにかける言葉が見つからない状況にあります。

 

と同時に、いま多くの人が言葉を紡ぎ出そうとしています。自分自身のために、また、大切な人のために――。考えに考え抜いた末に導き出されたその言葉は、早見さんが記したように、この先、《新しい言葉》となってゆくのではないでしょうか。確かな力が宿る言葉となってゆくのではないかと思います。その人の人生を支え、そして社会を変えてゆく言葉となってゆくのではないかと思います。それは誰かの受け売りではなく、この困難のさ中において、他ならぬその人自身の内から芽を出し、育まれていった言葉であるからです。

 

すぐには言葉にできなくても、たとえ時間がかかっても、私たちそれぞれがいまの状況に向かい合う中で、自分にとっての《正解》を、自分の人生を支える《新しい言葉》を見出してゆくことができるように願うものです。

 

 

 

様々なことが「できない」中にあって、それでも「できること」は……

 

またいま、様々なことが中止され制限される中で、それでも、できることはないだろうかと多くの人が懸命に模索をしています。様々なことが「できない」中にあって、それでも「できること」を見出そうとしています。とても尊い試みであると思います。

 

考え抜いた末に見いだされたその「できること」には、やはり確かな光が宿ってゆくのではないでしょうか。これまでの何も制限がなく当たり前にできていた状態からすると、その「できること」はささやかなことに見えるかもしれません。小さなことに見えるかもしれません。しかしその小さな一歩は、これまでにはなかった新しい一歩、新しい未来へとつながる一歩になってゆくのだと受け止めています。

 

 

 

昇天日からペンテコステへ

 

 私たちは来週、教会の暦でペンテコステを迎えます。ペンテコステは、弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。

 このペンテコステの前に、教会の暦では「昇天日」というものがあります。今年は521日が昇天日でした。昇天とは、復活されたイエス・キリストが天に挙げられた出来事のことを言います。主イエスは復活後、弟子たちの前に何度も現れてくださいましたが、その後、神さまのいる天へと挙げられた、と聖書は記します(この昇天の側面を特に強調して記しているのがルカによる福音書です)。

 ちなみに、教会ではイエス・キリストが天に挙げられることを「昇天」、人が天に召されることを「召天」と表記し、使い分けをしています。

 

 主イエスが昇天して天に挙げられて、弟子たちは孤立無援の状態になってしまったのかというと、もちろんそうではありません。その後、弟子たちのもとに聖霊が送られます。弟子たちは復活の主が共にいてくださっていたときと同様に、喜びと力に満たされてゆきます。この聖霊降臨の出来事を記念する日がペンテコステです。

 

 

 

空白の10日間

 

 昇天日からペンテコステまで、教会の暦では10日の期間あります。これはある意味、空白の10日間と言えるかもしれません。復活の主は天に挙げられて不在、聖霊なる主もまだ降ってはおらず、不在……。空白の10日間であるけれども、同時にそれは待ち望む10日間でもあります。聖霊が私たちのもとに来てくださることを懸命に祈り求める10日間です。

 

 私たちの世界もいま、ある意味、この空白の期間を過ごしているのかもしれません。様々なことが中断され、未定にされてしまっている状態。しかもこの不安定な状態というのは、このまま収束するのではない。場合によってはこの先、第2波、第3と感染拡大の波が来ることも指摘されています。このまま収束してくれるのではあれば、私たちもまだ幾分気持ちが楽であるかもしれません。しかし、どうやらそうではない。これから私たちはまだしばらく、引き続き、この不安定な状況の中を生きてゆかなければなりません。

 

 このような中であるからこそ、私たちはいま聖霊が私たちのもとに来て下さることを祈り求めることが大切でありましょう。新しい言葉を、新しい次の一歩を私たちが見出すことができるように。聖霊の助けを祈り求めることがいまこそ必要であると信じます。

 

 

 

生きた水が川となって ~聖霊なる主が降る時

 

 本日の聖書箇所には、次のイエス・キリストの言葉が記されていました。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。/わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(ヨハネによる福音書73738節)。仮庵祭というお祭りの終わりの日に、主イエスが人々に向かって語られた言葉です。ここで主イエスは、ご自分を信じる人は、その人の内から《生きた水》がわきいで、川となって流れ出るようになる、とおっしゃっています。

 

 ヨハネ福音書はその後、このように文章を続けます。《イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである39節)

 この福音書の文章から、湧き出る《生きた水》とは、すなわち聖霊のことであると理解することができます。これから先、人々のもとに降ることになる聖霊なる主です。

 

 ここで前提となっているのは、私たち一人ひとりが渇いていることです。魂が渇いている。心の深いところが渇き、苦しんでいる。だからこそ、《生きた水》という表現が私たちの心に切実なるものを伴って響いてきます。

 いま多くの人が、心の奥底に渇きを感じつつ、懸命に生活しています。心からまったく潤いがなくなってしまったような感覚。自由に水を汲んで飲むことができる源泉から、遠く離れてしまっているような感覚……。

 

先ほど、ペンテコステの出来事について述べました。聖霊が降るとは、他ならぬ私たちの心が《生きた水》で満たされることであることが分かります。私たちの魂の渇きが癒され、その内に潤いが取り戻されてゆくこと、生き生きとした生命力――生きる力が取り戻されてゆくこと。そしてその《生きた水》は川となって、流れ出るようになります。もしかしたら、自分以外の誰かを癒すかもしれない川の流れとして――。

 

私たちは来週、ペンテコステを迎えます。どうぞ一人ひとりの心に聖霊が降って下さいますように、一人ひとりの心の渇きを癒してくださいますように、私たちの心に生きる力を取り戻してくださいますようにと願います。

そうして聖霊の力に生かされ支えられる中で、私たち自身の新しい言葉を、新しい次の一歩を、共に見出してゆくことができますようご一緒に祈りをあわせたいと思います。