2020年6月7日「真理の霊」

202067日 花巻教会 聖霊降臨節第2主日礼拝・三位一体主日

 聖書箇所:テモテへの手紙一61116 

真理の霊

 

 

テモテへの手紙一61116節《しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。/信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。/万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。/わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。/神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、/唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン

 

 

 

聖霊降臨節

 

  先週はご一緒にペンテコステ礼拝をおささげしました。ペンテコステは聖霊降臨とも呼ばれ、イエス・キリストが復活し天に挙げられた後、弟子たちのもとに聖霊がくだった出来事のことを言います。このペンテコステ以降、教会の暦では聖霊降臨節に入ってゆきます。本日は聖霊降臨節第2主日礼拝をおささげしています。

 

キリスト教は伝統的に、天の神さま、イエス・キリストと共に、この聖霊なる主を信仰の対象としてきました。神さまはお一人であると同時に、三つの顔がある。少し難しい言葉では「三位一体」と呼ばれます(本日の聖霊降臨節第2主日礼拝は、教会の暦で三位一体主日にあたります)。

 

 先ほどご一緒に讃美歌351番『聖なる聖なる』という曲を歌いました。『聖なる聖なる』は、三位一体を主題とする代表的な賛美歌の一つです。1節には《三つにいまして ひとりなる》という言葉がありましたね。三位一体なる神を賛美する曲として世界中で歌い継がれている曲です。

 

 

 

久々に会堂に賛美の歌声が

 

 さて、6月に入り、この1週間ほど初夏のような陽気が続いています。この岩手でも日中は汗ばむような陽気です。皆さんもどうぞ熱中症にはお気を付けください。マスクをつけていることでさらに熱中症になりやすいことも指摘されています。この夏は例年以上に熱中症に気を付けてゆく必要がありますね。

 

 新型コロナウイルスの感染予防のため、私たち花巻教会はプログラム内容を一部変更して礼拝をおささげしてきました。特に大きな変更は、賛美歌を歌わないようにする、ということでした。賛美の際は会衆の皆さんにはオルガンの奏楽を聴きながら黙想してお過ごしいただく、という風にしてきました。礼拝において賛美は、最も重要な要素の一つです。そのとても大切な賛美を、皆ですることができない。この2か月弱、皆さんもその痛みを心に覚えつつ、礼拝に出席してこられたことでしょう。

 

 役員の皆さまとも相談をし、本日からは賛美歌の最初と最後の節を賛美することにいたしました。よって久々に、この会堂に賛美の歌声を響くこととなりました。皆さんとご一緒に賛美の歌声を合わすことができますこと、私も感謝の想いでおります。

 

 もちろん、引き続き、感染予防のため出来ることはしてゆきたいと思います。それと共に、私たちはこの新型コロナウイルスといかに共生してゆくかを考えてゆくことが必要でありましょう。

 

 

 

手探りの状態で進む日々

 

 では、いかにしたら私たちはこの新しいウイルスと共生してゆくことができるのか。私たち社会はいまだはっきりとした解決策はもってはいません。「こうすれば大丈夫」という処方箋は持ってはおらず、先が見えない、不安定な状態の中にいます。手探りの状態で一歩一歩進んでいる――場合によっては一歩進んで2歩下がる――日々であると言えるでしょう。皆さんもいまだ大きな不安を抱えつつ生活をしておられることと思います。

 

 まずは一歩一歩、自分にできることをしてゆくことが大切であるのでしょう。様々なことが制限される中にありますが、しかし、私たちにはできることも様々あります。新たに挑戦してみるべきことも出てくることでしょう。

これからも皆さんと知恵を合わせつつ、そして聖霊なる主の導きを祈り求めつつ、一歩一歩歩んでゆきたいと思います。

 

 

 

すぐに「答え」を求めてしまう私たち

 

 私たちは新型コロナウイルスといかに共生してゆくことができるか、そのことのはっきりとした解決策や処方箋は持っていない、ということを述べました。私たちは腰を据えてこの難しい問題に向かい合ってゆくことが求められています。

 

 一方で、不安な状態の中にいるとき、私たちはつい問題がすぐに解決される特効薬が欲しくなってしまうものです。「答え」がすぐに欲しくなってしまうものです。

 最近はスマホで検索するとすぐに情報が与えることに慣れてしまってもいます。私たちいつしか、問題に対してすぐに答えが与えられて当然、という感覚になってしまっている部分があるかもしれません。すぐには答えが出ない問題に対し、腰を据えてじっくりと向かい合うことがなかなか難しくなってしまっている部分があるかもしれません。

 

 あるいは、そもそも問題について考えることを止めてしまう、ということもよく起こり得ることです。その問題について考えること自体を止めてしまう、いわゆる「思考停止状態」に陥ってしまっていることもあるでしょう。

 

 私たちにとって大切であるのは、「答え」を急ぐのではなく、また思考停止状態に陥ってしまうことなく、粘り強く問題に向かい合ってゆこうとすることでありましょう。

 

 

 

聖書の言葉の分かりづらさ ~《真の経験は遅れてやってくる》

 

 では、聖書という書はどうでしょうか。聖書というと、一般に、何か人生の「答え」がすべて書いているような印象を持っている方もいらっしゃるかもしれません。私たちに必要な答えが、すべて書いてあって、瞬時に私たちに必要な言葉を与えてくれる本である、と。

 

もちろん、聖書には私たちが生きるために欠かすことのできない事柄について記されています。聖書の言葉を通して私たちは人生の見方が根本から変えられるような経験をいたします。しかし、聖書を開いた瞬間、すぐに答えが与えられる、ということはほとんどないでしょう。もちろん、そういう経験をされた方ももちろんいらっしゃるでしょう。けれども私自身はそういう経験をしたことはあまりありません。

 むしろ聖書の言葉は一度読んでも意味がよく分からないことが多いものです。どのように受け止めたらよいのかよく分からないものが多い。時間が経ってから、少しずつ、その意味が分かってくることの方が多いように思います。

 

新約聖書学者の大貫隆先生が記した『聖書の読み方』という本があります(岩波新書、2010年)。初めて聖書を手に取る人に向けて書かれた、聖書の入門書です。この本が面白いのは、「聖書の読みづらさ」から話を始めているところです。聖書は読みづらい本、分かりづらい本であることを踏まえた上で、その読み方を提案してくれているのですね。

 

  大貫隆先生自身、知識欲に燃えていた大学生の頃、聖書をはじめから終わりまで通読しようとしてみて、その恐ろしいまでの読みづらさに仰天したそうです。《大学在学中の夏休みを一回か二回費やして、全体を通読することに挑んでみたが、読後感はまるでちんぷんかんぷん、まとまったイメージはまったく結べなかった。道筋がまったく見えない混沌の只中に置き去りにされて、ほとんど茫然自失であった。その後現在まで、当然ながら聖書以外にも大小の書物の読書体験はいろいろある。しかし、読後にあの時以上の方向喪失を覚えたことはない》(同、1頁)

しかしその体験がきっかけの一つとなって、その後、大貫先生は聖書を専門的に研究する道に進むようになったとのことです。

 

  大貫先生はこの本の中で、《真の経験は遅れてやってくる》ということを強調しておられます。《真の経験は遅れてやってくる。それを慌てず静かに待つことが重要である》(同、17頁)

  これは大貫先生ご自身の経験を踏まえての文章です。大貫先生自身、それまで何度読んでもさっぱり意味が分からなかった聖書の言葉が、ある瞬間、思いもかけぬ仕方で「分かった」と思うことができた経験があったそうです。

 

《人間は出来事そのものの渦中にいる時は、いま目の前で起きていること、自分が体験していることの本当の意味は了解し切れないものである。少し時間が経過して、つまり「遅れて」、その体験について物語り始める時、あらためて言葉で「作り直す」時、その時こそ、それは真の意味の経験になる。真の経験は遅れてやってくる》(同、147頁)

 

 いまはその意味が分からなくても、いつかきっと分かる日が来る。《真の経験は遅れてやってくる》――。そのことを信頼し、希望をもって、自分なりの「問い」の前に粘り強くとどまり続ける、その姿勢が私たちにとって大切であるのではないでしょうか。

 

 

 

「問い」に向かい合い続ける力

 

 そのように、希望をもって忍耐強く「問い」に向かい合い続けることと、「何とかなるさ」と楽観視し、思考停止状態になってしまうこととは違います。答えが与えられるためには、その問題について考え続けていることが不可欠でありましょう。時に休みを取りながらも、その問題について考えることは止めない。考えること自体をまったく止めてしまっては、解決へと導かれることもありません。

 

 現在喫緊の課題となっている福島第一原発の汚染水処理の問題も、これまで長きに渡って、私たちの社会が思考停止状態に陥っていたことの当然の帰結として生じていることでありましょう。考えるべきことを、考えることをしてこなかった。何十年と、その責任を放棄し続けてきた。その結果、地球環境に甚大なる影響をもたらしてしまっている現状があります。

 

 私たちはいま改めて、「問い」に向かい合い続ける力、問題にとどまり続ける力を持つことが求められているのではないでしょうか。

 

 

 

真理の霊 ~ふさわしい時に、ふさわしい答えを

 

「問い」に向かい合い続けるためには、いつか「答え」が与えられることの信頼を、自らの内に育んでゆくことも必要です。聖書は、ふさわしい時に、ふさわしい答えを与えてくれる存在、それが聖霊なる主であると語っています。

 

私たちを「答え」へと導く聖霊。その聖霊なる主のことを本日の聖書箇所では《真理の霊》と呼んでいました。イエス・キリストが弟子たちにお語りになった言葉に出てくる表現です。《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。/この方は、真理の霊である。…(ヨハネによる福音書141617節)

 

 また、別の箇所で、主イエスはこのようにもおっしゃっています。《言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。/しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである(ヨハネによる福音書161213節)。いまはその意味が分からなくても、いつか必ず、《真理の霊》が私たちを真理へと導いて下さることの約束が語られています。

 

私たちは現在、なかなか解決策が見つからないような状況の中にいます。ウイルスとの共生の問題をはじめ、私たちの目の前にはすぐには解決策が見つからない難しい問題が横たわっています。たとえいまはまだ色々なことが分からなくても、すぐには「答え」が見つからなくても、聖霊なる主の導きがあることを信頼し、目の前の課題・問題に向かい合ってゆきたいと思います。

 

どうぞ聖霊なる主が、私たち一人ひとりにその力と勇気とを与えて下さいますように。