2020年7月26日「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」

2020726日 花巻教会 聖霊降臨節第9主日礼拝

聖書箇所:使徒言行録273344

恐れるな、わたしはあなたと共にいる

 

 

使徒言行録273344節《夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。/だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」/こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。/そこで、一同も元気づいて食事をした。/船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。/十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。/朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。/そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。/ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。/兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、/百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、/残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した

 

 

 

「やまゆり園事件」から4

 

本日726日、「やまゆり園事件」から4年を迎えました。皆さんもよくご記憶のように、4年前の726日未明、重度の障がいをもった方々が入所する神奈川県立津久井やまゆり園にて19人の方が殺害され、27人の方が負傷するという大変痛ましい事件が起こりました。

この事件においてはその残虐性とともに、犯人の「障害者はいないほうがいい」という言葉が社会に大きな衝撃を与えました。犯行に及んだ植松死刑囚は、重い障がいをもつ人々は生きる価値がないとの信念に基づいて犯行に及んだと言われています。

 

このやまゆり園事件をきっかけの一つとして、私たちの社会で改めて「優生思想」という言葉が取り上げられるようになりました。優生思想とは、一方的なものさしによって、人を「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する考えです。ある本では優生思想の基本は《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》とする考え方であると説明されていました(藤井克徳氏『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優性思想』、合同出版、2018年、3頁)。やまゆり園事件はこの優生思想と深い関連があることが指摘されています。

 

植松死刑囚の考え方は決して容認することができないものです。と同時に、彼の歪んだ考え方を生み出す下地のようなものが、私たちの社会自体にあるのではないか、そのことも、やまゆり園事件以降、繰り返し指摘されてきました。私たち自身の内に、優生思想が生じ得る小さな種のようなものがあるのではないか。植松死刑囚の歪んだ考え方の背景には、いまの日本社会自体の歪みがあるのではないか。この重い問いを、私たちの社会は突き付けられ続けています。

 

 

 

優性思想の根底にあるもの ~自分はいなくてもいい存在なのではないかという不安・悲しみ

 

先ほど、優生思想は《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》とする考え方であると述べました。私たちの社会はいま、見えるところ・見えないところで、「あなたはいなくてもいい」という言葉が飛び交っている社会になってしまっている部分があるかもしれません。そしてそのことは、いつ何どき自分自身が、「あなたはいなくてもいい」と言われるか分からない、その不安と表裏一体のものです。

 

私が最近思わされているもう一つのことは、ある人が誰かに「あなたはいなくてもいい」と勝手な価値判断を押し付けているとき、実はその人自身も、周囲から「あなたはいなくてもいい」と宣言されることを恐れていることがある、ということです。

優生思想に通ずるようなことを語る方がいたとしても、もしかしたらその人自身は自分が優れた、価値のある人間であるとは思っていないのかもしれない。むしろ、本音ではいつ自分も切り捨てられる側になるか分からないと感じており、心の奥底で絶えざる不安を抱えている場合もあるのかもしれません。その絶えざる不安から逃れるために、人を裁く立場――神のごとき正義の審判者の立場――に自分を置こうとする場合もあるのではないでしょうか。自分がジャッジをする側に身を置いている間は、ジャッジされることの不安や恐怖から逃れることができるからです。

 

私たちはそれぞれ、生きてゆく中で「自分はいなくてもいいのではないか」と思う瞬間を経験することがあります。人によっては、それが断続的なものではなく、絶えざる不安・悲しみとなってしまっていることもあるでしょう。自分はいなくてもいい存在なのではないか――その不安・悲しみが、私たちをある種の優生思想にすがる(優生思想を隠れ蓑にする)ことへ追いやってしまうこともあるのだと思います。

 

 これらのことを踏まえますとき、優生思想を決して容認しないという姿勢を持ち続けると共に、「あなたはいてもいい」、そして「自分はいてもいい」――この感覚を私たち自身が取り戻してゆくことが喫緊の課題であるということができるでしょう。

 

 

 

《「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会に》

 

 先週、全身の筋肉が衰えるALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者から依頼を受け、薬物を投与して殺害した容疑で2名の医師が逮捕されるという事件が起こりました。この出来事を巡って現在、インターネット上でも様々な意見が交わされているようです。

 

 日本国内では安楽死は基本的に認められていません。安楽死について議論を積み重ねてゆくことは必要ですが、今回の事件が果たしてその議論をするにふさわしいものであるかは疑問を覚えます。事件の詳細はまだ明らかにはなっていませんが、依頼をした患者ご本人は死期が迫っていたわけではなく、またそもそも逮捕された2人の医師は患者の主治医ではなかったことが報じられています。2名の医師は自身の一方的な価値判断――すなわちある種の優生思想に通ずる価値判断に基づいて、嘱託殺人を行った可能性があります。

 

ご自身もALSであるれいわ新選組の舩後靖彦(ふなご・やすひこ)参院議員が今回の事件についてのコメントを23日付でホームページに発表されています(舩後靖彦Official  Siteより、「事件の報道を受けての見解」、https://yasuhiko-funago.jp/page-200723-2/。現時点では正確な事実関係は分からないので事件の内容についてのコメントは控えるとの前置きを記しつつ、舩後さんは自身の見解を記しておられます。

 事件の報道を受けて、インターネット上で《自分だったら同じように考える》《安楽死を法的に認めて欲しい》《苦しみながら生かされるのは本当につらいと思う》などの反応が出ている点について。舩後さんはALSとともに生きている当事者の立場から、これらの反応に強い懸念を表明しています。以下、コメントの一部を引用いたします。

 

《……なぜなら、こうした考え方が、難病患者や重度障害者に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧するからです。

私も、ALSを宣告された当初は、出来ないことが段々と増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。その時、呼吸器装着を選ばなければ、今の私はなかったのです》。

 

そして次に、舩後さんは「死ぬ権利」よりも「生きる権利」を守る社会にしていくべきことを語っています。《「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています》。

 

舩後さんがここで記しておられるように、私たちはまず何より、「生きる権利」を守る社会にしてゆかねばならないことを思わされます。私たち一人ひとりの内に確かに存在する、「自らの人生を生きたい」という切なる想い――。この想いが、様々な社会的な圧力によって埋もれさせられ、ふたをさせられ、いつしか自分自身も「生きたい」という気持ちを見失ってゆく、そのようなことがいま至ところで起こっているのではないでしょうか。

本当は「生きたい」はずの気持ちが、「死にたい」気持ちにさせられてゆく。そうして現実に死へと追いやられてゆく。そのような悲劇が私たちの社会において現在、数多く起こってしまっているように思います。

「あなたはいてもいい」と互いに言い合える社会、「自分はいてもいい」「生きていて、いい」、一人ひとりがそう思える社会を形作ってゆかねばならない。そして実際に、一人ひとりが自分の人生を生きてゆくことができる社会を私たちは形作ってゆかなければならないと強く思わされています。

 

 

 

危機的な状況に直面する中で

 

冒頭でご一緒に使徒言行録273344節をお読みしました。囚われの身となったパウロたちが乗せられた船が暴風に襲われ、危機的状況に直面する場面です。死への恐怖が一同を支配する中、しかしパウロは皆に食事をするように勧めます。

 

3336節《夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。/だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」/こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。/そこで、一同も元気づいて食事をした》。

 

食べる意欲の減少は、生きる意欲の減少にもつながります。パウロは率先して食事をすることによって、人々にもう一度、生への意欲を取り戻させようとしたのではないでしょうか。「食べよ」、すなわち「生きよ」と――。パウロはまだ自分たちは死なないと確信していたようです。事実、その後、パウロたちはマルタ島という島にたどり着きます。

 

この旅路において、パウロのまなざしは一貫して「生きる」方へと向いています。このパウロの前向きな姿勢は、復活したイエス・キリストが自分たちと共におられることへの信頼から来るものであったのでしょう。

パウロの背後におられるのは、復活されたイエス・キリストその方です。パンを裂いて食べるパウロの所作は私たちに聖餐式を思い起こさせます。このパン裂きの描写からも、復活の主がパウロたちと共にいてくださっていること、復活の主ご自身が彼らに復活の命の力を与えてくださったことを読み取ることができます。

「生きよ」――復活の主は、パウロを通して、人々にそう語りかけてくださっていたのではないでしょうか。

 

 

 

復活の主の呼び声 ~「あなたは生きていて、いい」

 

 パウロたちが船旅において嵐に遭遇したように、私たちは人生の旅路においてさまざまな困難に出会います。突然の困難、思わぬ苦難……。如何ともしがたいような困難の中にあって、私たちはだんだんと「生きたい」気持ちを見失ってしまうこともあるでしょう。

 

 礼拝の中でイザヤ書43113節を読んでいただきました。25節を改めてお読みいたします。《水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。/わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。/わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。/恐れるな、わたしはあなたと共にいる。…》。

 

 困難のただ中にあって、《わたしの目にあなたは価高く、貴い》と語りかけてくださる主。苦難のただ中にあって、《恐れるな、わたしはあなたと共にいる》と約束して下さる主。いかなる困難の中にあろうとも、神さまは私たち一人ひとりに、「あなたは生きていて、いい」のだと呼びかけて下さっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 復活された主イエスはいま、私たちと共にいながら、「あなたはここにいていい」「あなたは生きていって、いい」と語りかけてくださっています。この命の言葉に力を得、勇気を得て、今日という日に新しい一歩を踏み出してゆきたいと思います。