2020年7月5日「平和の福音を」

202075日 花巻教会 聖霊降臨節第6主日礼拝・創立記念礼拝

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙21122

平和の福音を

  

 

エフェソの信徒への手紙21122節《だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。/また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。/しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。/実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。/それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。/従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、/使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、/キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。/キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです

 

 

 

Y・Mさん召天

 

628日(日)午前440分、私たちの愛するY・Mさんが天に召されました。86歳でした。630日(火)に前夜式、71日(水)にご葬儀、火葬が執り行われました。ご遺族の皆さまの上に、Mさんにつながるすべての方々の上に、神さまよりの慰めがありますよう、お祈りいたします。

 

Mさんは624日(水)より、肺水腫の症状のため、東和病院に入院されていました。新型コロナウイルスの影響により面会の制限が厳しく、ご家族もお一人ずつしかお見舞いに行けなかったそうですが、皆様が入れ替わりでお見舞いに行き、一緒に過ごされていました。

 

召される前日の土曜日は、長女のRさんが午前1時ころまでご一緒に過ごされ、その後はお孫さんのAさんがそばにいてくださっていました。召される直前まではっきりとしたお声を出して話をされていたそうです。そして早朝の午前440分頃、神さまのもとに召されました。

 日曜日の礼拝後、私もお体を安置している東和町のお家に参りましたが、少し微笑んでいるような、おだやかなお顔でいらっしゃいました。

 

私が花巻教会に赴任したのは2013年ですが、赴任してから、全国にMさん・A先生ご夫妻をお慕いする方がいらっしゃることに心打たれました。それら方々がご夫妻への想いを語られるお姿から、まさに家族(ファミリー)と呼べるような、愛のつながりを感じてきました。皆さんは、血縁を超えた、家族であるように思いました。

Mさん・A先生がこれほどたくさんの方々から愛されていることは、また同時に、今まで、Mさん・A先生がたくさんの方に愛を与えて来られたからだと思わされました。またそして、神さまの愛の中に、いつも包まれていたからでありましょう。

 

ご葬儀の中で、ご子息のT先生とY先生が『主において常に』という(オリジナルの)賛美歌を謳ってくださいました。Mさんの愛唱聖句であるフィリピの信徒への手紙446節にメロディをつけ、5年前のMさん・A先生結婚50周年の際に披露をされた曲です。

 

賛美歌『主において常に』のリフレインにもなっている、44節の部分を改めてお読みいたします。《主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい》。この4節では、《主において》喜ぶということが言われています。イエス・キリストにおいて、いつも喜んでいること。

 

どんなものも、どんな困難も、イエス・キリストによって示された神さまの愛から私たちを引き離すことはできない、そのことを聖書は私たちに伝えています(ローマの信徒への手紙839節)。どのようなときにあっても、私たちは神さまの中にいる。神さまの愛の中にいる。どのような困難の中にあっても。死の影の谷を行くときも、この生涯を終えた後も、なお。だからこそ、私たちは主にあって、いつも喜びを忘れないでいることができます。

 

いまMさんは、A先生をはじめ、愛する方々と再会し、神さまの愛の中で、永遠の命の中で憩っておられることでしょう。Mさんと再び会えるときを希望とし、共に主にある喜びを胸に、これからも歩んでゆきたいと願います。

 

 

 

九州北部豪雨から3年、西日本豪雨から2

 

 本日75日、九州北部豪雨より3年を迎えます。また明日76日、西日本豪雨から2年を迎えます。いまも困難の中にいる方々、悲しみの中にいる方々を覚え、祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 昨日から、熊本・鹿児島で豪雨が発生しています。熊本県では球磨川が氾濫し、甚大なる被害がもたらされています。大雨はまだこの数日間続くようで、九州では予断を許さない状況が続いています。どうぞ人々の命と安全とが守られますよう切に願うものです。

 

 新型コロナウイルスの感染拡大が懸念される中での、自然災害の発生。以前より指摘されてきたことですが、私たちは現在、避難所における感染症対策という課題にも直面しています。この夏は「コロナ災害」と自然災害の二つの災害の発生に備えてゆかねばなりません。

 

皆さんもすでに確認しておられることと思いますが、大雨被害に備えて改めてハザードマップを確認しておく必要がありますね。自宅や近隣に土砂崩れをする可能性のある場所はないか、近くの河川が氾濫した場合どれくらい浸水する可能性があるのか、確かめておくことが必要です。

たとえば、この花巻教会からは少し離れたところには北上川が流れています。ハザードマップによるともしも北上川が氾濫した場合、その付近は最大510メートルの浸水の恐れ、この教会の付近でも最大50センチくらい浸水する可能性があるとのことです。

 

いま困難の中にある方々のために祈りを合わせると共に、私たち自身も改めて防災の意識を高めてゆきましょう。

 

 

 

花巻教会創立記念礼拝 ~平和の福音を

 

本日は花巻教会の創立を記念して礼拝をご一緒におささげしています。花巻教会は毎年7月の第一週を教会創立の記念日としています(19087月に創立)。今年、私たち花巻教会は創立112年を迎えました。これまでの歩みが、神さまと多くの方々によって支えられてきましたことを感謝いたします。

 

 先ほどご一緒にエフェソの信徒への手紙21122節をお読みしました。改めて1418節をお読みいたします。1418節《実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。/それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです》。

 

 ここでは、イエス・キリストが《敵意という隔ての壁を取り壊し》16節)てくださった、という文言が出てきます。そうして私たちに《平和の福音》17節)を告げ知らせて下さったのだ、と。私たち教会はイエス・キリストが成し遂げて下さったこの《平和の福音》を伝えてゆく役割が与えられています。

 

 

 

敵意という隔ての壁

 

 平和を実現する上で、《隔ての壁》となるもの、それが本日の聖書箇所では《敵意》と表現されています。確かに敵意は人と人とを遠ざけ、また人と人との間に対立を呼び起こします。私たちが《平和の福音》を告げ知らせてゆくためには、この敵意といかに向き合ってゆくかが重要であるのかもしれません。

 

 敵意は私たちの内にも外にもあります。外ならぬ私たちの内に、敵意は存在することがあるでしょう。自分と異なる相手、または自分の意に沿わない相手を「敵」として憎んでしまう感情です。

 その感情が生じること自体を否定する必要はないでしょう。私たちが生きてゆく上で否定的な感情が生じてしまうのはある意味、当然のことです。重要であるのは、そのような敵意が生じたときに、そのまま無自覚に敵意の中に自らを投じてしまうのか、それとも立ち止まって冷静に自分の心の内を見つめてみるか、でありましょう。

 

 気を付けたいことは、私たちの《敵意》の中に含まれている「相手の存在を否定しようとする想い」です。私たちは誰かに《敵意》を抱くとき、その人が「いないほうがいい」「いなくなってしまえばいい」と思ってしまうことがあります。そのとき、私たちは、相手の存在そのものを否定してしまっていることになります。この問題が、平和を実現する上で大きな壁となっているではないでしょうか。

 

 

 

神の目に一人ひとりが「かけがえがない=替わりがきかない」存在であるという認識

 

 聖書が伝える根本的なメッセージ、それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」ということです。神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえなく大切であること。そのことを、主イエスもそのご生涯をかけて伝えて下さいました。

 

「かけがえがない」とは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりは替わりがきかない存在であり、だからこそ大切であるのです。 すべての人は神の目に、かけがえがない=替わりがきかない存在であるという認識を心に刻むところから、少しずつ、平和は創り出されてゆくのではないかと思います。

 

 どうしても自分とは合わない、という人はいるでしょう。感情的に好きになれない人もいるでしょう。その感情自体を否定する必要はありません。私たちに求められているのは、その相手の存在までは否定しない、という姿勢です。相手を実際に軽んじたり、排除したりするということは決してしない。その具合的な姿勢が求められています。

 

  ある人のことが「嫌い」だという感情と、その人もまた「神の目に大切な存在」だという認識は、両立し得るものであると思います。私たちは敵意の中に自らが埋没しそうになったとき、祈りの中で立ち止まり、このことを思い起こしてゆくことが求められているのではないでしょうか。もちろん、それはなかなか簡単にできることではないかもしれません。時間がかかることでもあるでしょう。しかし、聖霊なる主は必ず私たちに助けを与えて下さると信じています。

 

 

 

キリストの平和を心に刻み

 

 本日の聖書箇所はイエス・キリストを《新しい人》15節)と呼んでいます。この《新しい人》の体には、一人ひとりの存在が刻み込まれています。わたしも、あなたも、神の目に大切な一人ひとりの存在が、刻みつけられています。決して失われてはならない、かけがえのない存在として――。この《新しい人》において、平和は実現されています。

 

  花巻教会の創立を記念する今日、このキリストの平和を心に刻み、これからもご一緒に一歩一歩歩んでゆきたいと願います。