2020年8月23日「違いがありつつ、一つ」

2020823日 花巻教会 聖霊降臨節第13主日礼拝

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一211節‐39

違いがありつつ、一つ

 

 

コリントの信徒への手紙一211節‐39節《人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。/わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。/そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。/自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。/霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。/「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。/

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。/わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。/相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。/ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。/アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。/わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。/ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。/植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。/わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです

 

 

 

 

「一つ」という言葉

 

 8月も後半となりましたが、厳しい暑さが続いています。皆さまのお身体のお具合は大丈夫でしょうか。先週は岩手県内でも木曜日に釜石市で37.9度を観測、各地で猛暑日が続きました。静岡県浜松市では月曜日に国内最高気温と並ぶ41.1度を記録。大変危険な暑さとなっています。皆さまもどうぞ熱中症にはくれぐれもお気を付けください。

 

 さて、皆さんは「一つ」という言葉を聞いて、どのようなことをイメージするでしょうか。「皆で一つになる」などの表現を私たちは普段の生活で用いることがありますね。「一つ」という言葉には、皆が「同じになる(同じようになる)」とのニュアンスが含まれる場合があります。

「一つになろうとする」ことは、私たちの社会において重要なことであると同時に、場合によっては、それを相手に強要したり、あるいは従わない人を攻撃したり排除したりする方向へと向かっていってしまうこともあります。いわゆる「同調圧力」として働いてしまう危険性もあるのですね。

 

 たとえば、この度の新型コロナウイルスによる困難の中、皆で一律に同じ行動をすることが暗に強制されることに違和感を覚えていた方もいらっしゃることでしょう。また、皆と違う行動を取る人を攻撃したり、排除しようとする言動も一部の人に見られました。同調圧力が社会全体を覆うとき、いかに大きな力をもつかをこの度私たちは強く実感いたしました。

 

 その意味で、私たちは「一つになる」という言葉を用いる際、立ち止まって自らの在り方を顧みてみることが必要でしょう。自分たちの言動が同調圧力となって――あるいはそれに加担するかたちとなって――、他者の主体性を奪うことになってはいないか、そのことを見つめてみることも必要であるように思います。

 

 

 

違いがありつつ、一つ

 

 聖書の中にも「一つ」という言葉がたくさん出てきます。本日のコリントの信徒への手紙を書いたパウロという人も、繰り返し「一つ」という語を用いています。しかしパウロの手紙を読んでいて分かることは、パウロは「一つ」を皆が「同じになる(同じようになる)」ニュアンスの言葉としては使っていないことです。むしろ彼の手紙においては、それぞれに「違いがある」ことがむしろ非常に大切なこととして受け止められています。

 

 では、パウロにとって、「一つになる」とは、どのようなことだったのでしょうか。私なりに表現すれば、パウロが大事にしようとしていたのは「違いがありつつ、一つ」である在り方でした。

 

 

 

「体のたとえ」を通して ~違いがありつつ、一つに結び合わされ

 

 このことを分かりやすく伝えてくれている箇所がありますので、ご一緒に読んでみたいと思います。この箇所ではパウロは「体のたとえ」を用いて、「違いがありつつ、一つ」である在り方について私たちに伝えてくれています。

 

 コリントの信徒への手紙一121422節《体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。/足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。/そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。/すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。/だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。/目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。/それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです》。

 

 私たちの体はたくさんの部分で成り立っています。頭、目や鼻、口や耳、胴体、内臓……。それぞれが、違った役割を果たしています。

この聖書箇所では、そのように体の各部分に違いがあるように、私たち一人ひとりには違いがあるということが言われています。体の中のそれぞれの部分が、その部分にしかできない役割を果たしているように、私たちもそれぞれ、神さまから違った個性や役割が与えられている。すなわち、役割分担があるのだ、と。

 

ここに集っているお一人おひとり、それぞれに違いがあり、個性があります。「わたし」とまったく同じ人というのは、この世界に存在しません。私たちは一人ひとり、この世界にただ一人だけの、かけがえのない存在であるのです。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりはかけがえのない=替わりがきかない存在なのであり、神さまからの大切な役割が与えられている――そのことをパウロはこのたとえ話を通して私たちに伝えてくれています。

 

 目が手に向かって「あなたは要らない」と言えないように、頭が足に向かって「あなたは要らない」とは言えないように2122節)、私たちは本来、他者に対して「あなたは要らない」と言うことはできない。それぞれが、その人にしかできない大切な役割を担っているからです。

 

 このたとえ話においてもう一つ大切なこと、それは、体の各部分にはそのように「違い」がありつつ、同時に、「一つの体」であることです。一つの体に結び合わされていることです。

体が多くの部分で成り立ちつつ一つであるように、私たちもそれぞれに違いがありつつ、一つに結び合わされている。そうして互いに足りないところを補い合い、支え合って生きている――。そのことをこのたとえ話を伝えてくれています。

 

神さまは私たちをある意味「不完全」にお創りになったことで、私たちが独りぼっちで生きてゆくのではなくて、互いに補い合い、支え合って生きてゆくことができるようにしてくださったのかもしれません。 私たちの人生に「共に生きる」ことの喜びを与えるために……。もしも完璧で何も欠点や短所がない人がいたとしたら、その人はきっとその分、孤独であるのではないでしょうか。

 

 

 

時に違いをゆるせなくなってしまう私たち

 

 さて、本日は聖書が伝えてくれている「違いがありつつ、一つ」である在り方について述べました。違いを「あってはならないもの」と否定的に受け止めるのではなく、むしろ違いを「あってよいもの」「あって素晴らしいもの」として肯定的に受け止め直してゆくこと。そうして互いの違いを受け入れ、尊重しあってゆくことを通して、「一つ」に結び合わされてゆくこと、このことの大切さを聖書は私たちに思い起こさせてくれます。

 

 一方で、気が付けば、自分と相手との違いを受け入れることができなくなってしまうのが私たちです。違いがあることが、ゆるせなくなってしまう。そうして「あなたも自分と同じになれ」と、相手を無理矢理自分にあわせようとしてしまう。あるいは、相手を攻撃し、「あなたは要らない」と排除しようとしてしまう。そのような振る舞いをしてしまうのが、私たちの率直な姿でもあります。特に、自分こそ「正しい」と思えば思うほど、私たちはそのような極端な状態に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 

 

 

「畑のたとえ」を通して ~《成長させてくださったのは神》

 

 それは、パウロが当時関わっていた教会においてもそうだったようです。パウロが関わっていたコリントの教会の中でも、イエス・キリストへの信仰理解の違いが原因で、人々の間に対立や

争いが生じてしまっていたようでした。《ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っている(コリントの信徒への手紙一34節)状況があることをパウロは手紙の中で述べています。それぞれが、自分たちこそ「正しい」として、ゆずらない状況があったのです。

 

 パウロはこのような現状を悲しみ、次のように述べています。《アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。/わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です56節)

 

ここでパウロはもう一つのたとえ、「畑のたとえ」を用いています。当時、コリントの教会の指導者的立場にあった人物に、パウロと、もう一人アポロという人がいました。「畑のたとえ」で言うと、パウロは苗を植えた、そして次にアポロは水を注いだ。これはどちらの作業の方が優れているということではなく、必要な役割分担であったことをパウロは述べています。パウロにも、アポロにも、違った役割が与えられていたのです。

 

何よりも大切なことは、そのような自分たちの働きを用いて、教会を成長させてくださったのは神であることを心に留めることだとパウロは述べています。私たちに異なる役割を与え、それを豊かに用いてくださるのは神、そして成長させてくださるのも神であるのです。

 

時に互いの違いをゆるせなくなってしまう私たちですが、そのような時、自分のまなざしを神さまの方に向けることが何より重要であることを、ご一緒に心に刻みたいと思います。

私たちの目からすると、自分とは異なる相手が受け入れがたく思えても、神さまの目からすると、そうではない。神さまの目から見ると、自分も、相手も、等しくかけがえのない存在であるのです。自分も、相手も、等しく大切な役割が与えられているのです。

 

私たち一人ひとりを価高く貴い存在(イザヤ書434節)として受け止め、それぞれに大切な役割を与えて下さっている神さまの愛へと、いま私たちの心を開きたいと思います。