2021年1月31日「最も小さな存在」

2021131日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書51720

最も小さな存在

 

 

マタイによる福音書51720節《「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。/はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。/だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。/言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

 

 

受難節とイースターに向けて

 

一昨日から昨日にかけて、発達した低気圧や寒気の影響によって、北日本各地で大雪となりました。皆さんもこの3日間、雪かき作業が大変だったことと思います。盛岡では昨日、50㎝の積雪を記録。盛岡で積雪が50㎝を超えたのは、2011年(113日)以来10年ぶりとのことです。10年前の震災の年も、ちょうど雪が多い年であったのですね。

教会の周りも昨日は30㎝以上は積もっていました。ただ、教会には除雪機がありますので、とても助かっています。安全に気を付けつつ、除雪作業をしています。皆さんも雪かきの際、またお車の運転の際は安全にくれぐれもお気を付けください。

 

 本日で1月も終わりです。2月の半ばから、教会の暦で受難節に入ります。イエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。受難節は217日(水)から43日(土)まで続きます。そして44日(日)、私たちはイースター(復活日)を迎えます。

 なかなか先のことが見通せない中にありますが、受難節とイースターに向けて私たちの心を整えてゆきたいと思います。

 

 

 

律法の根底に流れる精神 ~神への愛と隣人への愛

 

先ほどご一緒にお読みしましたマタイによる福音書51720節には、「律法」という言葉が何度も出てきました。律法とは、旧約聖書に記された神さまの掟のことを言います。モーセという人物を通してイスラエルの民に与えられた十戒(十の掟)はよく知られていますね。旧約聖書にはこの十戒を始めとし、たくさんの神の掟が記されています。ユダヤ教では伝統的に聖書には613の律法が記されているとしているそうです。

 

ユダヤ教徒の人々はこの律法を日々の生活の中でいまも大切に守り続けています。対して、キリスト教は律法の文言の一つ一つをもはや文字通りに守ることはしていません。キリスト教においては、「律法を遵守する」ことから「イエス・キリストを信じる」ことへと信仰の重点が移っているからです。しかしだからといって、律法を軽んじているわけではありません。その掟の一つひとつをもはや文字通りに実行はしていなくても、613の掟の根底に流れている精神をいまも最も大切な事柄の一つとして受け継いでいると言えるでしょう。

 

 律法の根底に流れている精神とは何でしょうか。それは、神への愛と隣人への愛です。神さまを愛することと、隣人を愛すること。この二つの精神が律法の根底に流れているものであることが、これまで、多くの人々によって指摘されてきました。

 

 このことは、イエス・キリストご自身も指摘されています。主イエスは福音書の中で、たくさんある律法の掟もただ二つのこと――神への愛と隣人への愛に基づいて記されているのだと語っておられます。

マタイによる福音書223740節《イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』/これが最も重要な第一の掟である。/第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』/律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は申命記65節に記されている掟です。「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記1918節に記されています。主イエスはこの二つの掟を取り上げ、ここに示されている神への愛と隣人への愛に基づいて律法全体が書かれているのだと教えて下さいました。

この主の教えを受けて律法を読み直してみると、把握しがたいように思われる律法も私たちにとって理解し得るものとなってくるのではないでしょうか。

 

 

 

ヘブライ語のアルファベット「ヨード

 

 改めて本日の聖書箇所をお読みしたいと思います。マタイによる福音書51719節《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。/はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。/だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる》。

 ここで主イエスは、ご自分が来たのは律法を「廃止するため」ではなく、「完成するため」であるとおっしゃっています。律法の根幹にある神への愛と隣人への愛を完成させるため、私たちのもとへ来られたと語られているのです。

 

このマタイ福音書の言葉の中で、注目したい表現があります。18節《すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない》の中の《一点一画》という表現です。

《一点一画》の「一点」は、ヘブライ語のアルファベットの一つである「ヨード」という文字がイメージされているようです。「ヨード」は小さな点のような形をしており、思わず見落としてしまいそうな文字です。主イエスはここで「ヨード」という小さな文字を取り上げることを通して、律法の中でも見落とされがちな《小さな掟》19節)にこそ目を注ぐことの大切さを伝えてくださっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

弱い立場にある人々への配慮を教える律法

 

律法の中でも見落とされがちな《小さな掟》とは何だったのでしょうか。主イエスが生きておられた時代、社会の中で見落とされがちであったのは、「弱い立場にある人々への配慮を教える律法」でした。

 

 例として、該当する律法の一つをご紹介したいと思います。《寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。/あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを命じるのである(申命記241718節)

《寄留者》とは、自分の氏族や部族以外の土地で生活する人々のことを指します。寄留者は自分の土地を持たず、自分の権利を主張できない、弱い立場にありました。同様に、《寡婦》と《孤児》も古代イスラエル社会において弱い立場にありました。いま引用した律法ではこれらの社会的に弱い立場にある人々の「権利をゆがめてはならない」との警告が発されています。

 社会的に弱い立場に追いやられている人々をいかに守るかを教える律法は、「人道的な律法」とも呼ばれます。この人道的な律法の根底にあるものが、隣人への愛です。隣人を大切にすることについての具体的な教えが人道的な律法であるとも言えるでしょう。

 

 

 

律法を完成するために

 

人道的な律法と共に、重要なもう一つのものに、「祭儀的な律法」があります。祭儀(礼拝)の仕方について記された掟です。神さまへの献げ物についての掟、安息日についての掟、清いものと汚れたものについての掟など、神さまを礼拝することにつながる宗教的な教え全般がこの「祭儀的な律法」に該当します。神さまを愛することについての具体的な教えが祭儀的な律法であると言えるでしょう。

 

先ほど申しましたように、律法の根幹にあるのは、神さまへの愛と隣人への愛です。そのどちらが欠けても、律法の精神は成り立ちません。けれども、主イエスが生きておられた当時、隣人への愛を教える律法は、神さまを礼拝するための律法の陰に隠れて、見えにくくされていたようです。宗教的・政治的な指導者たちは神殿で熱心に礼拝をささげる一方、神殿の外の貧しい人びとの存在には無関心、という現状があったようなのです。特に、弱い立場にある人々への配慮を教える律法は、取るに足らない、小さな掟であると見なされてしまっていたのかもしれません。

 

 そのような状況の中、主イエスは「ヨード」という文字のように、小さく、目立たなくされている律法の教えに改めて光を当ててゆかれました。隣人を大切にすることを教える掟を拾い上げ、光を当て、そして完成へと導かれてゆかれました。弱くされ小さくされた人々を自ら訪ね、その痛みを癒し、その尊厳を取り戻してくださいました。主ご自身が、隣人への愛を身を持って体現され、そして完成へと導いてくださったのです。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである17節)

 

 

 

小さな「ヨード」に目を注ぐ

 

 本日はご一緒に律法について記された聖書の言葉をお読みしました。小さな「ヨード」に目を注ぐ主イエスのまなざしは、いまも私たちに大切なメッセージを伝え続けてくださっているように思います。私たちもまた、小さな「ヨード」に目を向けることを見失ってしまうことがあると思うからです。

 

私たちの心はつい目立つものや派手なものの方に向いてしまうものです。人々の目をより惹くものが高い評価を受ける傾向もあるでしょう。しかし律法の精神というものは、むしろ人の目には気づかれないような、小さな行為の中に宿るものであるのかもしれません。ささやかな、小さな行為であってもよい。人のために何か行動を起こすこと。手助けしようとすること。思いやりをもった言葉を発すること。特に、いま弱い立場にあり困っている人のために祈り、自分にできることをなそうとすること。これらのささやかなことのようにも思える行為の積み重ねが、隣人を愛し、神さまを愛することへとつながってゆくのだと思います。

 

 

 

十字架の主に目を注ぐ

 

 いまご一緒に小さな「ヨード」という文字に目を注ぐ大切さを確認しました。最後に、他ならぬ主イエスご自身が、そのご生涯を通して最も小さな存在になってくださったことを心に留めたいと思います。

 

 2000年前、主イエスは赤ん坊の姿でこの世界に誕生されました。弱く、小さな存在としてこの世界にお生まれになって下さいました。

そうしてご生涯の最後に、十字架の上で、最も弱く、小さな存在となられました。ご自身が「ヨード」のように小さな文字となって、私たちの弱さをその身に負ってくださったのです。そうして、神を愛し隣人を愛するという律法を完成して下さいました。

小さな「ヨード」に目を注ぐことは、十字架におかかりになった主イエスに目を注ぐこととつながっています。

 

 いま私たちの心を、小さな「ヨード」に、そして十字架の主のお姿に向けてゆきたいと願います。