2022年2月6日「神の国のたとえ」

202226日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編1092131節、ペトロの手紙一12225節、マルコによる福音書41012節、2134

神の国のたとえ

 

 

 

「あなたは悪くない」という声かけを

 

国内でオミクロン株の感染拡大が続いています。皆さんも感染対策をしつつ、不安の中を過ごしていらっしゃることと思います。私たち自身、あるいは私たちの家族や身近な人がいつ感染してもおかしくない状況です。私も先週、大阪の親しい友人からオミクロン株に感染したとの報告を受けました。のどの痛みや微熱などの症状は数日でおさまり、いまは元気だということで、まずはホッとしています。

先週も礼拝のメッセージの中で申しましたが、ウイルスへの感染は「罪(悪)」ではありません。感染したことに関し、本人や関係者にまったく非はありません。全国的に感染が拡大している状況のいま、改めて「あなたは悪くない」と互いに声をかけ合い、労わりあってゆきたいと思います。いま療養中の方々の上に主の癒しがありますよう、適切な治療がなされますように願います。また、いま不安の中、困難の中にある方々の上に主の支えがありますよう、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

「成長する種」のたとえ

 

本日の聖書箇所には、イエス・キリストのたとえ話が記されています。福音書を読みますと、イエスさまは様々なたとえ話を好んで用いられていたことが分かります。本日は特に、42629節の「成長する種」のたとえ、3032節の「からし種」のたとえについて、ご一緒に思いを巡らしてみようと思います。いずれも、「神の国のたとえ」として語られているものです。

 

一つ目の「成長する種」のたとえを改めて読んでみましょう。2629節《また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、/夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。/土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。/実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」》。

このたとえでは、植物を成長させる「土」にスポットが当てられています。土に蒔かれた種は、人が知らない間に芽を出し、成長してゆきます。そのように、土はおのずと実を結ばせ、豊かな収穫をもたらします。もちろん、種を蒔き水をやるのは人の仕事ではありますが、成長させるのは私たち人間を超えた力です。大地に含まれた、その目には見えない不思議な力にスポットを当てているのがこのたとえです。

 

 

 

「からし種」のたとえ

 

続いて、二つ目のたとえ話を見てみましょう。この「からし種」のたとえでは、今度は蒔かれた「種」にスポットが当てられています。取り上げられているのは「からし種」と呼ばれる小さな種で、当時、「最も小さいもの」を表す表現として人々はこの種を用いることがあったそうです。

3032節《更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。/それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、/蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」》。

小さなからし種ですが、成長すると、他のどんな野菜よりも大きくなることが語られています。葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど、大きな枝を張るようになる。ここでも、私たち人間の力を超えて、そのような不思議が起こることが語られています。

 

 

 

神の国のたとえ ~私たちは「生かされている存在」

 

 イエス・キリストは、これらのたとえ話を「神の国」を指し示すものとして語られています。神の国とは、神の王国とも言い換えることができる言葉です。神さまの愛の支配が満ち満ちている場、一人ひとりの生命と尊厳が大切にされている場が神の国であると受け止めることができるでしょう。神の国の不思議な力に立ち会うとき、私たちはむしろ受け身の存在となります。自分の力で何事かを成し遂げる、というよりも、神の力を間近で目撃する者とされてゆくのです。

 

使徒パウロの手紙に、次の言葉があります。《わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。/ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です(コリントの信徒への手紙一367節)

本日のたとえ話から、また引用したパウロの手紙から汲み取ることができるメッセージは、私たちは「生かされている存在」であるということです。自分の力だけで生きているのではなく、自分を超えた力によって、生かされ、支えられている。イエスさまは本日の神の国のたとえを通して、その恵みを私たちに伝えてくださっているのではないか。本日のたとえ話を思い巡らすことを通して、そのように私は受け止めました。

 

 

 

能力主義の問題 ~努力と才能によって、人は誰でも成功できる?

 

 また同時に思わされたことは、いまの私たちの社会の価値観は、このたとえ話で語られているものとは対照的なものとなってしまっていることです。自分の力で何とかしなければならない、自分の努力によって何事かを成し遂げねばならない、そのような風潮が非常に強いものとなっているのではないでしょうか。

 

昨年、『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳、早川書房、2021年)という本を読みました。ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏が記したものです。この本でサンデル教授が取り上げているのは、「能力主義」(原著ではメリトクラシー。『功績主義』とも訳すことできます)の問題です。サンデル氏はこの能力主義が、アメリカ社会に深刻な分断をもたらしていることを述べています。

 

 この能力主義とは、「努力と才能によって、人は誰でも成功できる」という信念のことを指しています。簡単に申しますと、「やればできる!」という考え方です。この能力主義においては、そのための機会を人々に平等に与えることが重要とされます。いわゆる「機会の平等」ですね。

一方で、この視点は、「成功できなかったのは努力が足りなかったからだ」との考えを生じさせます。すべてが、本人の責任にされてしまうわけですね。マイケル・サンデル氏は、社会的な成功というのは、実際には、「運の役割」が大きいことを指摘しています(同、4041頁)。人は本人の努力と才能だけによって、成功をするわけではない。幸運な偶然が大きな要素を占めているものです。そこにはもちろん、育ってきた環境や、自分を支えてくれる人との出会いも含まれます。けれども、競争の激しい能力主義社会で勝利を勝ち取ってきた人々は、その競争の激しさゆえ、様々な恩恵によっていまの自分の立場があることを忘れてしまう。自分は自分一人の力で、自分の努力と才能によってこの立場にまで至ることができたのだと自負し、そうして競争に負けた人々を「努力が足りなかった人々」とみなして見下してしまうのだ、と。

 

社会的な成功を得るため、必須のものとされているのが学歴です。サンデル氏は、現在のアメリカ社会は「学歴偏重主義」が顕著であり、人種差別や性差別が改善されつつある時代にあって、学歴偏重主義は容認されている《最後の偏見》であると述べています(同、141頁)。低学歴の人々が軽んじられ差別されている現状があるのです。能力主義的考えに基づくと、学歴が低い人は「努力が足りない人たち」(怠惰な人たち)とみなされてしまうからです。

またそして、社会的な成功を得ることができなかった人々の内には、エリートたちへの怒りや恨みが蓄積されてゆきます。仕事が見つからない、あるいは懸命に日々の生計を立てている人々は、自分たちが見下され、差別されていることをひしひしと肌身に感じ取っているからです。

 

このようにしていま、アメリカ社会には深刻な分断が起こってしまっているのだとサンデル氏は述べます。いわゆる社会的なエリートと、そうでない人々との間の分断です。そしてこのような分断を生み出してしまっているのが、能力主義とその問題であるのです。

 

アメリカでは近年、自殺や薬物の過剰摂取、アルコール性肝臓疾患によって亡くなる方が増えています。それらは生きることの意欲を喪失したことによる死であることから「絶望死」と呼ばれ、深刻な社会問題となっています。特に、学歴の低い人々(大学の学位を持たない人々)にその増加の傾向が顕著であるとのことです(同、284287頁)。このことからも、能力主義とその問題がいかに人々の生命と尊厳とを傷つけているかが伺われます。

 

 

 

すべてが自己責任とされる中で

 

 マイケル・サンデル氏が報告しているのはアメリカ社会の現状ですが、このことは、私たち日本の社会にも当てはまるものではないでしょうか。「努力と才能によって人は成功できる」という信念は私たちの社会に深く根を下ろしていますし、「結果が出せなかったのは努力が足りなかったから」という考えも同様に深く根を下ろしているように思います。たとえば、大学受験において、あるいは就職活動において、多くの人がこの能力主義的な考えに直面し、そして苦しんでいます。うまくいかなかったことはすべて、本人の責任(自己責任)とされる中で、生涯癒えることがない深い傷を負った方も本当に数多くいらっしゃることでしょう。

 

 もちろん、努力することは大切です。自分の才能を伸ばしてゆくことも大切です。「やればできる!」という言葉は、私もつい言いたくなってしまうものです。「努力は人を裏切らない」という言葉もありますね。ただ、すでに述べましたように、勝利や成功は、運の役割――《自分の支配できない力》(同、111頁)によるものも大きいものです。どれほど努力をしても、思うような結果が出ないこともあります。そしてそれは多くの場合、本人の責任を超えたものです。成功した人は、様々な要因によって、たまたま成功した。成功しなかった人は、たまたま成功しなかった。そのくらいの感覚で、私たちは物事の結果を受け止める方が良いのかもしれません。少なくとも、うまくいったことで他者を見下したり、あるいは、うまくいかなかったことで自分を過度に責めたりすることからは、私たちは解き放たれてゆくべきでありましょう。

 

 サンデル氏は、社会的な「敗者」とされた人が深く傷つき怒りを抱えているのはもちろん、同時に、「勝者」も傷ついていると述べています。成功に至るまで、《能力主義の激しい競争に駆り立てられ、苦しみ、魂をむしばまれながら》生きてきたからです(同、256頁)。一流大学に入学した若者たちは《頑張れ、結果を出せ、成功せよ》という絶えまない圧力にさらされ続けてきました(同、260頁)。偏った能力主義は、あらゆる立場の人々の魂をむしばんでゆくものであることが分かります。

 

 

 

神の国のまなざしを私たちの内に取り戻す

 

 改めて、本日のイエス・キリストの神の国のたとえに心を向けたいと思います。本日お読みした二つのたとえ話では、私たちが自分の力だけで生きているのではなく、自分を超えた神の国の力によって、「生かされている」ことが語られていました。能力主義的な考え方が私たちを縛る中にあって、この神の国のまなざしを私たちの内に取り戻すことの大切さを思わされます。神の国の「土」の匂いと、その手触りを取り戻してゆくこと。

 私たちは一人ひとり、神さまの愛と恵みによって生かされ、支えられているものです。自分だけの力で生きているのではありません。努力や才能だけによって生きているのでもありません。私たちの存在は、そのままに、神さまの愛の中で生かされ、受け止められているものです。

 

この神の国において大切なのは、「いること」です。私たちが生きて存在していること、そのことこそが何よりも貴いことです。この神の国の視点を土台にすることで、私たちは少しずつ、過度な能力主義的考えを、より健やかなものに変えてゆくことができるのではないでしょうか。

 

能力主義自体を完全になくすことは難しいでしょう。社会にとって必要な側面もあるからです。私たちはそれを偏った在り方からより健やかな在り方へ変えてゆくことはできます。努力をすることはとても尊いことです。しかしもはや結果を出し成功することだけを目的にするのではない。学ぶこと自体に楽しさが、賜物を活かして働くこと自体に喜びと誇りがあるので私たちは懸命に取り組む。そのような形で努力をすることができたなら、いかに幸せなことでしょうか。

 

 

結果がどうなるかは、それは、神さまの領域です。神さまにお委ねしたら良いのでしょう。私たち一人ひとりの働きは小さな「からし種」のようなものかもしれませんが、神さまはその力によって、御心のままに、いつの日かそれらの種を大きな樹としてくださることでしょう。たとえ私たちの目には、この人生において何事も成し遂げることができなかったと思えたとしても――。私たち一人ひとりの働きを用いて、いつの日にか、空の鳥がその葉の陰で羽を休め、巣を作ることができるようにしてくださることでしょう。その信頼と希望をも、私たちには与えられています。