2022年3月6日「時は満ち、神の国は近づいた」

202236日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:エレミヤ書312734節、ヘブライ人への手紙21018節、マルコによる福音書11215

時は満ち、神の国は近づいた

 

 

受難節、東日本大震災と原発事故から11

 

私達は現在、受難節の中を歩んでいます。受難節は教会の暦で、イエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。今年は受難節は416日(土)まで続きます。

 

 前奏が流れた際、講壇の前に並べている7本のロウソクの中の1本の火を消したことにお気づきになった方もいらっしゃると思います。受難節の礼拝では伝統的に、ロウソクの火を毎週一本ずつ消してゆくことがなされることがあります。洗足木曜日である414日(木)には、7本すべての火が消えることとなります。受難節のこの時、イエスさまのお苦しみを心に留めつつ、また、暗闇の向こうから差し込むイースターの光を希望としつつ、歩んでゆきたいと思います。

 

私たちはこの3月、東日本大震災と原発事故から11年を迎えます。本日は午後から、東日本大震災11年を覚えての礼拝が行われます。花巻教会は当教会会堂にて、オンラインを通して参加します。震災と原発事故を覚え、いまも大きな困難の中、深い悲しみや痛みの中にいる方々を覚えて、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

荒れ野の誘惑

 

先ほど、現在教会の暦で受難節の中を歩んでいると申しました。受難節は「四旬節」とも呼ばれます。四旬節は「40日の期間」を意味する言葉です。受難節は正確には46日間ですが、日曜日を除くとちょうど40日間となります。

 

40」は、聖書において度々出て来る数字です。旧約聖書には、モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出した後、40年の間荒れ野の旅を続けたことが記されています。また、本日の聖書箇所であるいわゆる「荒れ野の誘惑」の場面においては、イエス・キリストが40日間荒れ野にとどまってサタンから誘惑を受けられたことが記されています。

 

 改めて、本日の聖書箇所であるマルコによる福音書11215節をご一緒に振り返ってゆきたいと思います。まずは前半の荒れ野の誘惑の場面をお読みいたします。1213節《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。/イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》。

 

 イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた後、聖霊の力に促されて、《荒れ野》に向かわれました。イエスさまが送り出された荒れ野がどの辺りであったのか、具体的な場所は定かではありません。イスラエルには、死海に向かって拡がるユダの荒れ野と呼ばれる一帯がありました。一年中ほとんど雨が降らない砂漠のような地域です。イエスさまが向かわれたのは、このユダの荒れ野にいずこかであったのかもしれません。

 

イエスさまは荒れ野にて、40日間に渡ってサタンから誘惑を受けられたことを福音書は記します。荒れ野の誘惑の場面と言えば、「石をパンに変えたらどうだ」というサタンの誘惑、そしてその誘惑に対するイエスさまの言葉、「人はパンのみにて生くるものにあらず」が有名ですね。これらサタンとのやり取りが記されているのはマタイ福音書4111節)とルカ福音書4113節)で、本日の聖書箇所であるマルコ福音書には記されてはいません。マルコ福音書は簡潔に、《イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた》とだけ記しています。

 

ただし、マルコによる福音書はここに印象的な一文を加えています。《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》。《野獣》の存在を示唆しているのはマルコ福音書だけです。

《野獣》は、場合によっては私たち人間に危害を加えるかもしれない存在です。たとえば狼は場合によっては人に襲い掛かるかもしれませんし、蛇は人に噛みついて体に毒をまわらせてしまうかもしれません。イエスさまは荒れ野にて、それら危険な野生の動物といっしょにおられたのだとマルコ福音書は記します。

 

 ここでの《野獣》とは、ある種の象徴的な表現としても受け止めることができるでしょう。私たちを取り囲んで危害を及ぼそうとしている何ものかの象徴、です。本日は、イエスさまを取り囲んでいたのは、《野獣》のイメージに象徴されるような、あらゆる「敵意」であったと受け止めてみたいと思います。敵意に囲まれ、その脅威にさらされることが、ここでのイエスさまにとっての試練であったと受け止めてみたいと思います。

 

 

 

敵意に敵意を返さない

 

敵意を向けてくる相手がいたとしたら、私たちはその相手に非常に圧迫感を感じることでしょう。またそして恐れを感じることでしょう。強い恐れに囚われたとき、私たちは相手の敵意に敵意をもって返すよう振舞います。自分に敵意をもつ存在は、自分にとっても敵であるからです。

 

敵意に敵意を返そうとしてしまうのは、私たちの防衛本能からするとごく当然のことでもあるかもしれません。一方で、敵対する相手もやはり恐れから自分に敵意をもって向かってきているのかもしれません。最も恐ろしいことは、そうして互いに敵意に敵意を返し続ける中で、その負の連鎖から抜け出せなくなってしまうことです。敵対関係がどんどんと強められ、憎しみに憎しみを返し、暴力に暴力を返す負の連鎖から抜け出せなくなってしまうことです。

 イエスさまも荒れ野にて、《野獣》に象徴される敵意に対し、ご自身も敵意をもって返すようにサタンから誘惑されたのだとしたら、どうでしょうか。しかし、イエスさまはその誘いにのることはなさいませんでした。敵意に敵意をもって返すことはなさらなかった。

 

イエスさまは《四十日間》荒れ野にとどまっておられたと福音書は記しますが、《四十日》は長い時間を示唆する表現です。主イエスは長きに渡って忍耐を続けられ、その結果、《荒れ野》に平和を実現された(イザヤ書1169節)ことが示唆されています。そうしてもはや、ご自分を取り囲む《野獣》たちと敵対関係になることはなくなった。敵意ではなく、「和解」の精神の象徴として登場しているのが《天使たち》です。《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた》。イエスさまは長い忍耐の末に、サタンの試みに打ち勝たれたのです。

 

 

 

《荒れ野》の出現

 

イエスさまがサタンから試みを受けられた《荒れ野》という場所について改めて考えてみますと、この《荒れ野》も、一つの象徴として受け止めることができると思います。《荒れ野》とは、敵意に満ちている場所、そうして互いの関係が断絶されてしまっている場所、そのような場所の象徴であると本日は受け止めてみたいと思います。そしてその《荒れ野》を棲み家として、私たち人間を互いに敵対しあうように働きかけている力が「サタン」です。

 

 そう受け止め直してみますとき、《荒れ野》とは、私たちの日々の生活のどこにでも、出現し得る場所であることが分かります。私たちが互いに敵意をもって相対するとき、そこに《荒れ野》は出現します。現在の私たちの社会を見てみますと、いかに多くの《荒れ野》が出現してしまっていることでしょうか。互いに敵意をもち、関係が分断されてしまっている状態が数多くあります。個人と個人において、組織と組織において、そして国家と国家において……。残念ながら、内外のあらゆるところに《荒れ野》が出現しているというのが、いまの私たちの社会の現状です。

 

 

 

ウクライナの危機的状況

 

私たちの内外に出現する《荒れ野》を思うとき、まっさきに想起せざるを得ないのが現在のウクライナの状況です。

 

ロシア軍による侵攻(侵略)が続いています。両軍の兵士そしてウクライナの市民の方々の命が犠牲となる中で、プーチン大統領はあろうことか、核戦力を念頭とした特別態勢への移行を命じました。核の脅威をちらつかせることで情勢を有利に運ばせようとする意図なのでしょうが、決して容認することのできない発言です。核兵器の使用は、私たち人類の歴史において今後二度とあってはならないことです。核兵器の使用は、広島と長崎で終わりにしなければなりません。

 

また、大変懸念されるのは、ヨーロッパ最大のザポリッジャ(ザポロジエ)原発の関連施設へロシア軍が砲撃をし、火災が発生、その後ロシア軍が制圧したことです。核兵器の使用が二度となされてはならないのと同様、チェルノブイリや福島のような原発事故も今後、二度とあってはならないことです。たとえ核兵器を使わなくても、稼働中の原発を攻撃することによって破滅的な被害をもたらすことが可能であること、その恐ろしさをこの度改めて思い知らされています。

 

この度の一連のプーチン大統領と一部の為政者たちの言動はゆるすことができないものであり、侵略行為は決して容認できないものです。と同時に、ウクライナのゼレンスキー大統領の言動にも、強い違和感を覚えます。ゼレンスキー大統領と一部の為政者たちは国民に対して総動員令を発令し、18歳~60歳の男性は出国禁止にし、武器を取ってロシア軍に抗戦するよう呼び掛けています。夫あるいは父をウクライナに残し、他国へ避難せざるを得なかった家族の悲痛はいかばかりのものでしょうか。また残された男性たちの心痛も、いかばかりのものでしょうか。昨日のニュースでは両軍の合意により、ようやく一部の都市で停戦に入り、市民を避難させる人道回廊を設置することになったと発表されていますが、いまだ多くの地域で市民を――子どもたちをも――巻き込む悲惨な戦闘が続けられています。

 

武器をとって国家のために戦うことを市民に求めるゼレンスキー大統領の言説は、「国のために命をささげよ」と強要した戦時中の日本軍と変わることがありません。ゼレンスキー大統領もまた、守るべきものを取り違えています。国民の命を守ることこそが、政治家に課せられた第一の責務です。国家の存立のために国民に犠牲を強要することは、極めて危険な考えです。私たち人類はこれまで、幾多の悲惨な戦争を経て、それをしてはならないことを学んできたのではなかったのでしょうか。この度の戦争に関しては、初めに敵意をもって攻撃をしてきたのは、確かに、ロシア軍です。しかしその敵意に敵意をもって返し、暴力に暴力をもって――しかも市民を巻き込むかたちで――応戦しようとしていることは、決して正しい判断とは言えないものです。その連鎖からは悲惨な状況しか生み出されません。

 

一刻も早くロシア軍が侵攻を停止し、停戦へと至り、これ以上両軍および市民の貴い生命が失われることがないように、また困窮している方々に必要な支援が行き渡りますように願います。

 

 

 

時は満ち、神の国は近づいた

 

本日の聖書箇所の後半部分を改めて見てみたいと思います。荒れ野での誘惑に打ち勝ち、ガリラヤへ戻られたイエスさまは、次のことをおっしゃいました。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい15節)。イエスさまが公の活動を開始するにあたって発された、はじまりの言葉です。

 

 ここでの「神の国」とは、ある特定の国家を指すものではありません。キリスト教が支配する王国のようなものが想定されているのでもありません。そうではなく、神さまの愛のご支配が満ち満ちているところのことを指しています。私なりに表現すると、「神さまの目に大切な、一人ひとりの生命と尊厳が尊重されている場」のことです。そのような場として、本日はご一緒に神の国を受け止めてみたいと思います。《時は満ち、神の国は近づいた》――時が満ち、その神の国がいままさに私たちの足元に到来しようとしていることをイエスさまは宣言されました。

 

国に誇りを持ちそれを尊ぶことは、もちろん大切なことです。古代イスラエルの人々も、イエスさまに従った弟子たちも、自分たちがイスラエル民族であることにこの上のない誇りをもっていました。けれども、イエスさまが宣べ伝えようとしていた神の国とは、国家や民族をその主体とするものではありませんでした。イエスさまが願っておられたのは、一人ひとりの生命と尊厳が尊重される、まったく新しい世界の在り方でした。イエスさまが伝えられた神の国において重きが置かれているのは、国家や組織ではなく、一人ひとりの個人です。

 

一人ひとりの生命が守られ、尊厳が確保されてゆくことが、何にもまして優先されねばならないのだということ。この真理を、私たちはいま改めてすべての営みの土台に据えてゆくべきことが求められています。国のために、国民の命と尊厳が犠牲にされることがあってはなりません。いまこそ、私たちが心の向きを変え、神の国の平和を求めて立ち上がる、その「時」です。

 

 

 

《国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない》

 

本日は荒れ野の誘惑、そして、イエスさまの《時は満ち、神の国は近づいた》との言葉をご一緒にお読みしました。敵意に敵意を返さず、憎しみに憎しみを返さず、暴力に暴力を返さない。私たち一人ひとりをかけがえのない存在として尊んでくださっている神さまの愛を根底に据えること。イエスさまは私たちにその和解と平和への道筋を示し続けてくださっています。いまや、私たちの《荒れ野》には、その主の道がまっすぐに敷かれています(マルコ福音書123節)

 

 神の国の平和が私たちの間に現実に実現されてゆくのには、いまだ長い時間がかかるかもしれません。イエスさまご自身もかつて《荒れ野》にて、長い時間をかけた闘いを経験されました。そうしてその《荒れ野》において、まことの平和を実現してくださいました。敵意を滅ぼし、神の愛による平和を実現してくださいました。私たちはイエスさまによって示されたこの神さまの愛を信じています。私たちがこの愛に信頼を置き、この愛に根ざして忍耐強く歩む時、私たちの足元に少しずつ、神の国が実現してゆくでしょう。

 

 最後に、預言者イザヤの言葉をお読みいたします。イザヤ書245節《主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。/ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう》。

 

私たちはもはや、武器をとって戦うことは学ばない。一人ひとりをかけがえのない存在として愛されたイエスさまのお姿にこそ学び、和解と平和への道を共に歩んでゆきたいと願います。