2022年5月1日「わたしは良い羊飼い」

202251日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編2316節、ペトロの手紙一5111節、ヨハネによる福音書10718

わたしは良い羊飼い

 

 

金曜日からゴールデンウイークに入っていますが、いかがお過ごしでしょうか。新しい年度が始まって1か月ほどが経ちました。疲れも溜まっている頃かと思います。岩手県内はまだまだ朝晩、肌寒いですね。一昨日から昨日の朝にかけて、県内の各地で季節外れの雪が降りました。寒暖の差が激しく調子を崩しやすい時期でもあります。皆さんもどうぞお体ご自愛ください。

 

新型コロナウイルスの感染者数は岩手県内はなかなか大幅な減少には転じませんが、少しずつこれまでの日常を取り戻しつつあります。全国的に、基本的な感染対策はしつつ、通常通りの生活をするという方向に向かっているようです。

長きにわたる新型コロナ感染対策によって、私たちの社会は甚大なる影響を受けました。この度のコロナ対策によって今後、人々の心身にさらにどのような影響が出て来るかも未知数です。いま困難の中にある方々に必要な支援が行き渡りますように、新型コロナウイルス後遺症、新型ワクチン後遺症によって苦しんでいる方々の上に神さまからの癒しがあり、また必要な支援がなされますように祈ります。

 

 224日に始まったウクライナ侵攻から、2か月余りが経ちました。いまだ停戦への合意はなされず、このまま戦争が長期化してゆく可能性も懸念されています。停戦への合意へ一刻も早く至りますように、これ以上かけがえのない命が傷つけられ、失われることがないように切に願います。

 

 

 

アガペーなる愛 ~相手の存在を重んじ、大切にすること

 

 私たち花巻教会は、先週の礼拝後、2022年度の定期総会を行いました。年間の主題聖句として選んだのは、昨年に引き続き、コロサイの信徒への手紙314節です。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。この聖書の御言葉を心に留めて、今年度もご一緒に歩んでゆきたいと思います。

 

聖書における愛は、第一に、神さまの愛を指しています。原文のギリシア語では「アガペー」という言葉です。そしてそのアガペーなる愛が、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりの内に宿されていることを聖書は伝えてくれています。

アガペーなる愛。私なりに言い換えますとそれは「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」です。アガペーなる愛は、相手のことが好きか嫌いかを超え、相手の存在を重んじ、大切にするよう働くものです。

 

聖書は、神さまが私たちを愛するゆえ、私たちの存在を重んじるゆえ、独り子なるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださったことを語っています。またそして、イエス・キリストは、私たちを愛するゆえ――私たちの存在を極みまで重んじるゆえ、私たちのためにご自身の命を捨ててくださったことを聖書は証しています。

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネによる福音書1513節)。聖書は、このアガペーなる愛を私たちに伝えてくれている書です。

 

 

 

愛の反対は「軽んじる」こと

 

聖書が語る愛は、相手の存在を重んじ大切にすることだと確認しました。では、愛の反対は何でしょうか。「重んじる」の反対は、「軽んじる」ですね。愛することと正反対の姿勢は、相手の存在を軽んじることであると言えるのではないでしょうか。

私たちは人から「軽んじられた」と感じるとき、とても悲しい気持ちになります。とてもつらい気持ちになります。それは子どもも大人も同様です。これは私たち人間の内にある普遍的な感情であると思います。

 

もちろん、相手を不当に軽んじ傷つけることは本来、決してあってはならないことです。誰に対しても――たとえ心情的に好きになれない相手であったとしても、同様です。「愛する」とは、個人的には好きになれない相手であったとしても、その人を軽んじる言動は慎むことを自らの内で決意している、その姿勢を指すものでもあります。好きになれない相手でも、その人を軽んじたり、意地悪をしたりすることは、決してしない。そしてその決意と姿勢が、相手の存在を実際に「重んじる」ことへつながってゆきます。

 

いまの私たちの社会を見てみると、自分の好き嫌いや主観的な感情によって他者を軽んじ、傷つけることが至る所で生じている現状があります。そうして、傷を負った人がまた別の人に怒りの矛先を向け、相手を傷つけてしまう悲しい現象も生じています。「互いに互いを軽んじる」というこの悲しいの連鎖を、私たちはいかにしたら断ち切ってゆくことができるのか。これは、いまを生きる私たちが向かい合うべき喫緊の課題の一つであると思います。

 

 

 

《わたしは良い羊飼い》

 

改めて、本日の聖書の言葉をご一緒にお読みしたいと思います。ヨハネによる福音書1011節には次の言葉がありました。《わたしは良い羊飼いである》――。イエス・キリストがファリサイ派の人々に向けて語られた言葉です。

 

聖書では、神さまのことが羊飼いのイメージで表されることがあります。神さまは羊飼い、私たちのその羊の群れ。先ほど読んでいただいた詩編23編の冒頭にも《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。…》(詩編231節)とありましたね。

羊飼いは日本に住む私たちにはあまりなじみがないものですが、聖書の舞台であるパレスチナにおいてはとても身近な存在でした。

羊飼いは、群れをなす羊を守り、養い、導く存在です。時に応じて羊に休息を与え、食物と水を与えます。また、羊が迷い出ないように、穴に落ち込まないように、導きます。羊たちにとって、羊飼いの導きは不可欠です。

本日の聖所箇所では、イエス・キリストが私たちの羊飼いであると語られています。そして私たちはその羊飼いに守られ導かれる羊なのだ、と。

 

「良い」羊飼いとはどのような存在でしょうか。一匹一匹の羊を重んじ、大切にする羊飼いが、「良い」羊飼いであるでしょう。私たち人間で言い換えますと、一人ひとりの生命と尊厳を重んじる指導者が、「良い」指導者であると言えるでしょう。

対して、もし「悪い」羊飼いがいるとしたら、どのような存在でしょうか。一匹一匹の羊を軽んじ、大切にしない羊飼いが、「悪い」羊飼いだと言えるのではないでしょうか。言い換えますと、一人ひとりの生命を軽んじ、尊厳を軽んじる指導者が、私たちにとって「悪い」指導者です。

テレビをつけると、さまざまな指導者たちの顔が画面に映し出されます。いったい誰が、私たちにとって「良い」指導者であるのか、私たちは見極めることが求められているでしょう。

 

 

 

良い羊飼いは羊のために命を捨てる

 

本日の聖書箇所では、イエスさまは《わたしは良い羊飼いである》と語られた後、続けてこうおっしゃっています。《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》。

 先ほど、アガペーなる愛は、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」であると述べました。イエスさまは私たちを愛するゆえ、極みまで私たちの存在を重んじてくださるゆえ、その命までも捨ててくださる方であることが語られています。

事実、イエスさまは十字架におかかりになり、私たちのためにその命をささげてくださいました。それは私たちの存在を極みまで重んじてくださるゆえのことでありました。だからこそ、イエスさまは《良い羊飼い》であり、まことの羊飼いであるのです。

 

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。/羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――/彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。/わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。/それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる(ヨハネによる福音書1115節)

 

 

 

十字架上での「ただ一度きり」の犠牲

 

歴史上、「わたしのために生命を捨てろ」と人々に命令した指導者はたくさんいたでしょう。自分たちが属する組織や国家のために命をささげることを強要した指導者はたくさんいた(いる)ことでしょう。しかし、イエスさまはその真逆です。イエスさまは「あなたのために生命を捨てる」とおっしゃってくださいました。

アガペーなる愛を完全なかたちで実現することができる方は、ただイエスさまお一人のみです。まことの羊飼いはイエス・キリストただお一人のみ。そして私たち一人ひとりは、そのまことの羊飼いに導かれる存在です。

 

ここで、イエスさまは、「だからあなたも誰かのために生命を捨てろ」とおっしゃっているのではありません。「あなたという存在が決して失われることがないために、わたしが生命をささげる」とおっしゃってくださっているのです。それは、十字架上での、「ただ一度きり」の犠牲です。私たちの存在が失われることがないために、神の御子であるイエスさまが十字架上で「ただ一度きり」の犠牲をささげてくださったことを心に刻みたいと思います。

ですので、私たちはもはや、生命と尊厳を犠牲にする必要はありません。私たちがなすべきことは、イエスさまのこの大いなる愛と恵みを、ただ受け取ることだけです。

 

 

 

《その羊もわたしの声を聞き分ける》

 

16節をお読みいたします。《わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる》。

羊飼いは羊を守るために「囲い」を作ります。囲いの中にいる羊たちは、もはや迷い出ることはなく、安心です。けれども、ここでイエスさまは囲いに入っていないほかの羊も導かなければならない、とおっしゃっています。囲いの外にいる一人ひとりもまた、やはりイエスにとって大切な、決して失われてはならない存在です。そしてその人々は、イエスさまの声を聞き分けることができるのだ、と語られています。

 

羊たちはなぜ、イエスさまの声を聞き分けることができるのでしょうか。私たちの社会は、様々な声が飛び交っています。人を軽んじる、心無い声も無数に飛び交っています。あるいは、勇ましい言葉や感動的な言葉を巧みに織り交ぜて人々の関心を引こうとする声も飛び交っています。たくさんの声の中から、私たちはなぜ《良い羊飼い》の声を聞き分けることができるのでしょうか。それは他でもない、その声が、まことの愛から発されている声であるからです。私たちは、自分を重んじ、大切にしてくれている方の声は、はっきりと分かります。たとえ遠くから発されていても、多くの声に紛れているようであっても、はっきりと分かります。そしてその声が私たちに命を与え、力を与えます。

 

 

 

愛の声に導かれて、「互いに互いを重んじる道」を

 

 あなたという存在が決して失われることがないように。イエスさまはこの世界に来てくださいました。神の目にかけがえのない、あなたが決して失われることがないように。イエスさまは十字架におかかりになってくださいました。そして三日目に死よりよみがえり、いまも私たちと共にいてくださっています。私たちにアガペーなる愛を伝え続けてくださっています。

 

 

 まことの羊飼いなるイエスさまの呼び声にいま、私たちの心を向けたいと思います。そしてその愛の声に導かれて、私たちが「互いに互いを重んじる道」を歩んでゆくことができますように願います。