2022年7月17日「愛の実践を伴う信仰」

2022717日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編5239節、マルコによる福音書81421節、ガラテヤの信徒への手紙5211

愛の実践を伴う信仰

 

 

「パン種」への注意喚起……!?

 

いまお読みしましたガラテヤの信徒への手紙5211節の中で、わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです9節)との一文がありました。

 

パン種とは、パンを膨らませる酵母(イースト)のことです。何千年も前から、酵母をパンの生地に入れて、発酵させる方法が日常的に行われていました。パンの生地というのは、何も入れていない状態で焼いてもあまり膨らみませんよね(聖書には、あえて酵母を入れない『種なしパン』が登場します)。パン酵母を投入することによって、生地が発酵し、変化をしてゆきます。生地の温度が上がるにつれ、どんどん膨張し、ふっくらとしてゆきますね。わずかなパン種が、生地全体を膨らませてゆきます。

 

挽きたての麦の粉で作ったパン生地は、いまだ外界の影響を受けていない状態です。そこにパン種が投入されることによって、発酵をし始め、大きな変化をしてゆきます。そのように、私たち一人ひとりに大きな影響をもたらす教えや考え方のことが、パン種で表現されていると言えるでしょう。

 

種となるその教えが善いものであったらいいのですが、それが何か否定的な意図をもったものだとしたら、周囲は否定的な意味で、多大なる影響を受けてしまうことになります。この度のガラテヤの信徒への手紙においては、そのような、いわゆる「悪しきパン種」について言われているようです。《わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです》、だからそのような悪しきパン種に気をつけなさいと、注意喚起する意図でこの言葉が挿入されているようなのですね。

 

先ほど読んでいただいたマルコによる福音書81421節にも、《ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい》とのイエス・キリストの言葉が記されていました15節)。古代のイスラエルでは、時に、発酵は「腐敗や堕落」のイメージと結びつくものとされることもあったようです(レビ記211節、コリントの信徒への手紙一568節など)まっさらな生地に投入されるパン種が悪しきパン種であるか、そうではないか。私たちは見極めることが求められていると言えるでしょう。

 

 

 

割礼の有無についての問題

 

本日の聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙において、パウロが「悪しきパン種」とみなしていたのはどのような教えであったのでしょうか。教会の一員になるにあたって、割礼が必須の条件だとする一部の人々の教えをパウロは悪しきパン種とみなしていたようです。

ユダヤ教では古来から、男児が誕生して8日目に包皮の一部の切り取る割礼を施す習慣がありました。この外科的手術は宗教的な意味を併せ持つもので、神とイスラエルの民との契約の「しるし」であるとみなされました(創世記17914節)。ユダヤ教徒の方々はこの儀礼をいまも大切に継承し続けています。

 

パウロが生きていた時代も、やはり割礼はユダヤ人共同体において重要な儀式であるとされていました。そのような中にあって、パウロは、キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無はもはや問題ではないという新しい考え方を打ち出しました。パウロ自身はユダヤ教徒の家庭に生まれ育ったので、割礼は受けていました。一方、パウロたちの教会には、もともと割礼の習慣がないユダヤ人以外のメンバー(異邦人キリスト者たち)もいました。その人々はもはや新たに割礼を受ける必要はない、というのがパウロの主張でした。対して、教会の一員になるにあたって、ユダヤ人以外のメンバーに割礼を要求する考えの人々もいました。その意見の相違によって、教会の内部に深刻な対立と分断が生じていたようです。

 

そのような状況の中で、パウロは手紙に《わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです》との一文を記しました。この表現から、割礼を絶対的なのものとする教えが共同体の中で大きな影響力をもっていたことが伺われます。おそらく多くの人がその伝統的な考えの方に影響を受け、パウロの信仰理解とは《別の考え》10節)に至ってしまっていたのでしょう。

 

パウロがそこまで自分と異なる考えを「悪しきパン種」とみなし厳しく非難したのは、その教えが、イエス・キリストの十字架をなかったことにすることにつながるものと受け止めていたからです。割礼をはじめとする律法の実行によって正しい者とされるのであれば、キリストの死が無意味になってしまう221節)と考えていた。だからこそパウロは、キリストからいただいている大いなる愛と恵みに心を向けるよう、懸命に訴えたのです。54節《律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います》。

 

 

 

「正統」と「異端」という言葉

 

 その後のキリスト教の歴史においては、パウロの考えが「正統」なものとされました。割礼を必須の条件とする教えの方は、「間違ったもの」としてしりぞけられていったのですね。いわゆる「正統」と「異端」という言葉がありますが、パウロの教えは「正統」なもの(正しい信仰)として、対立していた人々の教えは「異端」として位置付けられていったのです。

 

 ただし、この「異端」という言葉を用いる際は、注意が必要です。「異端」はもともとはギリシア語で「党派」や「分派」を意味する言葉でしたが、初期キリスト教会の歴史において、次第に正統的なキリスト教信仰の枠組みの外に位置し教会を破壊するとみなされた神学的思想の呼称となってゆきました。

この「異端」という言葉は、侮蔑的・断罪的な意味合いが強い語であり、異端への反駁を目的として書かれた古代のキリスト教文書は論敵についての不正確な理解や偏見に基づいて書かれていることも多いものです。また、古代教会においては、信仰の枠組みを同じくする者同士でも、一つの教理の理解を巡って相手を「異端」として断罪することがなされました。本来同じ信仰を共有する仲間であるはずなのに、ある事柄の捉え方の違いから、相手に一方的に「異端」のレッテルを貼り切り捨てていってしまったことも、キリスト教の歴史において数多くなされてきたのですね。何が「異端」かそうではないかについての判断は、時代によって変わり得るものです。

 

よって、現代を生きる私たちは、かつて「異端」とされた教えを受け止める際、詳細な吟味と再検討が必要です。私としては普段、基本的に「正統」と「異端」という語は用いないようにしています。用いる必要がある場合、カッコつきの意味で、この語を用いています。

 

パウロが厳しい言葉を用いてまでして異なる教えをしりぞけたことには、重要な意味がありました。パウロをはじめとする初代のキリスト者たちの懸命なる働きによって、誕生して間もないキリスト教とその信仰理解の固有性が守られ、育まれていったのだと考えるからです。と同時に、いまを生きる私たちはパウロの論敵たちの教えを安易に「異端」と位置づけるべきではないでしょう。両者の間に横たわる相違は当時、互いにどうしても受け入れることができない深刻な相違でありましたが、大きな枠組みにおいては――神さまの大いなる愛のまなざしのもとでは――、信仰を共にする同志であったことに変わりはなかったのだと私は受け止めています。

 

 

 

いまを生きる私たちにとって「悪しきパン種」とは

 

 パウロが生きていた時代の教会においては、いわゆる「異端」的な教えが、「悪しきパン種」でした。いまを生きる私たちにとって、悪しきパン種とはどのようなものでしょうか。

もちろん、伝統的なキリスト教信仰の枠組みを大切に守り育むことは重要なことです。しかし、たとえ伝統的なキリスト教信仰に基づいていたとしても、その教会の中に、別の悪しきパン種が入り込んでしまうことがあるでしょう。

 

 ここで私たちの注意を向けたいのが、「カルト」の存在です。いわゆる「カルト宗教」と呼ばれる団体が、国内外に多数存在しています。大変残念なことですが、キリスト教系のカルト団体も、多数存在しています。

 

 この数日、安倍晋三元総理の銃撃事件との関連で、旧統一協会が社会的に大きな関心を集めています。現在は世界平和統一家庭連合という名称で活動しています。家庭連合(旧統一協会)は代表的なキリスト教系カルトの一つです。

 たとえどのような背景があったとしても、この度の銃撃事件のように、他者に暴力を振るいその命を奪うことは決してゆるされないことです。このような痛ましい事件がこれ以上続くことのないよう願います。それと同時に、私たち社会が家庭連合(旧統一協会)とその甚大なる被害の問題に向き合うこと、またこの度改めて浮き彫りになりつつある政治と旧統一協会の癒着の問題を追及してゆくことは重要な課題です。

 

 

 

「カルト」と「異端」の違い

 

カルト宗教についてはまた改めて礼拝後にご一緒に学ぶ機会を持ちたいと思いますが、「カルト」と「異端」とはまた異なるものです。「異端」というのは、先ほど述べましたように、信仰理解の相違がその判断の基準となっているものです。対してカルトは、その団体や組織において「人権侵害が行われているかどうか」が判断の基準となります。たとえある団体が伝統的なキリスト教信仰の枠組みからは外れていることを発信していたとしても、所属するメンバー一人ひとりの自由と主体性が尊重されているのであれば、それはカルトではありません。反対に、あくまで枠組みとしては伝統的なキリスト教信仰に基づいていたとしても、一人ひとりの主体性が尊重されておらず、所属するメンバーたちの人権が何らかのかたちで――経済的・肉体的・精神的に――侵害されているのであれば、その団体はカルト化していると言えます。カルト団体は人権侵害を行っているから問題なのであり、社会全体の問題として向き合わなければならないものです。

 

カルト団体が信者を自分たちに都合の良いように搾取するために用いる手法が、マインド・コントロールです。家庭連合(旧統一協会)はマインド・コントロールによって、信者の方々に家庭や人生が崩壊するほどの多額の献金をさせるようにコントロールしてきました。このように、個々人の自由と主体性を奪い、経済的・肉体的・精神的に著しい負担・苦痛を与え続けることは人権侵害であり、決してゆるされることではありません。

 

 

 

悪しきパン種 ~「人権を侵害する」教え

 

いまを生きる私たちにとって、このように「人権を侵害する」教えが、悪しきパン種であると受け止めることができるのではないでしょうか。言い換えますと、「人を大切にしない」教え、「その組織・団体の目的や利益ためには、他者を犠牲にしても良いとする」教え。これら悪しきパン種が私たちの社会にひそかに混入されるとき、それは否定的な方向へ、大きな影響力を持っていってしまうことになります。私たちはこれら悪しきパン種の存在を注意深く見極め、対応してゆくことが喫緊の課題として求められています。

 

いまも多くの方々がカルト宗教の被害に遭い、苦しんでいます。いま苦しみ痛みを覚えているそれらの方々の存在に心を向け、祈りを合わせてゆきたいと思います。また、近年はカルト宗教2世の方々の苦しみに、焦点があてられるようになってきました。この度の安倍元総理の銃撃事件を受けて、SNSでもカルト宗教2世の当事者の方々が悲痛な声を挙げています。その方々のためにいま私たちにできること、なすべきことを神さまに祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

《愛の実践を伴う信仰》 ~イエス・キリストの愛と恵みに根ざして

 

改めて、パウロの手紙の言葉をお読みいたします。ガラテヤの信徒への手紙56節《キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です》。ここでパウロは《愛の実践を伴う信仰》こそが大切であると述べています。私たちの信仰は、愛に基づいていることが重要だというのですね。

 

聖書における愛は、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」を意味します。このアガペーなる愛は、相手の存在そのものを重んじ、大切にするよう働くものです。

聖書が語るのは、神さまが私たちを愛するゆえ、私たちの存在を重んじるゆえ、独り子なるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださったということです。またそして、イエス・キリストは、私たちの存在を極みまで重んじるゆえ、私たちのために十字架の上でご自身の命をささげてくださったことです。

あなたという存在が決して失われることがないように。神さまの目にかけがえのない、あなたが決して失われることがないように。イエスさまは十字架におかかりになってくださいました。そして三日目に死よりよみがえり、いまも私たちと共にいてくださっています。私たちに愛と恵みを伝え続けてくださっています。

 

わたしたちがこのイエス・キリストの愛と恵みに根ざし、互いに互いを重んじる道を歩んでゆくことができますように。私たちの間から悪しきパン種を注意深く取り除き、一人ひとりの生命と尊厳がまことに大切にされる社会を築いてゆくことができますように願います。